№7 結婚という『契約』
なにをどう『おおむね理解』したのかはまったくわからなかったけど、無花果さんとしては納得のいく思考のトレースができたようで、すっかりソファでふんぞり返っている。
さっきので一体なにがわかったっていうんだ?
そもそも、こんなわかりやすい事故に『質問攻め』なんて、無花果さんはなにを考えてるんだ?
それは田舎女も同じく疑問だったらしく、ぽかんと間の抜けた顔をしている。嵐に翻弄されていきなり放り出されたのだから、当然だけど。
無花果さんは腹をかきながら、どうでもよさそうに田舎女に尋ねる。
「奥さん、ギブアンドテイクって言葉を知ってるかい?」
「……ぎ……ぎぶ……? おら、学がねえで、そったら難しい言葉は知らねだ……」
こんな簡単な言葉が本気でわからないらしく、田舎女はしきりに申し訳なさそうにしていた。
「もらった分は返す。返した分もらう。そういう健全な人間関係のことを言うのだよ。いわゆる、君の言う『支え合い』とかいうやつだ」
「……なんとなくは、わかるですだ……」
それで理解が及んだらしく、田舎女はうなずいて見せた。
しかし、無花果さんとしてはそれに満足はできなかったようだ。どうでもよさそうに見えて、どうでもよくないのかもしれない。
「うん、言葉の意味は理解したけど、『消化』はできていないみたいだね。今のは皮肉だよ?」
「……ひに、く……?」
「わからないのならば結構。奥さんの場合は、『求めよ、さらば与えられん』の方だね」
「……すんませんだ、わからないですだ……」
「ならば、わからないままでいたまえよ」
突き放したように告げる口調は、どこかあのタブンくんの事件を思い出させた。あのときも、無花果さんは依頼人に大して当たりが強かったから。
どうしてこんな無知な田舎女を相手に嫌悪感じみたものを抱いているのか。僕にはさっぱりわからなかった。
今回、無花果さんには無花果さんだけに見えているものがあるのだろう。それは、目下のところ死体の『本体』にしかわからない。
無花果さんはその思考をトレースしたのだから、理解できて当然のように見えるけど、実際のところはだれも真相はわからないままだ。
無花果さんだけが、すべてを見透かしている。
……毎度のことながら、またとんでもない結末が控えているんだろうな。今から『種明かし』をしてもらうのが待ち遠しい。
僕が必死に訴えかけて『種明かし』をしてもらうまで、無花果さんは一切の真相を口外しない。もしかしたら、僕が言わなければ真実はすべて闇の中に隠しておくつもりなのかもしれない。
しかし、僕は『記録者』だ。
『探偵』・春原無花果の軌跡をも、『記録』しなくてはならない。そのためには、どんな風に思考をトレースしたのかも把握しておかなければ。
だから、死体の『本体』を掘り出したあかつきには、しっかりと説明してもらおう。
無花果さんはぼんやりと耳の穴をほじりながら、
「まあ、『作品』を前にしたらいやでもわかるさ。自分の浅ましさってやつが」
「……あさましさ……?……お、おらは……」
「自覚していないようだから、先に言っておいたのだよ。せいぜい、こころの準備をしていたまえ」
浅ましさ?
無花果さんは、どこまでこの夫婦のことを深く理解しているのだろうか。少なくとも、今の僕には『浅ましさ』に含まれる意味がまったくわからない。
わからないことだらけのまま、無花果さんは今度は僕に水を向ける。
「ああ、小生、やっぱり結婚はしたくないなあ。まひろくんはどうだい?」
「僕ですか?」
急に尋ねられて、僕は虚を突かれたようにきょとんとしてしまった。
少し考えてから、
「……できる相手がいるなら、したいですけどね」
今のところ真性童貞の僕には、彼女すらいないのだけど。
それでも、やっぱりいつかは家庭を持ちたいとは思っているし、好きなひととずっといっしょに暮らしたいと思うし、できるのならば子供もいてくれたらいいなと思っている。
「ぎゃはは! 小生、まひろくんとなら結婚してもいいかな!」
「……勘弁してください」
なにが面白くてこんなひとを人生の伴侶にしろというんだ。そんなデッドボールを食らったら、どう考えても僕の人生はめちゃくちゃになるに違いない。
「えー、つまんな! せっかくのプロポーズだというのに、君って男はつくづくつまんないね!」
「あいにく、人生を棒に振るつもりはありませんから」
「うっわ、けっこうな言い様!」
そう言いつつも、無花果さんは愉快そうに笑っている。
「まあ、それはそれとして。家庭を持ちたいのならば、もちろん家族のためにすべてを捨てるという覚悟はあるのだろうね?」
考えたこともなかった。
でも、言われてみればその通りだ。
結婚するということは、この田舎女の言う通り支え合っていくパートナーを作るということ。もちろん、大切なものを得るかもしれないけど、そのためには家族のために身を粉にして働いたり、時間を作ったり、協力して家事をしたりしなければならない。
いや、話はそんな浅い次元ではない。
それこそ、相手のために人生を棒に振る覚悟があるかどうかだ。
結婚すれば、もうひとりだけのからだではない。それはなにも、妊婦にのみ使われる言葉ではないのだ。
簡単に生きていけないし、簡単に死ぬこともできない。
結婚とは、自分の人生に、いのちに、伴侶という理由をつける契約なのだ。ひとりきりで生きてはいけないし、死ぬにしたってそれなりのわけが必要になる。
『ひとりじゃない』という言葉はよく美談として語られるけど、実はそんなにきれいなものではないのだ。
紙切れ一枚で成立する契約なのかもしれないけど、それはこの事務所の契約書と同様、悪魔との契約なのかもしれない。
……願わくば、天使と契約したいものだけど。
「……それは、相手次第ですね」
よく考えた後に僕が答えると、無花果さんは、ぽんと膝を打って笑った。
「ぎゃはは! たしかに! つまらない模範解答をありがとう、まひろくん!」
「褒めるか貶すか、どっちかにしてくださいよ」
「いいや、褒めてるよ!? つまらないのは、その相手に小生を選んでくれないということさ!」
「なんでそんな自殺行為を提案してくるんですか。僕の人生をなんだと思ってるんですか?」
「それもけっこうな言い様だと思うけどねえ! きっと楽しいぞう、小生と結婚したら!」
「退屈はしなさそうですけど、なにか大切なものを失うような気がします」
「尊厳の問題なのかい!?」
「だいぶ尊厳の問題です」
「えー、楽しいのになあ、小生との結婚生活! 野球チームを作れるような大家族にしようぜ! 小生とまひろくんの子供なら、きっと悪魔のような子になるに決まっている!」
「そこは天使ではないんですね」
「当たり前さ! いっそのこと魔王を産むよ小生は!」
「大丈夫です。もう無花果さんn自体が魔王みたいなもんですから」
「ふふん、世界の半分はあげないよ? インドならあげるよ! カレーがおいしいぞう!」
「つつしんで辞退申し上げます」
なにやら話がこんがらがってきたのできっぱりと断っておく。念のため、休みの日に婚約不受理届でも出しに行こうか。無花果さんならやりかねないから。
そんなことを話しているうちに、だんだんと僕の中の違和感が輪郭を得ていった。まだうすらぼんやりしているけど、なんとなくその正体がつかめた気がする。
ギブアンドテイク。支え合い。
夫婦生活に不可欠なその精神が、この田舎女には足りていないのだ。
もらうばかりで、返していない。
死んだ後も、もっとよこせと言っているのだ。
……なるほど、『浅ましい』とはそういうことか。
気づきを得たところで、もう死体の『本体』は死んでいるのだけど。
だんだんと僕まで結婚したくなくなってきた。
ちょっとげんなりしながら、僕はあたふたと交互に僕たちの顔を見ている田舎女を眺めるのだった。