№5 炭鉱夫のエロ漫画
「……ふうん」
いつの間にかソファの隣に座っていた無花果さんは、どうでもよさそうに鼻をほじりながらつぶやいた。
「いいんじゃないかい、そういうのも。ひとつの『生き方』としてはアリだと思うよ」
いつものハイテンションはどこへやら、まるで気のない話しぶりだった。
……無花果さんも、なにか思うところがあるのだろうか?
依頼人を前にして、こんなにもドライというか、冷淡な対応をする無花果さんは初めて見た。いつもなら、よろこび勇んでうれションする駄犬のように飛びかかるはずなのに。
無花果さんは取れた鼻くそを、ぴっと飛ばすと、テーブルの上の『パーツ』を持ち上げてあちこちから観察する。
「……ところで、『本体』はもしかして、絵描きかなにかだったのかい?」
無花果さんのその言葉に、田舎女はどこか図星を突かれたようにはっとして、バツが悪そうに答える。
「……へえ……漫画を、描いてたようですだ……よくそこまでわかるだな……」
「手なんて情報量の多い『パーツ』、ちょっと見ていれば、こんなことくらいはすぐにわかるよ。それで、『本体』はどんな漫画を描いていたんだい?」
無花果さんが尋ねると、田舎女はますます身の置きどころがなさそうにもぞもぞとして、
「……その……娘っ子が……」
「どうしたんだい? 漫画だって立派な芸術だよ?」
「……だって……!」
くちびるを噛み締め、膝の上で握るこぶしにちからが入る。そして、田舎女はとうとうヤケクソのように白状した。
「……娘っ子がえっちな目さ遭うような漫画だど……!?」
「おおおおおおおおおおおおおお!!」
その瞬間、無花果さんのテンションがマイナスから一気にメーターを振り切った。
『パーツ』を大事そうに抱えて、鼻息荒く田舎女に詰め寄り、
「エロ漫画家! エロ漫画家じゃないか! 実在していたのだね! いやあ、小生いっつもお世話になっているでござるよ! 二次元でしか摂取できないエロ養分というのはたしかに存在するからね! 小生なんかよりもずっとたくさんのひとのこころを救う尊い職業だ! 素晴らしい! ハラショー!!」
「……いや、先生なんて呼べやしねえ、素人ですだよ……わだすは初めて見て、びっくらこいて、それからは読んだことねえですだが……きっと、へたっぴだったに違えねえ……」
「下手だろうがなんだろうが、エロを描きあげようとするその黄金の精神が神々しいのだよ! おのれのリビドーをケント紙につけペンで叩きつける! いやあ、実に気分爽快だ! 実際のところ、小生はそういう『表現者』こそをリスペクトするね! 飾らないハレンチ、ナマの衝動! ああ美しい!!」
「……ですだが、漫画家先生にはなれませんでしただ……お金さ稼げるなら、それで良かっただけんども……才能さなぐで、ずうっと素人のままごと遊びで……昼は炭鉱夫やってて、夜のうちにこそこそなにか描いてただが……そんなもん、なんの足しにもなりゃしねえだ……」
次の瞬間、無花果さんの動きが、ぴたっと止まった。
またしてもテンションがマイナスにまで下がる。このひとは、情緒をジェットコースターにでも乗せているのだろうか。
「……なるほど。それで奥さんは、『本体』のエロ漫画を応援しなかったと?」
「……んだ……生活の足しさなんねえもんは、おまんまにもなんね……何度もやめてけろって言っただが、どうしても夜起き出してなにか描いてただ……あんな、ひとさまさ見せらんねえような、恥ずかすもん……」
田舎女は、『本体』がエロ漫画を描くことを恥だと思っていたようだ。どころか、飯の種にならないなら辞めろとまで言っていたらしい。
……悩ましいところだ。
たしかに、無花果さんの言う通り、エロ漫画だって立派な『表現』のひとつだ。自分の性衝動を『消化』して、『排泄』するのだから、無花果さんの『作品』となんら変わりはない。
どころか、法的にセーフなだけエロ漫画家の方がどれだけマシなんだろうというレベルだ。
たとえアマチュアであっても、自分の内側をさらけ出して『表現』する。それをだれかに見てもらう。そして、その『排泄物』に価値を見出してもらう。その過程には、プロもアマも違いはない。
しかし、問題は非常にセンシティブだ。
特に田舎では顕著だろうけど、現代日本人は性的な物事に対して忌避感を覚えることが多い。だれもかれもがセックスの果てに生まれてきたのに、おかしなことだけれども。
性を題材にした、しかも漫画だなんてものは、汚物のように扱われても仕方がないのだ。
最近ではだんだんと市民権を得てきたけど、一昔前はオタクが性犯罪を犯した、だなんてメディアが盛んに取り上げていたくらいだ。
エロ漫画=オタク=キモい犯罪者。
田舎ではそれくらいの認識があっても、おかしくはない。
夫がそんなものを夜な夜なこっそりと描いているだなんて、とてもじゃないけどこの田舎女は認めたくなかっただろう。しかも、世に出すつもりがあったのかどうかはわからないけど、それで稼ぐというようなプロでもない。
カメラのレンズやフィルムと同じように、エロ漫画家にだって画材が必要だ。たしかに特別お金がかかるようなものではないけど、それでも貧しい家計にとっては確実にダメージになる。
どれだけきつく『辞めてくれ』と言ったのかはわからない。ただ、ちょっとした提案程度のやわらかさでないことくらいはわかった。
下手をすると、『表現』を全否定するような場面もあったかもしれない。
無花果さんの『死』の『表現』も同じようなものだ。
たいていのひとは、眉をしかめる。唾棄すべきおこないだと斬って捨てる。
しかし、残ったひとたちがその『排泄物』に共鳴して、それで『表現』が成り立つのだ。
プロとしてやっていくこともできず、妻にまで否定されて。
『観測』されない『表現』は、さぞ孤独だっただろう。
そんなことを考えていると、また鼻をほじっていた無花果さんが鼻くそを飛ばして、
「……ふうん。まあ、話を聞こうじゃないか。奥さんには、これから小生がする質問すべてに、正直に答えてもらうよ。たとえそれがどんな質問であってもね」
……ここへ来て『質問攻め』?
事故で死んでいることははっきしりしていて、その死因もありかもわかりきっていることなのに、なぜ今さら。
無花果さんの意図が読めずに、僕は静かに混乱した。
……しかしそれでも、無花果さんと同じようにまだまだこの田舎女の話を聞きたい、という思いが僕の中にあるのもたしかだった。
事態は、もしかしたらそんなに簡単なことではないのかもしれない。
死体探しは簡単でも、『創作活動』に関する情報はなにも得られていない。
そのためには、『本体』が死ぬまでの思考をトレースする必要がある。たとえそれが明白な事故であっても、『死に様』を思い描かなければ、『作品』は作れないからだ。
無花果さんとしても、気が進まないだろう。
けど、きちんと聞いておかなければならない。
聞いて、その軌跡をたどらなくてはならない。
そうした結果、無花果さんはやっとひとつの『死』を『消化』して、『排泄』できるのだから。
……今回は、『探偵』・春原無花果としてではなく、『死体装飾家』・春原無花果として、この事故に挑むつもりなんだろうな。
まあ、僕も『記録者』としてそれに同行するわけだけど。
あと、今回は土砂をかき分けて死体を探すという重労働も、覚悟しておかなければならない。
……それとも、無花果さんはこの事故に納得できない部分があるのだろうか?
……いやいや、こんなわかりやすい事故に、疑問なんて差し挟む余地はない。
そう自問自答しながら、僕は『質問攻め』が始まるのをじっと待つのだった。