№10 生還者
僕が闇医者に転がり込むまで、三笠木さんはなんとかいのちを繋いだ。
即座に集中治療室らしきところに収容され、あちこち縫ったり切り開いたり輸血したりと、手術は一日ほど続いた。
その後も予断を許さない状態が続き、手術が終わっても昏睡状態だった。
この一週間、何度も『今夜が峠だ』と言われた。たぶん、毎日言われていたと思う。
その最後の峠が過ぎ去ったのが、今朝の明け方だった。
さすがに僕もつきっきりで寝不足だったので、三笠木さんが眠るまっしろなベッドに突っ伏してうとうとする。ぴ、ぴ、と心電図が鳴る音が一定のリズムで流れていて、なんだか無性に安心して眠くなってしまう。
一週間、面会謝絶状態だった。
運び込んだ僕だけは付き添うことを許されて、所長に事の顛末を説明すると、そばにいてあげて、とだけ言われた。
毎晩毎晩、いつ死んでもおかしくない状態が続いた。
……いや、ここへ運び込まれた時点で、死んでいて当然の状態だったのだ。峠くらいいくらでも越せると、僕はどこか三笠木さんの生命力を、いのちを信頼していた。
ああ、また眠気の波がやってきた。ものすごくうとうとする。
少し眠ろうか、と思っていたそのときだった。
人工呼吸器と各種チューブに繋がれた三笠木さんが、うっすらと目を開ける。どこかまぶしそうに眉根を寄せて、状況をよくわかっていない様子だった。強い麻酔を使っているせいもあるだろう。
これもまた、見たことのない顔だった。
あれだけの殺戮劇を繰り広げた『モンスター』とは思えない、どこかあどけない顔をしていた。
「…………おはようございます」
「おはようございます」
こんなときでさえ、三笠木さんの第一声は定型句の挨拶だった。少し呆れた笑みを浮かべながら、僕はそれに返答する。
三笠木さんは、自分に繋がれた様々な医療機械や手術痕、上手く動かないからだ、茫洋とする意識で、素早く状況を判断した。
ほう、と人工呼吸器のマスクの中でため息をつくと、
「……おそらく、私はまた死に損なって……いや、生き残って、しまったようです」
「はい、さいわいなことに」
もう、三笠木さんは『死に損なった』とは言わなかった。『生き残った』のだと、そう言った。
戦場が死に場所だとは、もう思わなくなっていた。
自分が死ぬべき場所は、そこではないと。
今はどんな慰めの言葉も、よろこびの言葉も上滑りするだけだろう。僕は、端的に状況を説明することにした。
「一週間経ちました。所長たちには連絡してあります。あれから闇医者に運び込んで、手術をして……七回くらい、死にかけてましたね」
「……私は、死にませんでした」
「はい。ただ、左腕に少し麻痺が残るらしいです。それ以外はだいたいクリア。ぞうきんみたいに縫われてましたからね」
「ならば、問題ありません。私は右手があればナイフが握れます。また、キーボードを打つことに関しても、多少の麻痺ならば問題ありません」
……やっぱり、いつも通りだ。とても昨日まで死にかけていた人間の言葉とは思えない。
つい、ふっと吹き出してしまった僕を、三笠木さんは不思議そうな目で見つめた。
少しの沈黙があって、心電図の電子音だけが病室に鳴り響く。
「……リンゴ、食べますか?」
「……リンゴ、ですか」
僕が提案すると、三笠木さんはきょとんとした。一週間も点滴だけで生きてきて、ものを食べるのも久しぶりだ。
寝たきりになって、内蔵も筋肉も衰弱している。今の三笠木さんは、あのときよりもずっと弱々しく、幼く見えた。
僕はベッドのそばに置いたダンボールをごそごそしながら、
「ええ。ほら、牧山蓮華のとき、無花果さん入院したじゃないですか。そのときの腹いせのように、リンゴばっかり大量に送ってきてるんですよ」
「……なるほど」
「いきなり固形物じゃ、胃腸がびっくりして吐いちゃうでしょうから、すりおろしますよ。目が覚めたら、少しでもなにか食べた方がいいって医者も言ってましたし」
「……でしたら、お願いします」
……そこは拒絶しないんだな。
どうやら、僕はずいぶんと三笠木さんのふところの奥深くまで入れてもらっているらしい。
僕はナイフでリンゴをむくと、いっしょに送られてきたおろし金でリンゴをすりおろし、スプーンといっしょに小さな器に流し込んだ。
器を手にベッドサイドに戻ってくると、丸椅子に座ってスプーンですりおろしリンゴを三笠木さんの口元へ持っていき、
「はい、どうぞ」
「……これはなんですか?」
包帯まみれの人差し指でスプーンを指さして、三笠木さんが不思議そうにする。
「いや、なに、って……まだロクに動けないでしょう。しばらくは食事の介助もしますから」
「……ああ、そういうことでしたら、お願いします」
そう言ってから、三笠木さんはおずおずと縫合痕まみれのくちびるを開いた。その口に、そっとスプーンに乗せたすりおろしリンゴを、ぼんの少しだけ入れる。
久しぶりに味覚を刺激されて、きっとリンゴもものすごく甘く感じているはずだ。しばしずたずたになった口の中でリンゴを味わったあと、三笠木さんは苦労して飲み下した。
「……大丈夫そうですか?」
心配になって尋ねると、三笠木さんは少し苦しそうな顔をして、
「……問題ありません」
どうやら、吐き出したりはしないようだ。苦しいだろうけど、ここで踏ん張らないと食事の経口摂取のハードルが上がってしまう。
僕は何度かスプーンを三笠木さんの口元に運び、なんとかリンゴ一個分を食べさせることに成功した。これで止まっていた消化器官も動き出すだろう。
お腹が膨れて、三笠木さんはまた眠りに入ってしまった。そろそろまた点滴を変える時間だし、医者に目を覚ましたことを報告しなければならない。もちろん、事務所にも一報を入れるつもりだ。
ひとまず、これで安心だ。
三笠木さんは、なんとかぎりぎりで生き残った。
そもそも、無事な臓器なんて、脳みそ以外になかったのだ。闇医者も、よく生きてるね、なんて言っていた。
それくらい、生きていることの方が不思議な状態だったのだ。
無茶を超えた無謀を、このひとは生還した。
『魔女』の『庭』に帰る、ただそのためだけに。
『モンスター』として死ぬのではなく、ニンゲンとして死ぬことを選んだ。
……とはいえ、あの状況で生き残るあたり、やっぱりこのひともたいがい『モンスター』だ。
結局、『最終兵器』は『最終兵器』なのだ。
それ以上でも以下でもない。
……寝顔を観察した。心臓がマトモに動いて、少し血色が戻ってきたか。息をするたびに人工呼吸器のマスクが曇るので、肺も再起動している。一週間も動けなかったせいで、無精髭が生えていた。所長と同じような感じになっているなんて言ったら、三笠木さんはきっと眉を一ミリほどひそめるだろう。
しかし、こうして静かに眠っていると、幼いというかあどけないというか。このひとの寝顔なんて、大阪出張のときにちらっと見たくらいなので、こんな顔をして眠るのかとついまじまじと見つめてしまう。
……なにか、足りないような気がした。
ああ、そうか。メガネだ。
いつも神経質そうに位置を直していた、鋭すぎる眼光を隠すようなメガネがない。
だから、なんだか物足りなかったのだ。
……ひと息ついたことだし、一旦事務所に帰ろう。
所長たちに無事を報告して、それから予備のメガネを持ってこよう。
面会謝絶の状態は続くだろうから、やっぱり病室に入れるのは僕だけだろうけど、リンゴは絶え間なく送り付けられてくるんだろうな。
それと、僕も一日くらいきちんと眠りたい。
正直、今にも眠り込んでしまいそうだ。
「……おやすみなさい」
ほほえんでそう告げると、僕はふらりと丸椅子から立ち上がるのだった。