№3 AIがバグる日
その翌日から、三笠木さんの様子がおかしかった。あの『最終兵器』の様子がおかしいというのだから、よっぽどのことだ。たとえ明日地球が消滅してしまおうとも、変わらずキーボードを叩き続けているであろう三笠木さんが、だ。
まず、タイピングそのものがおかしかった。
いつもならすらすらと途切れることなく続くタイプ音のリズムが、狂っていた。
タイプミスを連発しているのだろう、時折止まってはやり直し、また止まってはやり直しを繰り返す。キーボードなんて三笠木さんが年がら年中使い続けているものだ、それをミスるなんてよっぽど意識がとっ散らかっているのだろう。
窓を拭いていると、珍しく三笠木さんから声がかかった。
「日下部さん、私にコーヒーとブドウ糖のタブレットを買ってきてくれませんか?」
「あ……はい、お使いですね」
いつもなら、ちょうど僕が所長に電子タバコのお使いを頼まれるタイミングで『ついでに』頼むはずなのに、今日は格段に消費が早い。
缶コーヒーはとうの昔に空になっており、もうカフェインが切れ始めている段階なのだろう。眉間にわずかにシワが寄っている。内心そわそわしているに違いない。
お使いを済ませて缶コーヒーとタブレットを渡すと、どこかほっとした様子で口をつけていた。
さらには……
「おい、ちょっと暗室にツラ貸せ」
無花果さんが三笠木さんをあごでしゃくる。どうも、『調律』が必要なタイミングらしかった。
しかし、三笠木さんは少しうつむいて、
「それは急を要するものですか?」
「はあ?」
「今現在不急ならば、今日はやめておきましょう」
「小生からのお誘い、いっちょまえに断るってのか?」
「私には事情があります」
「だーかーらー! 事情があんなら説明しろっつってんだろ!」
「黙秘します」
……それっきり、黙ってしまった。
今まで、無花果さんの『調律』を欠かせたことのない三笠木さんが、乗り気でない?
同じ男として、ナーバスになっている状態での行為は不可能であるということはわかる。たとえ童貞であっても、ついているものは同じだから。
しかし、それほどまでに追い詰められている理由はわからなかった。あれほど執着していた『調律』という行為すらも遠ざけてしまうような心理状況とは、どういうものなのか。
そして、所長のところに書類を持っていくときでさえ、なにもないところでつまずいていた。さすがに転びはしなかったものの、足運びがおぼつかない。
「あれー、どうしちゃったの三笠木くーん?」
「……問題ありません」
「いやいやー、もしかしてなんか体調悪いー? 今日早退してもいいよー」
「いえ、私は正常に機能しています」
「そうかなー?」
所長はそれ以上突っ込まなかったけど、明らかにおかしい。あの『最終兵器』がなにもないところでつまずくことなど、本来ならあってはならないことなのだ。身体機能云々の問題ではない、これは精神的な問題だろう。
……今もまた、デスクから書類の山をこぼしている。
「ぎゃはは! とうとうバグったか、人工無能!」
喧嘩上等、とばかりに無花果さんが嘲笑って見せても、三笠木さんはうんともすんとも言わなかった。
それにかちんと来た無花果さんは、わざわざデスクに乗り上げて仕事の邪魔をする。
「なんとか言えよ、AI野郎!」
「そうです、私は機械です」
「……はあ?」
「あなたの言うとおり、ただの人工無能です」
「んだあ? おちょくってんのかあ!? いいかGoogle翻訳崩れ、てめえもうちょいしゃきっとしろ! でないと張合いがねえんだよ!」
「あなたは私とディベートがしたいのですか?」
「ディベート! ディベートと来たか! そんなお上品なもんなんて要らねえんだよ! なんなら昭和のテレビみたく頭ぶん殴って直してやっから、表出ろやこるぁ!」
「もしかしたら、私はそうするべきかもしれません」
「はあ!?」
「今の私は欠陥品です。たとえそれが乱雑であろうとも、私には修理が必要なのかもしれません」
「……いや、ホントにバグってんのかてめえ? それか新手の嫌がらせか?」
「少なくとも、私はあなたに嫌がらせをしていません」
「……ちっ、つまんねえ!」
無花果さんは舌打ちをすると、シラケた様子でデスクからどいて、不機嫌そうにソファに腰を下ろした。
休憩をしていた僕は、いい機会だと無花果さんにそっとささやいた。
「……どうしたんでしょうね、三笠木さん」
「しーらね! 小生、そんな瑣末事に興味ござらんし!」
その割には、三笠木さんの不調にだれよりもいらだっているのは無花果さんだ。今もふてくされた顔で小鳥くんが入れてくれたお茶を飲んでいる。
「……くにはる、今日はおかしい……」
「小鳥くんもそう思いますよね」
「……心音が、乱れてる……いつもなら、BPM60ぴったりなのに……腹式呼吸も、できてない……」
小鳥くんらしい分析だった。三笠木さんは、どうやら鼓動まで規則正しいらしい。
「小生の貴重なおもちゃのクセして、勝手にバグってんじゃねえよ! ああ、つまんないねえ!」
「もしかして、昨日の生徒さんとの話で、なにかあったんじゃ……?」
僕たちには聞かせたくないような話をしてきた。ガラの悪い元生徒、そっけない態度、そして今日の不調……すべては繋がっているような気がした。
なにかがあった。
あの『最終兵器』でさえ動揺するような、なにかが。
そして、それはきっと良くないことだ。
……そんな予感があった。
たしかに、三笠木さんはちゃんと帰ってきた。
けど、こころはどこかに置き忘れたままになっている。
だから、こんなにも上の空なのだ。
あの男は、僕たちにも関係があることだと言っていた。
きっと、三笠木さんは僕たちのことを巻き込みたくないのだろう。だから、話を聞かせたがらなかったし、事情を話そうとしない。すべて自分で背負い込もうとしている。
……なんだか、水くさい。
同じ『庭』の住人なのに、今さら関わるなという方が酷なことだ。
三笠木さんの過去は、はっきりと聞いたことはなかった。土足で踏み込んでまで聞き出そうとも思わない。
けど、ピンチのときくらいは頼ってくれたっていいんじゃないか。
僕たちはみんな、『共犯者』なんだから。
無花果さんは呆れたようなため息をついて、
「さあね。あの男にお金の無心でもされたか、やまいの母親がいるだとか、妻と8人の子供が飢えているとか、壺や御札を買わないかとか、いい洗剤があるとか、どこそこの党に票を入れろだとか、そういうことを言われたんだろうさ」
「……それくらいだったらいいんですけど……」
なんとなく、そういう話ではないような気がする。ことはもっと深刻だ。
僕たちにも関係すること、というのがどうしても気になった。つまり、あの男はこの事務所のことを知っていたということだ。さらには、無花果さんや僕がなにものなのかまで。
その上で、わざと聞こえるように『関係のある話』だと三笠木さんに告げた。
作為しか感じられない。
不安が、雷雲のようにどんどん垂れ込めていく。
「ともかく! あいつ、口割らないってんならぜってー割らないタイプだから、なに聞いても無駄さ! 小生たちは指をくわえてじっと見てろってことだろう、おファックなことにね!」
口汚く罵る無花果さんも、どこか調子が狂っているらしく、声に張りがない。口喧嘩の相手がダメになると、本人も釣られてしまうようだ。
……なにごともなければいいんだけど。
決してそうはならないという確信めいたものを抱きつつ、僕はそう祈らざるを得ないのだった。




