表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
187/223

閑話7

「まっひろくーん!」


 ソファでカメラの雑誌を読んでいると、いつも通り無花果さんが横あいから抱きついてきた。カメラマンなので、やっぱり紙媒体で読みたいという信条があって、定期購読している雑誌だ。


 もう慣れたもので、僕は動じることなく雑誌を読み続けた。ノーリアクションだ。


「ねえねえまひろくん、ジェンガでもして遊ぼうよ! バベルの塔に神のいかづちを落とそうよ!」


「後にしてくださいね」


「なんだいなんだい! つまんねえでござる!」


 ぷくっと頬をふくらませるのもいつものことだ。


 しかし、無花果さんは一瞬動きを止めて、僕のことをじっと見つめてきた。


 そして次の瞬間には、すんすんと鼻を鳴らして首筋を嗅いでくる。


 さすがにそれは想定外だったので、雑誌を取り落としてしまった。


「な、なんですか?」


 首筋にかかる生あたたかい吐息にぞくっとしながら、上擦った声で尋ねる。


 すると、無花果さんは一言だけ声を上げた。


「いいにおいがする!」


「におい?……ああ、香水、変えましたから」


「きみ、香水なんてつけてたのかい?」


「ええ、普段は柔軟剤みたいなやつなんですけど」


 一応、僕はオシャレなイマドキのワカモノなのだ。香水くらいいいじゃないか。


 また『童貞のくせに色気づきやがって!』などと言われるかと思ったけど、意外と無花果さんはその香りが気に入ったようで、しきりに首周りを嗅いでいる。


 ……なんだか、初対面のニンゲンと遭遇した犬みたいだな……


 しばらく、嗅がれるがままにじっとしている。噛まれたり舐められたりするよりはマシだけど、これは……


 ふと、顔を上げた無花果さんと、ばっちり目が合う。


 とろんととろけた目で見つめられると、どうにも尻の据わりが悪い。そわそわしてしまうというか。


「……いいにおいだ……!」


「気に入ったんですか?」


「なんだか、安らぐのだよ!」


「ああ、ミルク系のやつですからね」


「どんな香水なんだい?」


「モルトンブラウンってブランドの、ミルクムスクって香水で……ミルクがメインで、ラストノートにムスクって感じですね。僕みたいな若輩者でもつけられるムスクです」


「ほうほう! いいにおいの正体はそれか! たしかにミルクだ! 首からにおいがするのだけど、他にはどこにつけているんだい?」


「太ももにもちょっとだけ」


 すると、無花果さんは急に僕の膝の上にごろんと頭を乗せてしまった。いわゆる膝枕の状態だ。


「……なにしてるんですか?」


 呆れて問うと、無花果さんは、へへと照れくさそうな笑みを浮かべて、


「いやあ、このにおいがすると眠くなっちゃってねえ!」


 それだけ安心するということだろうか。ミルクなんて、赤ちゃんの飲み物だ。無花果さんはどうやら赤ちゃん返りしているらしい。


 止める間もなく、無花果さんはそのまま目を閉じてしまった。長いまつ毛が伏せられて、影が落ちる。


「……ああ、眠いなあ」


 そして、言うが早いか、そのまますやすやと寝息を立て始めた。のび太くん並の寝付きの良さだ。


 普段からロクに眠っていないであろう無花果さんは、よく事務所で眠っている。なにがいいって、寝ている間だけは静かでいい。


 それに、眠っている無花果さんはただの美しい女性だ。スリーピングビューティー、と言うのだろうか。ただただ、死んだように眠る。


 ……死んでいるのと同じように。


 なんだか、急に不安になってきた。


 無花果さんが死んでしまったらどうしようと、胸がざわざわし始める。


 そりゃあ、無花果さんだって一応はただのニンゲンだ。いつかは死ぬに決まっている。


 けど、死ぬときは今じゃない。


 無花果さんはきっと、死ぬべきときにちゃんと死ぬようなニンゲンだ。いのちを無駄遣いしないで、終わるときは終わらせる。


 その破滅が、遠い未来であることを切に願う。


 そして、せめてその最期は僕が看取ることができたらと。


 ……今は、今だけは、ステキな夢を見ていてほしい。ミルクムスクの香りに包まれて、赤ちゃんだったころを思い出して、すやすやと眠っていてほしい。


 あどけない可憐な寝顔のくちびるに、僕はこっそりと触れるだけのキスをした。


 だれも知らない、『相棒』からの祝福の口づけだ。


 僕は、無花果さんとセックスをしない。


 けど、その分キスをする。


 これが『愛』だと、胸を張って言える。それだけの思いを込めて。


「……きれいですよ、無花果さん。おやすみなさい」


 起きている間は絶対に言わないことを告げて、僕は無花果さんを膝に乗せたまま、再び雑誌を読み始めた。


 ……あとで、ヨダレで膝がびしゃびしゃになっていたのは、まあご愛嬌だ。







 無花果さんが『いなくなって』から、もう二十年が過ぎた。僕ももうワカモノではなくなって、立派なオジサンだ。


 二十年というのは長いようでいて短い。つい先日まで事務所で毎日バカ騒ぎをしていたように感じるし、遠い黄金時代だったような気もする。


 ……ともあれ、すべては失われてしまった。


 パラダイス・ロストは、訪れてしまったのだ。


 そんなことを考えながら、僕はカメラを下げて街の雑踏を歩いていた。新しい素材のフィルムが出たので、その展示会に招待されているのだ。


 がやがやと騒がしい道を歩いていると、ふと鼻につくものがあった。


 一瞬で、意識が過去に引き戻される。


 ……ああ、これは。


 モルトンブラウンの、ミルクムスクの香りだ。


 街を歩いているだれかがつけているのだろう、僕がつけていたのと同じ香水のにおいが、どこからか香ってきた。


 思い出が、せきを切って脳内に押し寄せてくる。


 あの日の無花果さんのあどけない寝顔。


 秘密のキス。


 『おやすみなさい』の言葉は、もう別の響きを帯びている。


 遠い昔の、傷跡のように消えない記憶。


 そんなものを無理やりに呼び覚まされて、僕はついその場に立ち尽くしてしまった。


 ……やめてくれ。


 無花果さんはもう、いないんだから。


 こんなの、まるで『呪い』みたいじゃないか。


 香りで感じる、これはたしかに『魔女』の『呪縛』だ。


 吐息を、鼓動を、体温を、笑顔を、騒がしさを、そして最後に言葉を交わしたときのことを、鮮明に思い出してしまう。


 ……ああ、無花果さんはもう、いないんだな。


 当たり前のことを、こんなところで突きつけられるだなんて思いもしなかった。


 あのとき、僕は無花果さんの美しい寝顔にシャッターを切らなかった。その代わり、眼球というカメラで脳というフィルムに、しっかりと焼き付けた。


 キスをして、五感で無花果さんをこのからだに刻み込んだ。


 ……忘れられるものか。


 もう、この場所にはいられない。まだミルクムスクの香りが鼻に残っている。


 そうだ、珈琲店に行こう。


 カフェインの強いにおいで、この香りごと無花果さんの思い出を忘れてしまおう。


 ……絶対に、絶対に忘れられはしないとわかっている。


 けど、今は思い出さないでいたい。


 展示会まで、まだ時間はある。コーヒーを飲んで、落ち着こう。


 たしか、近くにコーヒーの専門店があったはずだ。


 ……頼むから、もう僕を支配してくるのはやめてくれ。


 スティグマが痛むのは、今じゃなくていいじゃないか。


 あなたの『呪い』は、ちゃんと続いているから。


 だから、責めるように記憶の表層に現れてくるのはやめてくれ。


 ……だって、泣きそうになるじゃないか。


 いい歳して、ぼろぼろ泣き出してしまう。


 せっかく、『あのとき』は泣かなかったのに。


 ……ともかく、今はこの香りの『呪い』から遠ざからなければ。でないと、せっかく招待してもらった展示会に、涙目で出席することになってしまう。


 はやく、はやく。


 そうして、僕はその場から逃げるように立ち去り、足早に珈琲店へと向かうのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ここまで読ませていただきました! しんどい章でした…ただ、私はこうはなりたくなという風にしか…。 無花果さん、ぶっ飛んでるようで、倫理観というか、人間としてこれはやってはいけませんよね、という線引きの…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ