閑話7
「まっひろくーん!」
ソファでカメラの雑誌を読んでいると、いつも通り無花果さんが横あいから抱きついてきた。カメラマンなので、やっぱり紙媒体で読みたいという信条があって、定期購読している雑誌だ。
もう慣れたもので、僕は動じることなく雑誌を読み続けた。ノーリアクションだ。
「ねえねえまひろくん、ジェンガでもして遊ぼうよ! バベルの塔に神のいかづちを落とそうよ!」
「後にしてくださいね」
「なんだいなんだい! つまんねえでござる!」
ぷくっと頬をふくらませるのもいつものことだ。
しかし、無花果さんは一瞬動きを止めて、僕のことをじっと見つめてきた。
そして次の瞬間には、すんすんと鼻を鳴らして首筋を嗅いでくる。
さすがにそれは想定外だったので、雑誌を取り落としてしまった。
「な、なんですか?」
首筋にかかる生あたたかい吐息にぞくっとしながら、上擦った声で尋ねる。
すると、無花果さんは一言だけ声を上げた。
「いいにおいがする!」
「におい?……ああ、香水、変えましたから」
「きみ、香水なんてつけてたのかい?」
「ええ、普段は柔軟剤みたいなやつなんですけど」
一応、僕はオシャレなイマドキのワカモノなのだ。香水くらいいいじゃないか。
また『童貞のくせに色気づきやがって!』などと言われるかと思ったけど、意外と無花果さんはその香りが気に入ったようで、しきりに首周りを嗅いでいる。
……なんだか、初対面のニンゲンと遭遇した犬みたいだな……
しばらく、嗅がれるがままにじっとしている。噛まれたり舐められたりするよりはマシだけど、これは……
ふと、顔を上げた無花果さんと、ばっちり目が合う。
とろんととろけた目で見つめられると、どうにも尻の据わりが悪い。そわそわしてしまうというか。
「……いいにおいだ……!」
「気に入ったんですか?」
「なんだか、安らぐのだよ!」
「ああ、ミルク系のやつですからね」
「どんな香水なんだい?」
「モルトンブラウンってブランドの、ミルクムスクって香水で……ミルクがメインで、ラストノートにムスクって感じですね。僕みたいな若輩者でもつけられるムスクです」
「ほうほう! いいにおいの正体はそれか! たしかにミルクだ! 首からにおいがするのだけど、他にはどこにつけているんだい?」
「太ももにもちょっとだけ」
すると、無花果さんは急に僕の膝の上にごろんと頭を乗せてしまった。いわゆる膝枕の状態だ。
「……なにしてるんですか?」
呆れて問うと、無花果さんは、へへと照れくさそうな笑みを浮かべて、
「いやあ、このにおいがすると眠くなっちゃってねえ!」
それだけ安心するということだろうか。ミルクなんて、赤ちゃんの飲み物だ。無花果さんはどうやら赤ちゃん返りしているらしい。
止める間もなく、無花果さんはそのまま目を閉じてしまった。長いまつ毛が伏せられて、影が落ちる。
「……ああ、眠いなあ」
そして、言うが早いか、そのまますやすやと寝息を立て始めた。のび太くん並の寝付きの良さだ。
普段からロクに眠っていないであろう無花果さんは、よく事務所で眠っている。なにがいいって、寝ている間だけは静かでいい。
それに、眠っている無花果さんはただの美しい女性だ。スリーピングビューティー、と言うのだろうか。ただただ、死んだように眠る。
……死んでいるのと同じように。
なんだか、急に不安になってきた。
無花果さんが死んでしまったらどうしようと、胸がざわざわし始める。
そりゃあ、無花果さんだって一応はただのニンゲンだ。いつかは死ぬに決まっている。
けど、死ぬときは今じゃない。
無花果さんはきっと、死ぬべきときにちゃんと死ぬようなニンゲンだ。いのちを無駄遣いしないで、終わるときは終わらせる。
その破滅が、遠い未来であることを切に願う。
そして、せめてその最期は僕が看取ることができたらと。
……今は、今だけは、ステキな夢を見ていてほしい。ミルクムスクの香りに包まれて、赤ちゃんだったころを思い出して、すやすやと眠っていてほしい。
あどけない可憐な寝顔のくちびるに、僕はこっそりと触れるだけのキスをした。
だれも知らない、『相棒』からの祝福の口づけだ。
僕は、無花果さんとセックスをしない。
けど、その分キスをする。
これが『愛』だと、胸を張って言える。それだけの思いを込めて。
「……きれいですよ、無花果さん。おやすみなさい」
起きている間は絶対に言わないことを告げて、僕は無花果さんを膝に乗せたまま、再び雑誌を読み始めた。
……あとで、ヨダレで膝がびしゃびしゃになっていたのは、まあご愛嬌だ。
無花果さんが『いなくなって』から、もう二十年が過ぎた。僕ももうワカモノではなくなって、立派なオジサンだ。
二十年というのは長いようでいて短い。つい先日まで事務所で毎日バカ騒ぎをしていたように感じるし、遠い黄金時代だったような気もする。
……ともあれ、すべては失われてしまった。
パラダイス・ロストは、訪れてしまったのだ。
そんなことを考えながら、僕はカメラを下げて街の雑踏を歩いていた。新しい素材のフィルムが出たので、その展示会に招待されているのだ。
がやがやと騒がしい道を歩いていると、ふと鼻につくものがあった。
一瞬で、意識が過去に引き戻される。
……ああ、これは。
モルトンブラウンの、ミルクムスクの香りだ。
街を歩いているだれかがつけているのだろう、僕がつけていたのと同じ香水のにおいが、どこからか香ってきた。
思い出が、せきを切って脳内に押し寄せてくる。
あの日の無花果さんのあどけない寝顔。
秘密のキス。
『おやすみなさい』の言葉は、もう別の響きを帯びている。
遠い昔の、傷跡のように消えない記憶。
そんなものを無理やりに呼び覚まされて、僕はついその場に立ち尽くしてしまった。
……やめてくれ。
無花果さんはもう、いないんだから。
こんなの、まるで『呪い』みたいじゃないか。
香りで感じる、これはたしかに『魔女』の『呪縛』だ。
吐息を、鼓動を、体温を、笑顔を、騒がしさを、そして最後に言葉を交わしたときのことを、鮮明に思い出してしまう。
……ああ、無花果さんはもう、いないんだな。
当たり前のことを、こんなところで突きつけられるだなんて思いもしなかった。
あのとき、僕は無花果さんの美しい寝顔にシャッターを切らなかった。その代わり、眼球というカメラで脳というフィルムに、しっかりと焼き付けた。
キスをして、五感で無花果さんをこのからだに刻み込んだ。
……忘れられるものか。
もう、この場所にはいられない。まだミルクムスクの香りが鼻に残っている。
そうだ、珈琲店に行こう。
カフェインの強いにおいで、この香りごと無花果さんの思い出を忘れてしまおう。
……絶対に、絶対に忘れられはしないとわかっている。
けど、今は思い出さないでいたい。
展示会まで、まだ時間はある。コーヒーを飲んで、落ち着こう。
たしか、近くにコーヒーの専門店があったはずだ。
……頼むから、もう僕を支配してくるのはやめてくれ。
スティグマが痛むのは、今じゃなくていいじゃないか。
あなたの『呪い』は、ちゃんと続いているから。
だから、責めるように記憶の表層に現れてくるのはやめてくれ。
……だって、泣きそうになるじゃないか。
いい歳して、ぼろぼろ泣き出してしまう。
せっかく、『あのとき』は泣かなかったのに。
……ともかく、今はこの香りの『呪い』から遠ざからなければ。でないと、せっかく招待してもらった展示会に、涙目で出席することになってしまう。
はやく、はやく。
そうして、僕はその場から逃げるように立ち去り、足早に珈琲店へと向かうのだった。