№18 ユートピア、あるいはディストピア
軽く今回撮った写真を整理してから、僕は帰り支度をした。事務所に残っている面々に挨拶をして、その場を後にする。
外はゲリラ豪雨が通り過ぎた直後なのだろうか、むわっとした湿気った空気で満ちていた。アスファルトがまだびしょびしょに濡れている。
水たまりを避けながら、僕は真夏の空を振り仰いだ。
……そういえば、トー横はあまり暑くなかったな。
近くのビルからクーラーで冷やされた風が流れ込んできていたせいだろうか。それとも、歌舞伎町は実はやっぱり日本ではなかったのだろうか。
どっちにせよ、『こっち』に帰ってきてどっと暑さがからだにのしかかってきた。日本の夏の空気感だ。
着替えた服は、すでに汗で肌に張り付いていた。帰ったらまたシャワーを浴びなくては。その前に、軽く夜食を食べたい。とんこつラーメンは案外腹持ちが良くないのだ。
薄暗い夜道を歩きながら、トー横で食べた揚げ鶏のことを思い出した。
……どんな味だったっけ。
ぼんやりとしていて、よく思い出せない。
とんこつラーメンくらい突き抜けたジャンクとは呼べない、量産型の薄味の揚げ物。
女の子だってみんな、量産型だった。派手に染めた髪をツインテールかウルフカットにして、黒かピンクのごてごてした服を着ていて、ピアスをたくさん開けていて……こうしてすらすら説明できる程度には、皆一様にひとつのカテゴリに収まっていた。
そういうところははみ出したがらないというか、お行儀がいいというか。
群れを成すからには、目立ったことはできない。出る杭は打たれるというのは、トー横もこの社会も同じらしかった。
あの界隈なりの、倫理と秩序。
無法地帯の法。
それが、できるだけ『楽しく生きる』ことだった、それだけの話だ。
みくるさんは、その『法』に忠実に動いた。友達を裏切り、臓器売買なんて真っ黒なビジネスに手を出し、大金を得て、それを『楽しく生きる』ために使う。
……そんなの、近いうちに破綻するに決まってる。
みくるさんは、『楽しく生きる』フリをしているだけだ。そんなものは、『持続可能な開発目標』とは程遠い。その場しのぎのだましだましだ。いつかしっぺ返しを食らうに決まっている。
それは、僕の『期待』ではない。厳然たる自明の理だ。
破滅へ向かってまっしぐら。にこにこしながら崖下へと続くマーチングバンド。レミングの集団自殺。そんな言葉が次々浮かんできた。
そう、これはひどく緩慢な、そしてひどく朗らかな自殺だ。
みくるさんは、『自殺なんて流行りじゃない』と言っていた。
しかし、破滅へ向かって猛ダッシュしているその姿は、まぎれもない自殺者のそれだった。
『生き急ぎ』ながら、確実に『死に急いで』いる。
結局、『納得』して生ききるというのは、『納得』して死の瞬間を迎えるということに他ならない。
終わりよければすべてよし、とはよく言ったもので、世の中笑ったもの勝ちなのだ。
笑って『死ぬ』ために、笑って『生きる』。たとえそれが、『生きている』フリだったとしても。
そのためには、なにもかもが許される。
死肉を食らうハイエナを、だれが罰せるというんだろうか。
あの界隈は、群れからはぐれることは許さない。
しかし、逆を言ってしまえば、それ以外はすべてが許されるのだ。
ニンゲンが忘れてしまった、非常に原始的な動物としての本能が、あそこには濃縮されていた。
ある意味、社会や共同体としては完成されているのだろう。それこそ、法律書に文言として記載していないと道を誤ってしまうニンゲンの社会よりは。
……無花果さんの言っていたことも、今ならわかる。
だれも悪くない。罪を確定する法廷も、罰を与えるべき被告人も、あそこには存在しないのだ。
そんなものがなくても、社会は成立する。
いっそのこと、ユートピアだと言ってしまっていいのかもしれない。もしくは、ディストピアだ。
ひとびとが過去にサイエンス・フィクションで夢見た究極のコミュニティが、結局のところ本能への原点回帰だった。
そこではだれも責められることなく、ただ『楽しく生きる』ことだけが至上命題とされている。
そんな腐り果てた楽園が、あのトー横界隈だった。
良いとも悪いとも言えない。
なにせ、それは僕たちがニンゲンである以上、ある程度は持ち合わせている本能だからだ。
みくるさんたちは、ひょっとしたらニンゲン社会から解脱してしまっていたのかもしれない。だれもが『それらしく』生きることを許された輪廻の果てへと。
……僕には、当分たどり着けない場所だ。
幽霊の正体見たり、とは言うものの、薄気味悪さの根源に気づいても、どうしても気持ちの悪さは払拭できなかった。
果たして、本能だけで生きることは、ニンゲンとして正しいことなのだろうか?
動物としてのニンゲンに限るなら、確実に正しいと言い切れる。
しかし、ニンゲンをニンゲンたらしめているのは、理性に他ならない。
理性的に生きるつもりならば、あそこは行ってはいけない場所だ。まだニンゲンでいたいのならば、染まってはいけない色だ。
動物としてのユートピアか、ニンゲンとしてのディストピアか。その裏表をごちゃまぜにしたのが、あの界隈だ。薄っぺらい紙の表裏一体で、あの社会は成り立っている。どっちが欠けても成立しない。
みくるさんたちは、動物として『楽しく生きる』ことを選んだ。そして、僕たちはニンゲンとして『納得して死ぬ』ことを選んだ。それだけのことだ。
たったそれだけの違いなのに、理解が及ばない。みくるさんたちも、僕たちのことが理解できない。現に、『作品』は誤解されてしまった。
小鳥くんの『曲』が脳裏にリフレインする。
理解のすれ違い。同じニンゲンのはずなのに、生き方が違うだけでこんなにもわかりあえない。
……悲しいことに。
この行き違いは、間違いなく悲劇の一種だ。違いといえば表を行くか裏を行くか、それだけなのに、決定的な隔たりがある。
だからこそ、僕たちはニンゲンなのだ。
だからこそ、無花果さんは『人間賛歌』を歌い続けるのだ。
だからこそ、ひとびとはその『作品』に惹き付けられてやまないのだ。
ほんの少し世界の見方を変えただけで、足元はもろく崩れ去る。そんな不安定さを、僕たちニンゲンは愛してやまない。そんなタイトロープの地獄を生ききってこそ、僕たちニンゲンは『納得』して死ねる。
『向こう側までなんとか渡りきった』と、安堵して死ねる。
本能と理性のケダモノ、それがニンゲンだから。
……なんだか、またお腹がすいてきた。
ここはひとつ、動物としてのニンゲンらしく、好きなものを好きなだけ食べるとしよう。
……帰りのコンビニ、まだ揚げ鶏売ってるかな……?
今は、量産型の揚げ物が食べたい気分だ。
とんこつラーメンを食べた後にホットスナックだなんて、ジャンク極まりない食生活だ。僕もそろそろ、体重を気にすべきお年頃なのかもしれない。
そもそも、無花果さんはなんであんなにジャンクなものを大量摂取して、あのスタイルを維持してるんだ……?
それはそれ、女体の神秘ということにしておこう。
とにもかくにも、まずは揚げ鶏だ。
もう一度食べれば、味を思い出すかもしれない。
ストゼロ……はまだ飲めないから、コーラもいっしょに買って、試しにストローで飲んでみようか。
これもまた、楽しいタイトロープ遊びだ。
けど、僕は絶対に『そっち側』には行かないからな。
……そんなことを考えながら、僕は夜の街灯にたかる蛾のように、コンビニのまばゆい光に引き寄せられていくのだった。