№15 理解不可能な1%
結局、その強迫観念まがいの妄想は、フィルムが尽きても消えなかった。何度か空打ちして、ようやく残弾が切れたことに気づく。
……すぐにでも、シャワーを浴びたかった。今回は死臭にまみれているわけでも汗をかいているわけでもない。だけど、この気持ち悪さを洗い流してしまいたかった。
事務所にカメラを置いて脱衣所に向かい、汚れてもいない服を脱いで洗濯機に放り込む。バスルームに入って蛇口をひねると、シャワーノズルから勢い良くなまぬるい水が出てきた。
頭からぬるま湯をかぶり、考える。
……無花果さんは、なぜみくるさんの罪を追求しなかったのか。
『作品』が間違った形で届いてしまっても、それもまた良しとしている風だった。
僕だったら、自分の『作品』が誤解されてしまうのは、とてもこわい。ちからのある『作品』ならなおさらのことだ。
かざしたやいばがひるがえって、自分の喉元に突きつけられるようなものだから。
『表現』には『責任』が伴うことは、今までの出来事で充分理解しているつもりだった。
……しかし、まだまだ甘かったみたいだ。
誤解を恐れずに『表現』すること。
たとえ誤解が生じてしまっても、だれも責めないこと。
受け取り方なんて、ひとによって千差万別だ。正しく理解しているような気になっていても、それは本当は微妙にズレた理解なのかもしれない。
僕にだって言えることだ。
無花果さんは、『作品』の意図を正しく理解しなければ、こんな写真は撮れないと言ってくれた。
しかし、本当にその理解は、寸分たがわず正確だったのか?
……答えは、ノーと言わざるを得ない。
カメラだって、ピントが合わなければ絵はぼやけてしまう。解像度が下がってしまう。
僕の理解は、たまたまピントがほぼドンピシャで合っただけの写真と変わらなかった。本当に、偶然の産物でしかない。無花果さんと99%波長が合っただけで、残り1%はとらえきれずにいる。
もしかしたら、取りこぼしたその1%の中にこそ、撮影すべき真実の『光』と『影』が存在していたかもしれない。
そういう意味では、僕の『作品』の完成度なんて、全然足りていないのだ。
……もっと深く、理解したいと思った。
100%の理解を求めてしまった。
しかし、僕には絶対にできないだろう。
それはまさに、『モンスター』と完全に融合してしまうということだからだ。
ニンゲンの理解の及ばない、神話の中の『モンスター』。
そんなものとひとつになってしまうなんて、僕にはおそろしくてできない。
そして、そのおそれこそが僕を、踏みとどまって目を逸らさずすべてを見届ける『記録者』たらしめている。
お前は最後まで、ニンゲンであれ、日下部まひろ。
100%を望むな。
ぎりぎりの99%を保て。
間合いを詰めすぎるな。
……そう自分に言い聞かせながら、僕はボディソープを使うことなくシャワーの蛇口を閉めた。
脱衣所に戻ってバスタオルでからだを拭き、新しく出しておいた替えの服に着替えて、肩にタオルを引っ掛けながら脱衣所を出る。
……案の定、無花果さんが待ち構えていた。
にやにやしながら、
「まひろくん、結局きみは、素人童貞にクラスチェンジしたのかい?」
「するわけないでしょう、格好の悪い」
「なあにを言ってるのかね! たとえ三万円の高級オナホだろうと、三千円の立ちんぼの下のお口には事実上敗北しているのだよ!?」
「勝ち負けの問題ですか?」
「そんなんだからきみは……」
「はいはい。今後も清いからだを貫いていきますよ」
「もしかして、君は潔癖症なのかい?」
「潔癖症だったら、そもそもこんな仕事してません」
「ぎゃはは! だよねえ!」
「ただ、性的なことに対しては、たしかにちょっと抵抗があるかもしれません」
「なにかトラウマでもあるのかね? 女子生徒に全裸にされて泣きながら犬の尻を嗅いだことがあるとか?」
「それ、途中から意味がわからなくなってます。トラウマといったトラウマはないですね」
「だったら、寸止め焦らしプレイ中毒のドMなのかい!?」
「なんでそこまで話が飛躍するんですか……別に、童貞を捨てることに抵抗があるわけじゃないです。あくまでも、最初は本当に好きなひとと、って考えてるだけですから」
「小生のことは拒んだのに!?」
「薮蛇ですね。せっかく逆レイプ未遂の件は忘れてあげようと思ってたのに」
「ああ! しまった、はめられたでござる!」
「自業自得って言うんですよ、そういうの」
「納得いかないよ! 小生のことは好きでもなんでもないのかい!?」
「女性としては、正直なし寄りのなしです」
「完全になしじゃないか!」
「ともかく、なんと言われようとも、無花果さんで童貞を捨てるのだけはごめんです」
「くきいいいいいい! かわいくねえ! ファックオフチェリーボーイ!」
まだなにか喚いている無花果さんの背後に、ぬ、と人影が現れた。今回は隠密行動に徹していた三笠木さんだ。
三笠木さんは無花果さんのシスター服の襟をつかむと、
「春原さん、あなたは無意味でバカげたやり取りを切り上げて、早く来るべきです」
「るっせ! てめえなんざただの……」
「でしたら、私ではなく器具の使用をおすすめします」
「あああああああ根に持ってるし! めんどくせえ男だな!」
「しかし、あなたの肉体は器具では満足を得られません」
「わあったよ! 言ったからにはきっちり『調律』しろよ!」
「もちろんです」
そのまま、三笠木さんは無花果さんを引きずりながら、暗室へといっしょに消えていった。
これから、『調律』が始まるのだろう。
やっと無花果さんから解放された僕は、髪に残った水気をタオルで拭きながら、事務所のソファに腰を下ろした。すると、宇宙服の小鳥くんが冷えたスポーツドリンクを持ってきてくれる。
「……まひろ、おつかれさま……」
「……小鳥くんだけが、僕のこころの慰めです」
「……ことりは、ちゃんと慰められてる……?」
「ええ、充分に癒されてますよ」
スポーツドリンクの封を切って飲みながらそう告げると、スモークフィルムのヘルメット越しに、小鳥くんはほっとしたような顔をした。
「……また、『曲』ができた……今回の、『作品』の……」
「それはいいですね。ぜひ聞かせてください」
「……うん……!」
うれしそうに返事をすると、小鳥くんは宇宙服に搭載されたスパコンで、すぐに出来上がった『曲』を流してくれた。
……なんだか、かなしい旋律だ。感情のすれ違いや、それによって引き起こされる不和を思い起こさせるような。
ゆらゆら揺れるバイオリンとピアノのメロディは、不安という胎児を揺りかごで寝かしつける乳母の姿を浮かび上がらせる。
……そうか、不安、か……
今回、僕が感じていた気味悪さの正体は、もしかしたらそんなものかもしれない。
理解できないものに対しての、未知の部分に対しての、不安。
ニンゲンとして、絶対に共感できない場所に立たされたときの、居心地の悪さ。
そんなところだろう。
「……ありがとう、小鳥くん」
あいまいながらもその正体がつかめてよかった。その糸口をくれたことに感謝をすると、小鳥くんはメロディをストップさせて、どこか心配そうな顔をした。
「……まひろ、大丈夫……?」
「僕なら全然、大丈夫ですよ」
こころにもないことを言う僕にだって、『ウソつきクレタ人』の素質がある。
ごまかすように、ぽんぽんと宇宙服のヘルメットをなでると、小鳥くんはそれ以上突っ込んでくることなく僕の隣のソファに腰を下ろした。
……『保護者』の僕が心配されてどうする。
情けないなあ、とため息をつきながら、僕はかわいた喉にスポーツドリンクを流し込むのだった。