№14 誤解
またストゼロで市販薬を飲んでいたみくるさんを、『アトリエ』へと案内する。
『作品』を目にして、みくるさんは一瞬、ぽかんとしていた。それはそうだろう、不意打ちでこの打撃力でこころをなぐられたのだ、思考が追いつかないに違いない。
「…………うっはは…………」
死んだ魚の目で『作品』を見つめるみくるさんの口元が、いびつにゆがんだ。
そして、
「うっははははははははははははははははははは!!」
大爆笑が、『アトリエ』にこだまする。
「なにこれ、バカウケるんすけどお! うっはは、コレ、ウチのこと責めてるつもりい!?」
腹を抱えて笑うみくるさんは、この『作品』を誤解しているようだった。
これは、決して薄っぺらな正義を振りかざすような『作品』ではない。みくるさんのことを責めるつもりなど、無花果さんにはカケラもない。
それなのに、みくるさんはこの『作品』をみずからに対する断罪だと受け止めた。
……違う。
……違うんだ。
そう言いたくなるのを必死でこらえた。
他ならぬ『死体装飾家』がだんまりを決め込んでいるのだ、これは僕が介入してはならない問題だ。
『作品』は、届くニンゲンにしか届かない。
そして、世の中の大多数が『届かない』ニンゲンなのだ。
『作品』の意図がみくるさんの理解の範疇を超えていたとしても、それはおかしいことではない。
みくるさんはひとしきり爆笑してから、カラコンを付けた目尻に浮かんだ涙を拭い、
「うっは、笑ったあ。けどまあ、そうだよお。『ゴミ収集車』に長門流したのはウチだよお。ちょっと眠ってもらってて、その間にお腹ん中ごっそりい。痛くはなかったと思うよお?」
みくるさんは言い訳をしなかった。罪を認め、しかし悪びれる様子はまったくない。
「でもさあ、別にいいっしょお。困ってるときに協力するのが『仲間』ってもんだしい。ウチは困ってたし、長門にはそれに協力してもらったあ。そんだけの話い」
「……ぎゃはは。吐き気がするね」
全精力を使い果たした無花果さんが、喘鳴のような笑い声を吐き捨てる。
そう、無花果さんは『作品』が届かなくても、それを良しとした。誤解をとこうともせず、ただあるがままにしておく。なにもかもをみくるさんの理解に任せているのだ。
「でしょお。バカウケるっしょお」
「……まったく、気持ちの悪いガキどもだよ」
みくるさんは、椅子にうなだれてそうつぶやく無花果さんに歩み寄ると、顔を近づけてまた笑い声を上げた。
「うっははははははははははははははははははははは!!」
「ぎゃははははははははははははははははははははは!!」
顔を突き合わせて、ふたつの大爆笑が重なる。みくるさんも、無花果さんも、笑っていた。しかし、どういう心境で笑っているのか、それはふたりともまったくの別物だった。
……狂ってる。
これは、まさに『病み』と『闇』の結末だ。
たしかに、みくるさんたちの『闇』は、僕たち『モンスター』が抱えているそれに比べれば、ごくごく浅いものなのかもしれない。
だがその『病み』は、『モンスター』をも凌駕するねじれきったものだ。
確実に言えることは、それくらいだった。
深い『病み』の奥底には、無花果さんの『作品』ですら届きはしなかった。
『作品』に込められた歴史も思いも祈りも呪いも、なにもかもまるっきり勘違いされてしまったのだ。
『モンスター』でも手が届かないような、『病み』。
『闇』ならば、『モンスター』の大好物だ。
しかし、『病み』なんて食ってしまったら、腹を下して死んでしまう。そもそも手が届かないのだから、どうしようもない。
ふたつの笑い声が、『アトリエ』中に響き渡る。
……なんだ、これ。
なんなんだ、これは。
気持ち悪いにもほどがある。
死んだ目で『作品』を嘲笑するみくるさんは、『モンスター』ではない。
『魔女』でも『悪魔』でもない。
だとしたら、『これ』は一体なんなんだ?
生きるために軽々と『仲間』を売り、ウソをつき、それを当然のことのように語り、嘲り笑うこの存在は、なんだ?
……わからない。
どうしても、『納得』のいく言葉が思い浮かばなかった。
正体不明の『病み』の化け物に向かって、僕はいつの間にかシャッターを切っていた。
何度も、何度も。
……僕は今、『深淵』を覗いている。
もちろん、その『深淵』も僕を覗いている。
なんておぞましいことだろう。
なんて不気味なことだろう。
……なんて、『かわいそう』なことだろう。
みくるさんだって、わかっているはずだ。
その上で、自分に対してもウソをついている。
どんどん堕ちていくことを自覚しながらも、しがみつくことしかできない。
これが『かわいそう』でないのなら、一体なんだというんだろう。
ようやく笑いを収めたみくるさんは、無花果さんのそばを離れると、『作品』の目前に立ってしげしげと眺めた。
「んん、よかったじゃん、長門お。立派なアーティスト様に飾ってもらってさあ。うっはは、うらやましいとは思わないけどお」
そう言って、みくるさんは『作品』に添えられていたペプシの缶をつまみ上げると、そのストローに口をつけた。
そして、コーラをその場に吐き出してしまう。
「うええ、まっずう。あっまあ。こんなんじゃパキれないよお」
無花果さんを挑発するように、『作品』を冒涜する。
まだ中身が残っている缶をその辺に放り捨てると、みくるさんはへらりと壊れたラブドールに笑いかけた。
「でも、まあまあキマってるよお、長門お。今のあんたならあ、ぜってえバズるよお。『良かった』ねえ、長門お! うっはは、バカウケる!」
そう言い残すと、みくるさんは『アトリエ』を後にした。きっと、そのまま事務所を出て、トー横界隈に帰っていくのだろう。
もう二度と、会うことはない。
会いたいとも思わない。
あんな『かわいそう』な化け物、これ以上見ていられない。
投げ捨てられた缶から、びしゃびしゃとコーラが流れていき、甘ったるい香料のにおいで胸が悪くなった。
それでも、あのアルコールのくささよりは幾分かマシだ。
「……さあ、まひろくん」
結局最後まで誤解されたままだった無花果さんは、そうつぶやいて僕をうながした。
……そうだ。
『記録』しないと。
理解されなかったことも含めて、全部。
それだけが、『モンスター』としての僕のアイデンティティだから。
このアイデンティティがある限り、僕はあんな化け物とは違う。
違う、はずなのに……
『庭』と『トー横界隈』。
深い『闇』と『病み』の奥底にある居場所に、どれだけの違いがあるっていうんだ?
行くあてがなくて、その居場所を必死に守ろうとしていることには、なんの違いもない。
……それでも。
僕は、あんな気持ちの悪い化け物ではないと、否定せずにはいられなかった。
吐きそうになりながら、『作品』に向けてシャッターを切る。ぱしゃり、ぱしゃり。次々と真実の『光』と『影』がフィルムに焼き付けられていく。
このカメラの先で笑っていたみくるさんは、もういない。
今は、ただブルーライトを反射してきらめくチェリーのピアスだけが輝いている。
……いいだろう。
それが真実の『光』と『影』ならば、目をそらさない。
逸らしてしまったが最後、僕もあそこまで『堕ちる』。
そんな気がした。
ぱしゃり、ぱしゃり。強迫観念のようなものに突き動かされて、撮影の手が休まらない。
いつもの熱に浮かされたような感覚はなかった。
ただ、やめたら『終わり』だという恐怖に追い立てられるように、僕はシャッターを切り続けるのだった。