№9 はじめてのたちんぼ
そうしているうちに、だんだんと夜が更けてきた。そろそろ事務所に帰らないと、所長が本格的に心配し始める。
……いや、所長は心配しないだろうけど、密かにあとをつけてきているであろう三笠木さんに、これ以上気苦労をかけるわけにはいかない。
「……無花果さん、そろそろ死体のある場所に行きましょうよ」
「えー、小生もっと遊びたい!」
無花果さんは駄々をこねているけど、ここで一夜を明かしたらすっかり界隈に染まってしまうような気がしたので、無言の圧をかける。
僕の視線の圧に気おされたのか、無花果さんは、ひぇっとからだをすくませて、
「うう、わかったよう! 小生もう死体拾って帰る!」
「ええ、おねえさんたち、もう帰んのお?」
「まあ、長門さんの死体を見つけてからですけど」
「まだ全然トー横満喫してないじゃん。こんなん序の口だよお。もっと遊ぼお」
「でも、僕たちは長門さんの死体を探しに来たんですよ?」
そう、僕たちは決して観光をしにここへ来たわけではない。みくるさん本人が依頼した、長門さんの死体を探しにやって来たのだ。
みくるさんもその点は理解したらしく、渋々ながらうなずいてくれた。
しかし、直後ににへらと笑うと、
「じゃあさあ、おにいさん、記念に立ちんぼ引っ掛けてみるう?」
「いや、僕は別にそういうのは……」
「ぎゃはは! トー横の立ちんぼで童貞から素人童貞にクラスチェンジかい!?」
「ええ、おにいさん童貞なんだあ。バカウケるんすけど!」
「そこはウケるところじゃないでしょう」
「じゃあさあ、なおさら体験してきなよお。大久保通り歩いてたらすぐ見つかるからあ」
「……でも、」
そんな僕の言葉を遮って、無花果さんは有無を言わせぬ口調で僕の名前を呼ぶ。
「まひろくん。いいから」
……僕に、大久保通りの立ちんぼとセックスしろって言ってるのか、このひとは?
いや待て。これにはなにか事情があるに違いない。
無花果さんなりに考えて、ここでイエスと答えろと告げているのだ。でなければ、こんなところにまで来て貞操観念の固い僕が女の子をお金でどうこうするとは考えないだろう。
……考えてる……よな……?
一抹の不安を抱きながらも、僕はみくるさんに向かって言葉もなくうなずいて見せた。
みくるさんは青い舌をのぞかせて笑い、
「んん、りょうかあい。その辺歩いてたらいいコいるよお。相場はねえ、ハタチくらいのババアでもよかったら、だいたい一時間で三千円くらい?」
「……そんな金額で……?」
聞き間違いかと思った。
びっくりして問い返すと、みくるさんは得意げに胸を張った。
「うっはは、バカ安いでしょお。ハタチなんてもう売れ残りだからねえ、値段下げて食いつないでるコ、けっこういるんだあ」
残念なことに、聞き間違いではなかったようだ。
……バカバカしい。
たかが三千円ぽっちのお金で女の子がからだを開くなんて、どうかしてる。
しかし、その『どうかしてる』ことを、無花果さんは僕にやれと言っている。
……信じて、いいんだよな……?
ちらちら無花果さんの方を見ても、もうこっちには目もくれず、すでに大久保通りに向かおうとしている。
仕方なく、僕は無花果さんのあとについていくことにした。
そうしてやって来た大久保通りは、若い女の子たちで埋め尽くされていた。街灯よりも狭い等間隔でガードレールにもたれかかり、みんなスマホのモニターでぼんやりと暗闇に顔を浮かばせている。だれもがピンクか黒の地雷系で、露出は多め。
そんな中を、無花果さんはずかずかと突き進んでいった。なにかアテがあるのだろうか。
無花果さんは、とあるひとりの女の子の前で急ブレーキをかけると、
「きみきみ! ひとつ、このまひろくんの童貞を奪ってやってはくれないかい!?」
唐突にそんなことを言い始めた。これは、明らかにこの女の子にマトを絞っている。初めからこの女の子にコンタクトを取ろうとしていた、そんな思惑が透けて見えた。
女の子はオーバードーズが切れたとき特有のそわそわした不安の顔をスマホモニターから上げ、
「……いいよ。一時間五千円」
「いや、三千円で!」
お金は持っているくせに、無花果さんはなぜか値切った。こういうところはケチくさい。それとも、これにもなにか理由があるのだろうか?
女の子は何度かスマホをタップすると、ガードレールから短いスカートの腰を上げ、
「……わかった。そこのホテルで」
知らない間に交渉が成立していた。
無花果さんに押しやられ、あれよあれよという間に僕は女の子とふたりでホテルの一室に立つことになった。
……本当に、これでいいのか……?
「……シャワー、先浴びて」
女の子は恥じらう様子もなく一気に服と下着を脱ぎ、安っぽいビニールソファにあぐらをかいて全裸でタバコを吸い始めた。
これはもう、覚悟を決めてシャワーを浴びてくるしかない。
脱衣所で服を脱ぎ、ぬるめのシャワーを浴びながら、僕は必死に考えを巡らせた。
無花果さんには、なにかこうしなければならない意図があるように思えた。あの女の子に最初から照準を合わせていたのだって、そう考えると納得できる。
……そうだ、『納得』だ。
ここへ来て、僕はようやく『納得』することができた。
いきなりトー横デビューなどと言い出したり、みくるさんたちに混ざって乱痴気騒ぎをしたり、挙句の果てには僕に立ちんぼを買えと圧力をかけてきたり。
すべては、長門さんの死体にたどりつくために必要なことだったんじゃないか?
あるいは、『創作活動』に欠かせないこと。
……そう考えないと、僕はここで無駄に純潔を散らすことになってしまう。
さすがに素人童貞なんて誇れたものじゃない。まだ真性童貞の方が幾分かマシだ。
女の子には、お金だけ渡してなにもせず、一時間は身の上話を聞くために使おう。こんなところで客を取っているくらいだ、きっとひとには言えない、けど本当は言いたいことが山ほどあるはず。
ウザい説教客と思われても構わない。お金は払うのだから、話くらいは聞かせてもらおう。
もしかしたら、それがあの子の突破口になるかもしれないし。僕にできることは、あくまでも身の上話を聞くだけだけど。
ボディソープも使う気になれず、僕はさっとからだを流しただけでバスルームから出た。
バスタオルでからだを拭いて、元通り服を着ると、女の子が待っている部屋へと向かう。
…………あれ?
なんだか、ひとが増えているような……
……気のせいではない。たしかに、ヤバめの筋っぽい男が数人、全裸の女の子のそばでいっしょになってタバコを吸っていた。
「おー、コレ? 今回の『ゴミ』」
僕の間抜け面を見つけた男のひとりが、指をさして女の子に確認する。
「……うん。連れてきたから、ちゃんとカネ払って」
「るっせーな、三千円女が!」
男のひとりが女の子をこぶしで殴りつけ、くしゃくしゃに丸めた五千円札を一枚、倒れたからだの上に投げる。
……どういうことだ……?
『ゴミ』?
ふと、昼間虹色髪の男から聞いた『ゴミ収集車』の話が脳裏によぎった。
……まさか……
「んじゃあ、おにいさんにはちょっと黙っててもらうってことでー」
だぼだぼのスウェットを着た金髪の男がへらへらしながら、放り出すように置いてあったホテルのパイプ椅子を高々と掲げる。
僕には、それを見上げることしかできなかった。
次の瞬間、がつん、と頭に衝撃が走る。
結局、痛みを感じる暇さえなかった。
からだの制御がきかなくなって、視界が揺らめく。
……そうして、僕はその場にばったりと倒れ伏し、なにもわからないまま意識を手放したのだった。