閑話6
「ねえ、大樹くーん」
台風一過の夕暮れ空の下、いつものように雑居ビルの屋上に出てふたりでタバコを吸っていると、先輩が唐突に甘えた声で呼びかけてきた。
……これは、またロクでもないことを言い出すに違いない。
「なんですか、先輩?」
わかりきっているくせに応じる俺も、大概甘い男だ。
先輩は自撮り棒を持っていない手で、すぱーと煙を吹き出しながら、
「海、見たーい」
……ほら来た。いつもの、先輩特有の意味不明なワガママだ。
俺はあきれたため息まじりの煙を吹き出しながら、
「なんですか。シーズンやからって海パン持って海水浴ですか。暑さで頭イったんですか、ええオッサンが」
「えー、相変わらずひどーい」
「せやったら、海見てなにするんですか?」
「うーん、なんもしないよー。ただ、夜のくらーい海見てぼーっとしたいなーって思っただけー」
やっぱり意味不明だった。
しかしながら。
「ねー、大樹くーん。おねがーい」
……『お願い』という名前の『命令』なら、仕方がない。
「ああもう、わかりましたよ」
『悪魔』に屈するなんて、『神様』としてはあってはいけない。
しかし、『後輩』ならば『先輩』に付き合うのは当然のことだ。
俺はぐじぐじと携帯灰皿でタバコを揉み消し、
「仕事終わってから行きましょ。俺も早よ上がれるようにしますから。メットはうちやのうて事務所にありますよね?」
「っていうか、家にも事務所にも置いてありまーす」
「やったら、時間見てここ迎えに来ますんで」
「わーい、やったー」
にこにことバンザイをして、先輩もタバコを消した。そして、紫煙の香りを残して、俺達は屋上を後にした。
夜になってもろもろの仕事を切り上げ、俺はメットをかぶって署に停めてあった愛車にまたがる。SUZUKIの隼だ。一応の大型バイクだが、シート高をローダウンしてあることはだれにも言っていない。
バイクを転がして雑居ビルの前につけると、すでに先輩はメットを抱えて待ち構えていた。
「けっこう早かったねー」
「俺来んかったら、先輩いつまでそこで待ってたんですか」
「うーん、眠くなるまでー?」
つくづく呆れる。けど、こういうところがこのひとの憎めないところだ。
同じくメットを被った先輩がタンデムシートに腰を据えるのを確認すると、俺はクラッチを切って単車のアクセルを開けた。
そのまま湾岸道路に抜ける。俺も一応おまわりさんなのでスピード違反で捕まるのはごめんだったが、バイクはスピードを出さないと楽しくない。それに、この時間帯この辺りは取り締まりをしていないことは、内部情報で知っている。
今だけは、おまわりさんではなく、先輩をケツに乗せたひとりのバイク乗りでいさせてくれ。
そんなことを念じながら200km巡航ですいすいと車と車の間をすり抜けていく。すっかり夜になった湾岸道路には等間隔で街灯が並び、次へ次へと現れては後ろに流れていった。
「ねー大樹くーん、すきー!」
「丸聞こえですよ、先輩」
「ちぇー。そういうのは、風の音で聞こえないフリをするのがマナーってもんじゃなーい?」
「年甲斐もなくかわいこぶらんとってください」
たしかに風の音もうるさいしメットもかぶっているが、背中に引っ付いている先輩の戯言はなんとか聞こえた。先輩もわかっていてやっているに違いない。
……なんとかならんのか、このひと。
こころの中で泣きを入れながらも、俺はアクセルを開いてまた一台、車を追い越していく。
そして、俺たちは港の埠頭にたどり着いた。
愛車を停めてエンジンを切り、メットを脱ぐと、髪を簡単に整えてサングラスをかけ直す。
「わー、海だー」
タンデムシートにメットを置き去りにして、先輩はひょこひょこした足取りで船着場へと歩いていった。
なんとなく、置いていかれるような気分になって、俺も急いでその後を追う。
……今日のことで、俺もナーバスになっているらしい。
船着場でうんこ座りをして、先輩は宣言通り暗い夜の海を眺めてぼーっとし始めた。
俺もそのかたわらに立って、同じように海を見つめる。すぐそばでちゃぷちゃぷと波が寄せ、夜の海はまるで超巨大な黒いスライムのような化け物に見えた。
「こわいよねー、夜の海ってさー」
「海見たい言うたんは、先輩やないですか」
「こわいから、見たくなったんだよー」
「わけわからんです」
「たまに見たくならないー? こわいやつ。ホラー映画……とは、ちょっと違うけどさー」
「俺はホラー苦手です」
「あははー、それは知ってるー。けどさー、なんか夜の海って一匹の動物としてこわいじゃーん。原初的?本能的?な恐怖ってやつー。だから、自分がちゃんとニンゲンっていう動物として生きてるって思い知るには、こうして夜の海を見てこわいなー、って感じるのが手っ取り早いんだよー」
普段、あんな地獄みたいな『魔女』の『庭』にいるくせに、あんな地獄みたいなトラウマがあるくせに、このひとはまだ奈落の底が見たいらしい。
まったくもって、厄介な男だ。
……まあ、わからんくもないけど。
夜の海は教えてくれる。『お前なんか、その気になったらすぐに殺せるんだぞ』、と。自分は、ひどく危ういバランスの上に成り立っているだけの存在だと。
しばらくの間、俺たちは黙って夜の海を眺めていた。
ニコチンが恋しくなったのでタバコをくわえて火をつけると、ふいに先輩が立ち上がる。
そして、同じようにタバコをくわえると、
「……火、貸してよ」
「火ぃやったら、先輩も持って……」
言いかけたところで、覆い被さるように屈んだ先輩のタバコの先端と、俺のタバコの火のついている部分が重なる。かち、とサングラスとメガネがぶつかりあう音がした。
じじ、と音を立てて、温度が移っていく。
やがて火が灯ったタバコをくわえて、先輩はいたずら坊主のようににんまり笑った。
「あははー、奪っちゃったー」
「俺、火ぃ盗まれましたわ。窃盗罪で逮捕やな」
「証拠がありませーん」
「現行犯や」
そんな言葉を交わしてから、俺はため息をつき、
「急にどうしたんですか」
知らず、尋問するような口調になっていた。
先輩はそれを知ってか知らずか、ただあいまいに微笑んで、
「……やっぱり、大樹くんはニブチンだねー」
「これでもかしこい方ですけど」
「かしこい子は自分のことかしこいなんて言いませーん。『無知の知』ってやつ、知ってるでしょー?」
「教授が散々言うてましたからね、肝に銘じてありますわ」
「だねー」
共有しているトラウマの根源に触れる発言に、今の先輩は動揺した様子を見せない。ただ、過ぎ去ったことのように苦く笑っては、紫煙をたなびかせる。
またしばらくの間、沈黙が落ちた。
「ねー、大樹くーん」
「今度はなんですか」
「キスするときに最適な身長差って、15センチらしいよー」
「俺が背ぇ低いん、バカにしてます?」
「えー、してないよー?」
「っちゅうか、さっきのキスのつもりやったんですか」
「やっとわかったー。やっぱりニブチンー」
軽やかに笑って、先輩はタバコを消して二本目でまた俺から火を盗み取った。
今さら、キスのひとつやふたつで揺らぐような関係性ではない。そんなもので覆ってしまうような、なまやさしいきずなではないのだ。
俺もまた短くなったタバコを消すと、先輩から火を盗み取る。またメガネのフレームが、かちっと触れ合った。
そうやって沈黙のうちにタバコを五本吸い終えると、俺たちはどちらからともなく夜の海に背を向けて、バイクに向かって歩き出していた。
なにごともなかったかのようにメットをかぶってバイクにまたがると、セルモーターを回してエンジンを起動させる。
「大樹くーん、別れ際はブレーキランプ5回点滅だよー」
「ア・イ・シ・テ・ルのサインは毎回やってますやん」
「今日も忘れちゃやだよー」
「はいはい」
適当に返事をしてから、俺はシフトレバーを握りながらエンジンを開いた。
隼のリッターエンジンが重々しくうなって、テールランプの尾を引きながら、俺達はその場から走り去る。
そして、後にはタバコのにおいだけが残されたのだった。