№12 風邪を引いた日
楽観思考もむなしく、翌日僕は熱を出して寝込んでしまった。
体温計の数値におののきながら咳をして、頭痛の中所長に電話をする。
「……そういうわけで、今日はお休みをください……」
『あー、あんなにずぶ濡れになってたもんねー。いいよいいよー、半分以上僕のせいなんだしー。さいわい、依頼人はいないからさー』
電話の向こうで所長が笑う。
「……なんだか、すいません……」
『気にしないでー。とにかくあったかくして、ご飯食べて、お薬飲んでゆっくりしてねー』
「……ありがとうございます……それじゃあ、失礼します……」
『はーい、お大事にー』
通話を切って、僕はベッドに転がった。熱で頭が茹立って、くらくらする。そういえば、風邪を引いたのなんて中学生以来のことだ。案外、僕のからだは頑丈にできている。
けど、大雨の中をずぶ濡れになってそのまま放置しておいたのだから、さすがに風邪をひくなという方が無理だろう。これで風邪を引かなかったらよっぽどの大バカものだ。
ふうふうと息を荒らげながら、なんとかベッドから這い出てトイレを済ませる。ついでに水分補給しておこうと、非常用に買っておいたポカリを冷蔵庫から取り出した。
喉に流し込めば、火照ったからだに染み渡るようだ。なにかあったときのために、と備蓄しておいた過去の自分を大いに褒めてやりたい。
ポカリのペットボトルを空にすると、僕はまた這いずるようにしてベッドに戻った。汗をかいているので部屋着を着替えたいけど、そこまでの体力は残っていない。
布団にくるまって、ひたすら天井を眺める。
ぼやんぼやんにふやけた脳みそで考えるのは、やっぱり所長のことだった。
『観測』という呪縛にとらわれていた『悪魔』。見ててもらわないと消えちゃう、と子供のように泣いていた。あんな弱々しい所長は見たことがなかったから、驚いたけど……
不思議なことに、それを好ましく思う自分もいる。
やっぱり、所長だってニンゲンで、『モンスター』なんだな、と。
そんな所長と『共犯者』でいられることが、うれしい。
『観測』の呪縛も、僕のカメラで解かれてしまった。もう『呪い』におびえることはない。過去のトラウマが消えたわけではないけど、少なくともオブセッションからは抜け出せた。
僕の『表現』が『祈り』になった瞬間だった。
だれかを救うことができると、確信できた。
きっと、所長は昨夜、配信を切って眠っていたのだろう。どんな夢を見たかは知らないけど、ぐっすり眠れているといい。
……それにしても、『庭』の誕生に所長の思惑も絡んでいたなんて、思ってもみなかった。
『創作活動』のための場所であると同時に、所長が『観測』され続けるための場所でもあるのだ。
巻き込んだ、と所長は言っていた。
無花果さんを理由にしたこと、そして無花果さんの『作品』を利用したことを、こころの底から申し訳なく思っている。
三笠木さんも、小鳥くんも、僕もだ。
……そんなに謝ることないのにな、と思う。
だって、『庭』の父は、他ならぬ所長なのだから。
所長が救われたのと同様、『庭』という生き場所があるからこそ、僕たちのような『モンスター』は生存を許されている。『庭』がなければ、きっとみんな壊れていた。
やり方は間違っていたのかもしれない。
けど、たしかに『庭』の存在は救いになった。
八坂さんだってそうだ。
最初に巻き込んだと今でも悔やんでいるけど、そんなことはない。八坂さんだって、『あの日』のトラウマを所長の隣で経験している。どうすればいいかわからなくなったに違いない。
そんな八坂さんに『監視者』という役目と、『神様』という在り方を課したのが所長だ。
逃がさないための鎖であり、失わないためのいのち綱。
だからこそ、八坂さんはその立ち位置を甘んじて受け入れ、壊れずに済んだ。
皮肉なことに、所長が壊れたからこそ、八坂さんは正気を保っていられたのだ。『自分がしっかりしなければ』と。
だから、八坂さんだって申し訳なく思っているはずだ。自分の代わりに狂気にとらわれた所長のことを。
こんないびつなきずなで、ふたりは繋がっている。
もはや、愛情なんてなまやさしいものではない。
因縁、宿業、比翼の鳥。
そんな言葉が思い浮かんでは消えていった。
そして、もうひとりの当事者が無花果さんのお父さんだ。
研究室に残ったという無花果さんのお父さんは、結局無花果さんのお母さんに殺されてしまった。
あの始まりの物語に、所長は関わっていた。そのときのことは語られなかったけど、きずなで繋がっていた先輩が伴侶に殺害されて、小さい子供が助けを求めてきて、その子供が死体を装飾して、さぞかしショックだっただろう。
……八坂さんが言っていた、『呪われた研究室』というのも納得だ。
……ああ、これ以上は頭が回らない。
熱が出た状態で考えごとをしたものだから、余計に頭がくらくらする。さっきポカリを一気飲みしたというのに、もう喉がかわいてきた。
けど、今の状態で布団から出たくない。
もうなにかする気力体力が残っていない。
なにか、頭がパァでも、ヒットポイントゲージが真っ赤でも、できることはないものか……
……思いつきを実行するために、僕はよろよろと枕元のスマホに手を伸ばした。
そして、リンクをタップしてページに飛ぶ。
その先では、所長がいつものようにおしゃべりをしながらだらだらと配信をしていた。
『……でさー、そのおすもうさん、どうしたと思うー? 弟子に拭いてもらったんだよー。あははー、笑えるー。なにー? 僕はまだ要介護認定もらってないよー。ぴっちぴちの43歳だからねー。あー、ぴっちぴちって言葉のチョイスがもうすでにオッサンー? あははー、言えてるー』
電子タバコを吸いながら他愛ない話をしている所長は、やっぱりどこか肉眼で見る所長とは違っていた。しかし、昨日見たようなおかしい挙動はどこにもなくて、たぶんこれがいつも視聴者が見ている所長なのだろう。
カメラ越しの『観測』ならば、僕の視線もこわがられない。
けど、それはやっぱり僕が望んでいるようなものではなかった。
カメラで、この目で、しっかりと真実の『光』と『影』を『記録』したい。そうでなくてはダメなんだ。
でないと、僕は『記録者』の役目を果たせない。
『排泄』ができなくなって、ぱんぱんに膨れ上がった挙句破裂して、壊れてしまう。
生きている限り、絶えず『食べる』ことからは逃れられない。インプットばかりでは、腹が膨れる一方だ。
アウトプットして、ちゃんと出さなければ、すっきりしない。
そしてできた排泄物に、だれかが意味を見いだしてくれたら、それはそれでラッキーだ。
……くらいのこころ持ちでいようと思う。
これは、こころざしが低いのだろうか……?
『……えー、だってさー、いちじくちゃんたらひどいんだよー? 僕がトイレに入ってるときに限ってドア千本ノックしてさー。出てこいこるぁ!ってさー。おちおちうんこもできないよねー。しかもなんの目的もなくさー』
『小生、所長のうんこを阻止し隊なのだよ! ひとさまの排泄を邪魔してこそ、立派なひとりの大人じゃないかい!?』
『いちじくちゃーん、うるさーい。それと、それはいい大人のすることじゃないからねー?』
配信に割り込んできた無花果さんの頭に、苦笑しながら所長が『めっ』と軽くチョップを入れる。無花果さんは大げさに痛がって見せながら、画面からフレームアウトした。
……こうでなくっちゃな。
僕たちの『庭』の『ヌシ』なんだから、どんと構えていてもらわないと困る。
「……えっぷし!」
またくしゃみが出た。どうも鼻の通りが悪い。
それでも、僕はベッドに横になりながら、スマホの画面を見つめ続けるのだった。