№10 『相互補完』
フィルムが尽きて撮影が終わると、僕たちはまたソファでなにを話すでもなくぼうっとしていた。
事務所のドアがものすごい勢いで開いたのは、そんなときだった。
「先輩っ!?」
血相を変えた八坂さんが飛び込んできて、所長はというと、のんきにひらひらと手を振っている。
「大樹くん、おっそーい」
「これでも飛ばしてきたんですよ! それより……!」
「ああ、なんとかぎりぎりセーフだよー。今回はまひろくんが来てくれたからー」
「……案の定か……」
所長の狂態を知っている八坂さんは、ぜい、と大きくため息をついてつぶやいた。
「……けどまあ、今回は俺の出番なくて良かったですわ」
「えー、そんなさみしいこと言わないでよー、大樹くーん」
「あんまひっつかんとってください、先輩。俺が背ぇ低いのバレるやないですか」
「大丈夫ー。もうみんな知ってるからー」
歩み寄ってハグをする所長に、八坂さんはうっとうしそうにしていたけど、振り払うようなことはしない。
しばらく八坂さんになついていた所長がソファに戻ると、八坂さんもまた向かいの席に腰を下ろした。
「……そういうことやったら、だいたいの事情はもう知っとるな、坊主」
「ええ、まあだいたいは」
所長本人の口から聞いたとうなずくと、八坂さんはポケットからタバコを出してくわえ、火をつけた。
「あー、紙巻きたばこはNGなのにー」
「ええですやん。今日は喘息持ちの『魔女』もおらんのですから」
「そうだねー。ま、いっかー」
八坂さんはゆっくりとタバコを吸いながら、僕に向き直った。
「そんなら話早いわ。研究室時代、なにがあったか知っとるんやったらな。先輩から聞いとる話とは違うけど、この際やから俺様からも話しとくわ」
八坂さんがどうして警官になる道を選んだのか。それもずっと気になっていた。物理学研究室から警官なんて、まったくの畑違いだ。いくら院卒でキャリア組とはいえ、出世に興味があるタイプには見えない。
八坂さんは時間をかけて喫煙しながら、淡々と語り始めた。
「俺様も、その『現場』におった。先輩も、海斗大先輩も。それで、先輩が『呪い』に取り憑かれて、配信やめられへんようになって……俺様は、『監視』の目が必要やと思った」
「聞いてます。だから、『監視者』になってもらったって」
「言うとくけど、俺様の意思でなったんやからな。このままやと、先輩、壊れると思って……それに、しゃくにさわるんや、教授が観測した神様っちゅうんがな。存在が確定した瞬間にひと殺す? そんなん神様やない、ただの宇宙を司るシステムや」
タバコが一本、灰になった。八坂さんは携帯灰皿に吸殻をしまうと、もう一本くわえ、火をつける。
紫煙とともに、昔語りは続く。
「せやったら、俺様が『神様』になったろと思た。『観測者』否定するんが神様やなんて、そんなんあんまりやろ。やから、代わりに俺様が『神様』になったるわ、ってな。『神様』になって、なんもかんも全部『観測』して存在肯定したるわ」
やっぱり、八坂さんが『神様』になったのも、所長のためだった。しかし、それだけではない。『観測』ののちの否定を覆すために、八坂さんは存在を全肯定する『神様』になったのだ。
あらゆる存在に、『そこにいてもいい』と宣言できるように。
「やから、俺様は全知全能の『神様』やないとあかん。『神様』は、法で、秩序で、正義や。俺様が警官なんちゅう因果な商売選んだのも、その役割に一番合っとったから。『神様』としてちからふるって、断罪すべきを断罪する」
ふわっと紫煙が空気と入り交じる。独特のにおいが事務所中に充満した。
「『観測』して、判断して、お前はそういう存在やって言ったる。別に、存在自体は否定はせえへん。間違っとる存在を矯正する、あるべき姿に戻して秩序の元もとに正常な存在にさせる。それが警察官っちゅう仕事や」
八坂さんは、存在を否定したりはしない。
ただ、『在り方』を正しいものへと変え、秩序という世界の流れを遮らないようにしているだけだ。
正しいか、正しくないか。それを判断するのが八坂さん。やさしい『監視者』は、断罪し、その存在が世界に受け入れられるように修正する。
「せやから、俺様は『神様』やないとあかん。先輩のためだけどちゃう、俺様が選んだ生き方や。教授を殺しおったエセ神なんかより、俺様の方がよっぽど『神様』なんやって、証明したるんや……せやないと、あんまりやないか。俺様は、絶対に認めへん。教授が『観測』したんは、ニセモノの神や。ホンモノの『神様』は、俺様や」
このひとも、あの日のトラウマにとらわれている。
教授が『観測』した神様を否定しなければ、正気を保っていられない。自分が『神様』にならなければ、すべてが瓦解してしまう。
常に自分の正しさを信じ続けることが、どれほど大変なことか、僕には想像がつかない。
想像はつかないけど、八坂さんの選択は当然のものだと理解できた。
存在を否定した神を否定して、自分が『神様』となって、あらゆるものの存在を許容する。間違っているものを正して、それから赦す。
『監視者』としては、所長の現状についてかなり複雑な気持ちになっているだろう。なにせ、死体を装飾する『魔女』のための場所のあるじだ。八坂さんはそれを正しくないと判断した。だから、正そうとする。
しかし、この『庭』がなければ、所長は生きていけない。八坂さんは、決して『庭』の在り方を変えることはできないのだ。
だから、妥協して許容する。苦々しい思いで見ていることしかできない。目に余るときは釘をさすけど、この事務所を強行手段で潰すことはしない。やろうと思えばできるはずなのに、八坂さんは決してそうしない。
もしかしたら、所長はそんな八坂さんのやさしさにつけこんでいるのかもしれない。いや、甘えている、と言うべきか。
『自分のためならなんにだってなってくれる』という信頼を寄せているからこそ、所長は『監視者』の役割を八坂さんに託した。
「……けどな、俺様はお前らのこと、認めたわけやないぞ。存在は否定せえへんけど、それは『必要悪』としてや。ないとあかん場所やっちゅうことはわかっとる。でも、こんなんは汚水処理場とおんなじや。クソこねくりまわして名前付けとるだけの、下水道のドブネズミや。害にはなる」
……言うなあ。
その下水道のドブネズミのひとりである僕は、思わず苦笑してしまった。
そんな風に言っても、八坂さんは絶対に所長の手から『庭』を取り上げたりはしない。なくてはならないと理解して、赦している。
ポーズでは『自分で選んだ』と言ってるけど、やっぱり根本は所長のためだ。
今だって、所長のために仕事をほっぽり出してすっ飛んできたのだから、つくづく甘い。
『悪魔』のために『神様』になった男と、『神様』のために堕ち切らずに踏ん張っている『悪魔』。
共依存というより、相互補完だ。
互いのレーゾンデートルのために、相手がいる。
互いのいのち綱を、相手に握ってもらっている。
どっちが堕ちても、共倒れになる。一蓮托生、死なばもろともだ。逆に言えば、堕ちるときまでいっしょにいるという意思表示のような関係。
……このふたりも、なんとも業が深いな。
ほんの少しだけ、無花果さんと僕の関係を連想させた。この『庭』の一員ではないのかもしれないけど、八坂さんだって立派な『共犯者』だ。
口にしたら怒鳴り散らされるだろうけど。
それでも、このふたりの繋がりは断ち切れない。ねじれたままで、このきずなは成立している。
許せない。だけど、赦す。
そんな風にして、相互補完の関係は続いていくのだった。