№7 オブセッション
「……こわいよね、『観測』って行為は……事象は、『観測』されることでのみ100%の確率で存在し得るんだから……『シュレディンガーの猫』って思考実験、知ってるよね? ほら、猫を中が見えない箱に閉じ込めて、2分の1の確率で致死量の毒ガスが出るボタンを押すんだ……『観測』できない箱の中の猫は、『50%』の確率で存在してるっていう……」
その話は僕も知っていた。有名な論理学の話だ。量子力学の理論だということも。
所長は眉尻を下げて、
「……当時は、いくら思考実験とはいえ、ひどいことをするもんだなと思ったけどさ……とても、わかりやすいんだよね、量子力学ってものについてさ。『観測』されない限り、事象は存在しているともしていないとも言える……つまり、『観測』されていない事象はすべて、いるのかいないのかわからないお化けみたいなものなんだよ……」
そう言われて、思わずぞっとしてしまった。
そして、無花果さんの、三笠木さんの、小鳥くんの姿を目で探してしまう。
……どこにもないみんなは、今、きちんとこの世界に存在しているのだろうか?
僕は、所長に『観測』されている。だから、確実に存在していられる。所長だって、僕に『観測』されているから存在しているのは間違いない。
あらゆる事象の存在は、『観測』によって成立しているのだ。所長の言いたいことは、つまりはそういうことだった。
そうなると、その真の『理由』というのは……
「神は、『観測』されて初めてそのちからを振るって教授を殺した……逆に言えば、教授が『観測』さえしなければ、ちからを行使することも、存在することもなかったんじゃないかって……『触らぬ神に祟りなし』、とはよく言ったものだよ……」
冗談めいた言葉も、今はただただ空々しい。
なにかとてつもない世界の真理に触れたような気がした。
ニンゲンが踏み入っていい領域じゃない。
『観測』によって顕現した神は、容赦なく教授を殺した。『観測』しなければ、ずっと『50%』存在している状態だったはずの、神。
そのパーセンテージを100にしてしまったせいで、目の前で教授は狂い死んだ。
教授の自死は、そんなトラウマを所長に植え付けたのだ。
所長の口調は段々と熱を帯び、スピードを上げていく。
「『未知』の領域から『既知』の領域になったことで、ようやく現出して教授を断罪した。『観測』されて、初めてちからを振るった……じゃあ、『観測』されていない状態のものは、存在と不在のどっちなのか? 少なくとも、なんのちからも持たない、世界に影響できない。それってつまり、生きていない状態じゃない?」
下手な怪談よりもこわい話だ。
今まで当たり前のように『自分はここにいる』と思ってきたけど、すべては真夏の逃げ水のような幻想だった。
僕たちの存在証明は、ずっとずっと、『観測』という行為に立脚していたのだ。だれにもかえりみられなければ、それは死んでいるも同然のこと。発生を確認されなければ、生きていることを論理的に証明できない。
そんなあやふやなものを、当然のように信じていたなんて。
……僕も、所長と同じだ。
タイトロープの上を歩いて、『観測』と『観測』の間の不在期間をなんとかしのいでいただけだった。
ひとりでいるのが、こわくなった。
……それくらい、所長の口調は真に迫っていた。
「『観測』されてないと、存在していないも同じじゃないか。僕は、消えてしまうんじゃないか。『観測』されていない僕なんて、『50%』の亡霊でしかないんじゃないか。だって、論理的に存在を証明できないんだから」
大地が音を立てて崩落していくような感覚。
突然、無明の無重力空間に投げ出されたような気がした。
存在しているということは、当たり前のことではなかった。すべては、勝手な思い込みに過ぎなかった。
それに気づいてしまった所長は、痙攣する表情筋で笑みの形を作って見せた。
「それまで学んできたことが、完全にアダになっちゃったんだ……よく言うでしょ、心理学を学んだニンゲンは病んじゃうって……あれだよ。もともとそういう素養があったからその道に進んだのか、その道に進んだから病んじゃったのか、因果関係は『卵が先か鶏が先か』だけど……ともかく、僕はこわくなったんだ。自己っていうのは、こんなひどくあいまいなものだったんだって、理解しちゃったから」
慕っていた教授が最期に身を持って証明したのが、そんな『呪い』じみた事実だったなんて、あんまりじゃないか。
トラウマになるのも仕方がない。
特に、所長のように頭のいいひとが考え込むと、思考の袋小路に迷い込んでしまう。論理を学んできたからこそ、自己存在というものすらも論理で語ってしまう。
だから、『呪われた』。
「……考えついたのが、配信だったんだ……これなら、途切れることなく世界中のどこかのだれかが、僕のことを『観測』してくれるって。ずっと、存在し続けられる、って。そう考えると、配信を切れなくなった。『観測』されて、存在が確定している状態を保たなきゃ、マトモに生きていられなかった……」
なるほど、たしかにそれなら寝ている間だって存在を確立できる。いつだってだれかが自分を『観測』しているのだから、怯えることなく暮らしていける。
『呪い』にかかった所長には、そうすることしかできなかった。教授の亡霊に取り憑かれて、もう戻れなくなってしまったのだ。
途切れることなく続けられる配信。
所長がおのれの存在を確定させて、正気のまま生きていくためには、どうしてもそれが必要不可欠だった。
……なんとも頭のいい、スマートで論理的な狂気だ。
僕なんて、さっき言われるまでそんなことにも気付かずに過ごしていた。
深く深く考えて、考えすぎて、論理の果てにあったのがその真理だった。
まさしく、教授の『呪い』だった。
『呪われた』所長は、それゆえに絶対に配信を切ることができなくなってしまった。
……八坂さんといるとき以外は。
「……だから、大樹くんに『監視者』になってもらったんだ。ちゃんと見てるよ、って、信頼できるのはもう大樹くんしかいなかったから……完全に、巻き込んじゃった。僕の身勝手な結論に……」
おそらくは、無理強いしたわけではないのだろう。八坂さんもちゃんと納得して、『監視者』の役目を引き受けたに違いない。『なにを今さら』と笑ってのけるはずだ。
なのに、所長はずっと気に病んでいる。
面倒ごとを押し付けてしまった、と。
所長は祈るように、あるいは罪への赦しを請うように、両手を組んで目をつむった。
……それは、『創作活動』に取りかかる前の無花果さんによく似ていた。
「……いちじくちゃんも、三笠木くんも、ことりちゃんも、みんな僕を『観測』してもらう為に『庭』に呼んだんだ……この『庭』は、いちじくちゃんのための『庭』であると同時に、僕にとっての存在を確定させる場所でもあるんだよ……」
『庭』の起源には、そんな『理由』があったのか。
無花果さんのためだけの『庭』じゃなくて、所長もまた『庭』でのみ生きていける存在だったのだ。
まぎれもない、『モンスター』だ。
『共犯者』だ。
「……君だってそうだ、まひろくん……現に、こうして僕が今も正気を保っていられるのも、君のおかげだよ……ごめんね、巻き込んじゃって……本当に、ごめんなさい……」
こんなに弱々しい『モンスター』が『庭』にいただなんて、気づきもしなかった。
しかも、それが『庭』の『ヌシ』というのが、いっそかなしいくらいに滑稽だった。
ひどくあいまいな存在である所長は、かすかに涙声になりながら、謝罪の言葉を口にするのだった。