№6 『神の存在証明』
嵐がだんだんと遠ざかっていく。
それに比例して、所長の震えも収まってきた。
少し顔色の良くなった所長は、遠い目をして昔を振り返っている。
「……教授は、『神の存在証明』について、研究してたんだ……量子力学で、だれも見たことのない神様のアリバイを取ろうってんだから、とんでもないひとだよね……学問で神様を『観測』しようとしてたんだよ、教授は……」
『神の存在証明』。それを、量子力学という分野で成そうとしていた。それで研究室を持つほどになっていたのだから、よほど優秀な人物だったのだろう。少なくとも、その絵空事が現実味を帯びる程度には。
……けどたぶん、『神の存在証明』だなんて、ニンゲンが踏み込んでいい領域じゃない。
きっと、教授本人も周りも、それはわかっていたのだろう。それでもなお、研究を続けた。ただ、不可能を可能にするために。学問のちからを証明するために。自分たちが正しいと世界に示すために。
……その結果は、推して知れた。
少しうつむいて、所長はため息をついた。
「……結果から言うと、教授は成し遂げた……忘れもしない、15年前のことだ……僕たちがいつもみたいに研究室で鍋パをしてるところへさ、教授が現れたんだ……目の焦点が合ってなかったなあ……何日徹夜したんだか、目の下は真っ黒でさ……ふらふらって、僕たちのところへやってきてさ……」
当時のことを思い出して、所長は身を守るように、ぎゅ、と膝を抱きしめた。そして、
「……狂人みたいに、わめき散らしたんだ……『神はたしかにいた!!私はそれを証明した!!』ってさ……『こんなこと、ひとの身でやるべきではなかった!!ニンゲン風情が踏み込むべきではなかった!!』ってさ……ひどく錯乱してた……逆に、その狂態が、教授の正しさを証明してた……」
おそらく、さっきまでの所長のような有様だったのだろう。奇しくも師弟そろって同じ状態に陥ってしまった。同じ『観測』という『呪い』のせいで。
所長は、寸前で僕が止められた。
けど、教授はどうなったのか?
所長の震えが大きくなる。はあ、と気持ちを落ち着けるように息を吐いて、話は続く。
「……完全に、発狂してたよ……僕たちは鍋が吹きこぼれてるのも知らずに、ただぽかんとしてた……あとはもう、わけのわからない妄言だった……そして、教授はテーブルの上に置いてあった、大きなカッターナイフを、手に、取って……僕たちの、目の前で……」
ぶる、と所長が身震いする。
かたく目をつむって、絶息のように吐き捨てる。
「……そのカッターナイフで、自分の喉を貫いて、死んだ……」
……結末は、そんなところだろうと思っていた。
けど、実際に経験した所長たちにとっては確実にトラウマとなっただろう。慕っていた教授が、目の前で発狂して自殺したのだから。今もその悪夢は所長たちの頭に焼き付いて離れない。
「……血飛沫があちこちに飛んでね……頚椎まで貫いて、即死だった……血まみれになった僕たちは、やっぱりぽかんとしてたな……なにが起こったのか、わからなかった……ただ、確実に言えたのは、『教授は神を『観測』したせいで、狂い死んだ』ってことだけだ……」
……『原因』は、それか。
『神の存在証明』を達成してしまったがために、恩師は所長たちの眼前でみずからいのちを断った。
すべての『原因』が、『観測』という事象に収束する。
『観測』されていなければ消えてしまう、その病根はこんなにも根深いものだった。
自分の中のトラウマをさらけ出して、所長は少しラクになったのだろうか、それとも一番ショッキングな場面を語り終えたからだろうか、ほっとしたようにその後のことを語り続ける。
「……それから先、僕は研究室を離れて、ことりくんといっしょに引きこもって、配信を始めたんだ……それ以来、大樹くんといるとき以外は、一度も配信を切ったことはないよ……その大樹くんは警察学校に行って、研究室には海斗先輩だけが残った……」
教授の衝撃的な最期を目撃した三人は、それぞれの道を選んで、逃げるように走り去ってしまった。逃げても逃げても追いかけてくるトラウマから、少しでも遠ざかるために。
所長は配信を続ける、という道を。
八坂さんは警察官になる、という道を。
無花果さんのお父さんは惨劇の現場に留まる、という道を。
選んで、トラウマにふたをしようとした。
……けど、それは土台無理な話だったのだ。
所長はタイトロープのように、配信といういのち綱だけを頼りに、常に自我の崩壊と隣り合わせで生きていかざるを得なくなった。おそらく、あの八坂さんにだって傷跡は残っているだろう。
そして、無花果さんのお父さんは……
「……その海斗先輩も、いちじくちゃんのお母さんに殺されちゃってさ……赤ん坊のころに見ただけのいちじくちゃんから、ある日突然引きこもってたところへ電話がかかってきたときは、そりゃあ驚いたもんさ……なにせ、開口一番『ママが死んでる』だったからね……」
そのときの話は、所長は今する気はないらしく、口をつぐんでしまった。
それはそうだろう。ことは所長だけの話ではなく、無花果さんの過去にも関連する。無闇に口外することはできないのはよくわかった。
僕もそれ以上は聞かずに、代わりに所長の話の続きを聞いた。
「……本当に、あの日からずっとずっと、途切れずに配信してたんだ……今回みたいなことは、前もあったけど、大樹くんがそばにいてくれたから……寝てるときも、お風呂入ってるときも、クソしてるときも、全部全部、見ててもらわないと、正気じゃいられなかった……」
あんなにお気楽にしていた配信が、そんな重い意味を持っていたとは思いもよらなかった。いつだって軽快な語り口で視聴者に語りかけて、ときには煽って、まるで『悪魔』みたいに笑っていた所長。そのすべてが、やまいによるものだったなんて。
所長はいびつな自嘲の笑みを浮かべながら、我が身を振り返った。
「……『観測』されてないと、僕の存在が消えちゃう気がしてさ……そんなことありえないってわかってても、どうしても配信を止められなかった……『恐怖』は、理屈じゃないんだ、もっと動物的で根源的な、いのちに関わる問題だったんだよ……」
たとえば、無花果さんがセックスによってニンゲンとしての自我を保っているように。
たとえば、三笠木さんが『最終兵器』として命令を受けることによって存在理由を確立しているように。
たとえば、小鳥くんが『表現』をすることによって外の世界に飛び出したように。
たとえば、僕がカメラをのぞいて真実の『光』と『影』をフィルムに焼き付けることで、『モンスター』としての存在を許されているように。
所長にだって、『理由』も『原因』もあった。
『庭』のすべてには意味がある。
所長の配信にだって、確固たる『そうでなくてはいけない』わけがあるのだ。
たとえそれが、どんなに業の深いものであったとしても。
配信を続けていないと、正気を保っていられない。ニンゲンでいられない。
『観測』されていないと、消滅してしまうのではないかという強迫観念は、まさしくやまいと呼ぶにふさわしい。
狂っている。
……しかし、それを否定することはできない。
僕だって、同じ『庭』の『モンスター』なのだから。
こころあたりがないなんて、とても言えたもんじゃない。
かといって、共感することもできない。安易に『わかります』なんて、そんなのは所長に対する侮辱でしかない。
否定も共感もせずに、ただ理解する。
それが、僕のスタンスだ。
……所長の昔語りは、さらに続いた。