№4 『強迫観念』
ひどい嵐の中をなんとか駆け抜けて、僕はようやく雑居ビルへとたどりついた。震える足を励まして階段を上り、事務所のドアを勢いよく開ける。
「所長!?」
しかし、明かりの消えた室内にはだれもいなかった。
ずぶ濡れのまましずくを垂らして、あちこち見て回る。
『巣』では小鳥くんがカプセルの中で眠っているだけだった。
暗室、給湯室、バスルーム、トイレ、『アトリエ』……どこを探しても、所長の姿はない。
事務所の真ん中にしゃがみ込んで、濡れてふやけた手のひらで顔を覆う。
……まさか、本当に消えてしまうなんて……
配信が途切れたら消える、なんて、そんな『呪い』あんまりじゃないか。
こつぜんと姿を消した所長は、もしかしたらもう、この世のどこにもいないかもしれない。存在ごと消滅してしまったのかもしれない。見つけようとしても見つけられない。なにせ、どこにもいないのだから。
……ふいに、がたっ、と所長のデスク辺りから物音が聞こえた。なにかあったのだろうか。ひょっとしたら、所長の痕跡があるのかもしれない。
デスクに近づいて見下ろしてみると、その下に人影があった。
「所長!」
「……あ、ああ……まひろ、くん……き、来てくれたんだ……」
デスクの下で膝を抱えて頭を抱えていた所長は、がたがた震えながら真っ青な顔でいびつな笑みを浮かべた。顔はぐしゃぐしゃに涙で濡れているというのに。
そんな顔して笑わなくていいから……!
ひどい有様に、僕は言葉を失ってしまった。
こんな所長、見たことがない。いつも飄々としていて、『庭』の絶対的な『ヌシ』である大人の男は、もうどこにもいない。ある意味、『いつもの所長』は消えてしまっていた。
配信が切れて、なにかに怯えて泣いている。しゃくりあげて、鼻水をすすって、ぼろぼろ涙をこぼしている。頭を抱えて震えながら縮こまり、まるで子供みたいだった。
「大丈夫ですか……!?」
大丈夫なわけないけど、ついそうやって尋ねてしまう。
所長は必死になっていびつに痙攣する笑顔を維持しながら、
「……あは、は……みっともない、よねえ……いい大人の男がさ、こんな……あはは……情けない……いつもの、ぼ、ぼくとは、大違いで……幻滅、した、でしょ……?」
「そんなのいいですから! とにかく、机の下から出ましょう!」
「いやだッ!!」
癇癪を起こした小さい子のように、所長は差し伸べた手を振り払って、かたくなに机の下から出てこようとしなかった。
「……こわい、こわいよ……ち、ちかくの、電波塔に……雷、落ちちゃって……電波、止まっちゃって……は、配信、つ、つづ、続けられなくて……どうしようもなくて……あは、は……」
『配信を止めること』、これが所長の『恐怖』の理由だった。
しかし、そうなってしまった『原因』はわからないままだ。
「……ともかく、出てこなくてもいいですから、少し落ち着きましょう。大丈夫です、僕がついてますから」
「……ま、まひろく……どこにも、いかないでね……ちゃんと、みてて、ね……?」
「どこにも行きませんよ。見てますから、ほら、まずタバコ吸いましょう」
「……う、うん……」
呼吸の乱れがひどい。まずはそこから落ち着けようと、僕はデスクの上に放り出してあった電子タバコの本体に紙巻をセットしてから、所長に差し出した。
しかし、手が大きく震えているせいで、満足に蒸気も吸えない。なので、僕は所長の手に手を重ねて、喫煙の補助をした。
「さあ、吸ってください」
こういうとき、タバコというアイテムは便利だ。吸って吐いて、呼吸を整えるにはうってつけ。
所長は喉をひゅうひゅうと鳴らしながら蒸気を吸い込み、そしてむせる。タバコの吸い方すら忘れてしまったか。
「大丈夫、落ち着いてください。ゆっくり吸って、吐いてください」
つとめて平坦な声音で告げると、所長もだんだんと電子タバコの蒸気を吸えるようになってきた。吸って、吐いて。ニコチンが血流に乗って、きっと脳を冷ましてくれるはず。
一本吸い終わって、僕は次の一本をセットして所長に手渡した。それも吸い終わり、三本目が尽きるころには、所長の呼吸もずいぶんと落ち着いた。
呼吸の次は、なにか甘くてあたたかい飲みものを飲んでもらおう。たしか、給湯室の棚にココアの素があったはずだ。賞味期限が切れていなければいいんだけど……
「所長、ちょっと給湯室行ってきます」
「いやだ、いやだ!! 行かないで!!」
ぐじぐじと泣きながら首を横に振って、駄々をこねる所長。まるっきり、小さな子供だ。
「大丈夫です。三十秒後には戻りますから」
「絶対だよ!?!?」
「僕は生まれてから一度もウソついたことないですから」
そんな冗句を口にして、僕は給湯室へと向かった。残された時間は25秒だ。
棚にあったココアの素は、さいわいにも賞味期限ぎりぎりセーフだった。素早くポットに入っていたお湯で溶かし、所長専用のマグカップで混ぜてから、駆け足で事務所に戻る。
なんとか30秒、間に合った。
「ほら、戻ってきましたよ。これ飲んでください」
「……む、無理……いま、なにか飲んだら……吐いて死んじゃう……」
「吐いてもいいですよ。僕が片付けますから。いくらでも飲んで吐いてください」
僕はなかば無理やりにマグカップを所長の口元へ押し付ける。なんだか介護をしている気分になってきた。
強制的に飲まされたココアは、言った通りに吐き出されてしまった。ついでに、胃液もいっしょくたになって床にぶちまけられる。僕の服にも引っかかった。
それでも構わずに、僕はぐいぐいと熱くて甘ったるいココアを所長の口に運んだ。
最初は吐いてばかりだったけど、だんだんと喉が動くようになっていく。ココアが食道に流れ、胃に落ちていく。
ニンゲンは、甘くてあたたかいものを腹に入れると自然と落ち着くようにできている。脳みその指令で動いている動物だからこそ、こうして落ち着くための手順がはっきりしていた。
ココアがぬるくなって飲みやすくなったのか、それとも余程喉がかわいていたのか、所長はやがてむさぼるようにココアを飲み干してしまった。
もう一杯いれにいこうとしたところで、所長に袖口を引かれて止められる。
「もういやだよ!! 一秒も離れないで!! 僕から目を逸らさないで!!」
そうまで必死に懇願されたのでは、もうココアなどと言っている場合ではない。
僕は空になったカップをデスクに置くと、まだ机の下から出てこない所長といっしょになって膝を抱えて、隣に失礼した。
「ほら、いっしょにいますから」
「……お願いだから、目を逸らさないで……」
「ちゃんと見てますから、安心してください」
「絶対だよ!?!?」
「ええ。だから、落ち着いて。またタバコ吸いますか?」
「……う、うん……」
僕は紙巻のパッケージを探したけど、さっきのが最後の一本だったらしく、もう紙巻は残っていなかった。あれだけの短時間でワンカートン吸いきってしまったのだ。
どれくらいの『恐怖』だったのだろう。
……『モンスター』がここまでおそれおののくようなことだ、きっと根深い『原因』があるのだろう。
けど、それを追求するのは、今じゃない。
今はただ、所長を見つめて、ここにいるよと無言でアピールすることしかできない。
それで所長が落ち着くなら、いつまでだっていっしょにいよう。
そうやって、大の大人の男である僕と所長は、デスクの下にぎゅうぎゅうに詰め込まれて、外の遠雷や豪風の音をまんじりともせず聞いているのだった。