№15 それはあたかも地獄のような
そんな簡潔すぎる『昔語り』を聞いた僕は、それ以上突っ込むことは決してせず、ただ帰り支度をして、所長と小鳥くんと無花果さんに『お疲れ様でした』と挨拶をする。
頭を下げてドアを開き、事務所を後にした。
すっかりなじみのボロ雑居ビルの外に出ると、もう真夏の気温だ。夜だというのに熱風が吹いていて、いつから日本は南国になったのかと思ってしまう。こんな異常気象、ここ数年でさらにひどくなっている。
昼の灼熱の余韻の中を泳ぎながら、僕はついさっき聞いたばかりの無花果さんの過去に思いを馳せた。
母親が父親を殺し、自殺した。
その父親の死体を探し出し、装飾した。
たったそれだけの言葉で済ませるには、あまりにも壮絶な『昔語り』だった。聞くに耐えないとはこのことか。
『死体装飾家』は、その夜に生まれた。そして、その時点でもうまっとうな道には戻れなくなってしまったのだ。
完全にレールを踏み外して、それでも進み続けなければならなかった。
これから先も、無花果さんは死体を装飾することでしか『自己表現』ができないのだろう。そして、『自己表現』ができなくなれば、死ぬしかない。
絶望なんて言葉では生ぬるい、本当の地獄が現実として未来にある。
その『いつか』は確実に訪れるのだ。
地獄に向かってまっしぐら。芸術家としての無花果さんは、『死』へのカウントダウンを刻むように、『作品』を生み出し続ける。
……でも。
今回、無花果さんは初めて『生きている素材』を装飾した。
『死なせる』ための『作品』ではなく、『生かす』ための『作品』を作り上げたのだ。
それがどんなに罪深いことであってもいい。
無花果さんは、確実に『あの夜』から前に進んだのだから。これは大きな一歩だ。
……もしかしたら、今回の『作品』は、『あの夜』作りたくても作れなかったものなのかもしれない。
無花果さんだって、『生』を装飾したかった。『死』なんて、装飾したくはなかった。ちゃんと生きている両親を、無邪気な花かんむりなんかで飾りたかっただろう。
それなのに、目の前には死体しかなかった。
だから、死体を装飾した。
芸術だ『表現』だ『人間賛歌』だと思っておきながら、突き詰めてしまえば、無花果さんの『作品』とはそういうものだ。
『生』を歌いたいがために、仕方なく『死』を飾っている。
それを『人間賛歌』にすることは、無花果さんなりのせめてもの抵抗なのだ。
絶望の中で生きていくための、たったひとつの冴えたやりかた。神に祈りながら、神に反旗をひるがえすような『作品』を生み出している。
決して止まってしまわないように、いのちを繋ぐために、必死で。
……なんだか、かなしくなってきたじゃないか。
けど、無花果さんは『絶望程度じゃひとは死なない』と言っていた。
そこまで言ったんだ、だったら生きてもらおう。
地べたを這いずり回ってでも、生き抜いてもらう。
腐肉を喰らい、『消化』して、『排泄』する。
その一部始終を見届けよう。
僕のカメラは、『作品』は、そのためだけにある。
だれも死なない。
白鷺百合恵も、無花果さんも、僕も。
人生は続いていく。
どんな絶望も、それを止めることなどできない。
無様に生き恥晒して、最期までやり切るしかない。僕たちに与えられた選択肢なんて、そんなところがせいぜいだ。ちんたらスマートになんてやっていられない。
僕だってそうだ。
死体を飾った『作品』にカメラを向けるなんて、業の深さに変わりはないじゃないか。少なくとも、正気の沙汰じゃない。
でも、それでも僕は『作品』と向き合い続ける。
春原無花果というニンゲンを、『モンスター』をトレースするように。輪郭をなぞって、カタチを与える。あなたは間違いなく生きていると、そう伝えたいがために。
……なんだ、僕の『作品』だって、そんなものじゃないか。
ご大層に芸術だなんだと言っていられない。ただ、ひとつのいのちに確証を与えるためだけに、シャッターを切る。それがたまたま芸術になっただけの話だ。そんなもの、今さらだれかに認めてもらおうだなんてムシが良すぎる。
今回の『生きた素材』の装飾は、そんな簡単なことを気づかせてくれた。
白鷺百合恵は、『モンスター』としての『死』を与えられたことによって、ニンゲンとして生かされた。もう二度と、あの美しい『カナリア』が鳴くことはないだろう。
それでも、たしかに生きている。声を失った『カナリア』は、鳴けないままいのちを保ち続ける。
……もし、無花果さんが『うた』を歌えなくなったら、そのときは僕が『死』を与えよう。『モンスター』を終わらせるための、決定打を。そして、ニンゲンとして生きていってもらう。
そこには、僕のカメラが撮るに足るものはないかもしれない。ただのニンゲンなんて、もう僕には撮れないからだ。
いわば、『記録者』としての僕は、『死体装飾家』としての春原無花果と心中しようとしているわけだ。
『表現』ができなくなったときには、『モンスター』としていっしょに死のう。
そして、ニンゲンとしていっしょに生きよう。
真の『相棒』とは、そうあってしかるべきだ。
……けど、一抹の不安はある。
そうなったとき、無花果さんは壊れてしまわないだろうか、と。
『モンスター』としての『死』と、ニンゲンとしての『死』は、無花果さんの中では等価なのではないか、と。
もう作れない、そうなったときに、無花果さんは生きること自体をやめてしまうかもしれない。今度こそ絶望を超えた地獄がやってきて、生きることを放棄してしまうかもしれない。
僕にとっては、それが一番こわかった。
……あやうすぎるだろ、こんなの。
しかし、そのあやうさこそが無花果さんの魅力なのだと、僕はよくよく知っている。ニンゲンとしても、『モンスター』としても、ひとの目を惹き付けてやまない魔力じみた引力は、その不安定さにあった。
常に『生』と『死』のキリトリ線の上を歩くような生き方。
だったら、せめて最期まで付き合おう。
目を逸らさずにすべてを見届ける、それが『庭』から与えられた僕の役割なのだから。
そうなると、今回の『生きた素材』の装飾は、希望のように思えてきた。
白鷺百合恵は『モンスター』として死んで、ニンゲンとして生きていくことを選んだ。
だったら、もしかしたら無花果さんも。
白鷺百合恵が最後に『うた』を歌って生きていくと決めたように、一切のアイデンティティを捨てて、ただのニンゲンとして生きていけるかもしれない。
いや、そうさせることが、『相棒』として僕ができることなのだ。
簡単には死なせてやらない。
せいぜいもがき苦しんで生き続けろ、春原無花果。
僕に見つかったのが運の尽きだ。
ライフゴーズオン。
いのちは終わらない。
……自然と、夜道を歩く脚にちからが入る。もわっとした空気を切るように、一歩一歩と前に進む。
そうだ、僕に絶望の果ての希望を与えてくれた『うた』を、今夜は聞いてみよう。サブスクでなにか歌謡曲でも選んでみようか。今日は往年のシャンソンを聞きながら眠るのもいいかもしれない。
僕たちのこれからを想像しながら、音に浸ろう。
『うた』の数だけ、人生があるのだから。
……その前に、今夜の晩御飯はどうしようか。
たぶん、途中のコンビニになにか置いてあるだろう。最近ではすっかりコンビニ食生活だけど、なにか腹に入れて眠れれば、それで世は事もなし、だ。
そんな風に考えながら、僕の脚は今日の夕食を探しに、コンビニの明かりへと吸い込まれていくのだった。