№14 『あの夜』
とんこつラーメンを食べ終わるころには、白鷺百合恵は帰っていった。送りましょうか、という言葉を辞して、何度も何度も頭を下げて、事務所を後にする。
六人分のどんぶりを片付けてから、僕は写真を現像しに暗室に向かった。少しだけ、『調律』の生ぐさいような残り香がした。
赤い光だけがともる暗室で、慎重にフィルムを現像し、写真にする。
できた写真を抱えて暗室から出てくると、例によって無花果さんが待ち構えていた。
「どれどれ……」
ひらりと写真を一枚取って眺める。しばらくじっと見入ったあと、無花果さんはそれ以上写真を取ることもなく、取った一枚を山に戻してしまった。
そして満面の笑みで、
「たしかに、『うた』が撮れてるね! これはまぎれもなく『うた』の写真だ! 小生の『作品』の写真でもなく、白鷺百合恵の写真でもない、『うた』の写真だ!」
太鼓判を押して、ほんの少し笑顔を潜める。
「もう、小生にはなにも言うことはないよ。パーフェクトだ。また成長したのだね、まひろくん」
「……ありがとうございます」
それは、どんな賛辞よりもこころに響いた。これもまた、無言の賞賛だ。
僕自身、『うた』が撮れたと驚いていたのはたしかだけど、無花果さんのお墨付きをもらってほっとした部分はある。評価されないと確信できない『作品』なんて、まだまだだ。パーフェクトには程遠い。
それでも、無花果さんは僕の成長を認めてくれた。なによりの成果だ。
白鷺百合恵に送る写真を何枚か選んでから、残りを暗室のキャビネットにしまう。
事務所に帰ってくると、無花果さんはまだいた。なにをするでもなく、ソファでぼーっとしている。
「……ねえ、まひろくん」
「なんですか?」
帰り支度をしようとしていた僕の名を呼ばれたので、短く返事をした。
無花果さんは虚空を見つめながら、
「……これでよかったのかなあ……?」
そんなことをつぶやいた。
僕が白鷺百合恵に問うたのと同じ言葉だ。『カナリア』本人は静かに笑うばかりだったけど、無花果さんはまだ納得がいっていないらしい。
……なんだ、無花果さんも自分の『作品』に疑問を持っていたのか。僕と同じくだれかの答えを待っている。それに少しだけ共感して、僕は苦笑した。
「らしくないじゃないですか。あんなに息巻いてたのに」
「いやさー、今回死人を現世に引き戻したわけだろう? 小生、ネクロマンサーになるつもりなんて、これっぽっちもなかったのだよ。あのまま、絶望したまま、終わりにしてやった方がよかったのかな、って。その方が自然な流れだったのかな、って」
そんなことを考えていたとは。
たしかに、『人間賛歌』はときに残酷だ。
絶望によって死の淵に立たされていたニンゲンをひとり、現世に引き戻したわけなのだから。こぶしで殴って、『作品』で殴りつけて、『生きろ』とわめいた。
結果、絶望を取り上げられた白鷺百合恵は、生きざるを得なくなった。
それは、とても罪深いことのように思える。
そんな無花果さんに、僕はひとつ、聞きたいことがあった。
「ねえ、無花果さん」
「なんだい、まひろくん?」
「無花果さんは、なにかに絶望したことはありますか?」
この、絶望からは程遠いような無花果さんというニンゲンは、果たしてこころの底から望みを奪われたことはあるのか。それを聞きたかった。
無花果さんはしばらくの間、無言で手元を見つめ、そしてため息といっしょに答えた。
「……もちろん、あるさ。私だって、まだ少しはニンゲンなのだからね」
続けざまに、無花果さんは語る。
「そう、『あの夜』だ。私の10歳の誕生日……母が、父を殺して、その死体をどこかに捨てた夜」
心臓が跳ねる。これは、無花果さんの絶望についての核心に迫る話だ。
今の僕は、踏み込んでもいいらしい。
黙って聞いていると、無花果さんはぽつり、ぽつりと言葉を連ねる。
「母は首を吊って死んでいたよ。遺書を残してね。それをもとに、最初の『死体探し』をした。父の死体を見つけ出し、そして『作品』にした。私の初めての『創作活動』だよ」
母親が父親を殺し、その母親も自殺した。いきなり両親が死んでしまって、放り出された無花果さんがなにを思って死体を探したのか、それは想像することしかできない。
混乱と疑問、かなしみと絶望のさなか、それでも無花果さんは父親の死体を探した。春原無花果、最初の探偵行だ。
そして、見つけた死体を装飾した。
なぜそうするに至ったかは、僕にはわからない。
けど、そうしなければ無花果さんは壊れてしまっていただろうということだけはわかる。
もっとも親しくしていた肉親同士が、殺しあった。無花果さんはひとり置いていかれて、途方に暮れていた。
絶望するなと言うには、あまりにも無理がありすぎる。
10歳の無花果さんは父親の死体を探し出して、『創作活動』をおこない、その絶望を『排泄』した。
そうしなければ、生きていられなかった。
手段など、選んでいられなかった。
父親の死体を『作品』にして、その夜、『死体装飾家』が世界に産声を上げた。
すべては、その夜から始まってしまったのだ。
回る車輪のように、次から次へと死体を『作品』にしなければ、生き続けられない。回遊魚のように、泳ぎ続けなければ生きていられない。
だからこそ、無花果さんは他人の『死』でもってしか、『自己表現』ができなくなってしまったのだ。
一番初めが父親の死体であったからこそ、無花果さんはこの道を選ぶことしかできなかった。
そこには、なんの救いも他の選択肢もなかった。
「そのとき、父親の大学時代の友人である所長に拾われてね、最初の『作品』を見た所長は、すぐさま私のために探偵事務所を開いてくれたよ。私と、小鳥くんと、所長。三人だけの『安土探偵事務所』はそうして生まれたんだ」
「……素材となる、死体を集めるため」
「そう。『創作活動』のためにはどうしても死体が必要だったからね。死体による『表現』だけが、私に許された生きる道だったんだ。最初のころは名も売れてなくて、苦労したものさ。一年間『創作活動』ができなくて、発狂しかけたときもあった」
苦笑いして、無花果さんは当時を振り返る。
「それでも、本格的に探偵事務所が始動すると、だんだん死体が集まってきた。まさに、私のための『庭』だね。『作品』の名前もどんどん世界中に広がっていって、何人もパトロンがついた。そして、私は『庭』から一歩も出られなくなった」
小鳥くんと同じだ。
この『庭』もまた、無花果さんの安住の地であり、同時に無花果さんを閉じ込める檻のようなものだった。
有名になればなるほど、死体が集まれば集まるほど、無花果さんは『創作活動』に没頭していった。
そして、気づいたときには『死体装飾家』として、もう戻れないところまで来てしまったのだ。
……始まりが始まりだっただけに、なんて業の深い芸術家人生だろう。
無花果さんが生きていくためには、それしか手段がない。
だから、死体を装飾し続ける。
……あの温泉旅行の夜に聞いたような気がした話は、真実だった。
今度こそ、無花果さんは面と向かって僕に打ち明けてくれたのだ。
おのれの芸術家としての出発点を。
絶望の、爆心地を。
「……つまらない話をしたね。すまない。まあ、私の人生はこんなものだということだよ。この程度のことで絶望する、弱いニンゲンだ」
違う、とは言えなかった。
それどころか、そんな弱さまで肯定したくなった。
その夜は、『死体装飾家』・春原無花果だけでなく、ニンゲン・春原無花果の第二の誕生日だったのだから。
「……ありがとうございます、話してくれて」
「なぁに、ちょっとした思い出話さ。忘れてくれ」
そんな風に言う無花果さんに向けて、僕は深々と頭を下げるのだった。