№12 『人間賛歌』とおっぱいと
すべてが終わり、静寂が訪れ、白鷺百合恵が退場してから、ようやく僕はカメラを下ろした。
とうにフィルムは尽きている。最後の方はフィルムが切れていることすら気が付かずにシャッターボタンを押していたようだ。
ちんちんに過熱した銃身のように、熱は冷めやらなかった。このままでは頭がうだってしまう。
今回は死臭が染み付くことはなかったけど、僕はシャワーを浴びることにした。カメラを置いて浴室に向かうと、脱衣所で服を脱いで、シャワールームに入る。
最低温の冷水に設定して、頭から冷えた水をかぶった。途端、頭がすうっとしていく。
髪の先からしたたるしずくを眺め、考えこんだ。
今回、無花果さんはついに『生きている素材』さえも装飾してしまった。これは芸術家としての確実なステップアップだ。無花果さんは進化して、またワンランク上の世界に行ってしまったのだ。
僕だって、成長できた。目には見えない、フィルムには焼き付けられないはずの『うた』を撮ることに成功した。
見えないものを撮影すること。それこそが、僕なりの写真家としての境地だ。愛、欲望、かなしみ、願い……カタチにならないものにカタチを与える。それこそが写真家の役割だと。
真実の『光』も『影』も、決して目に見えるものではない。僕はこれまでそういうものを撮ろうとしてきた。それが今回、念願叶って成功したというわけだ。
それでも、まだ無花果さんには追いつけない。僕が進歩したと思ったら、無花果さんもまた進んでしまうのだから。
……追いついたと思ったら、もうそこにいない。つくづく、はてしのないひとだ。
もしかしたら、『死を想う』無花果さんの『作品』は、『生』を省みることなんじゃないだろうか。
『死』があるからこそ、そのコントラストで『生』が輝き始める。息をし始める。『影』があるからこそ、『光』が際立つ。
結局、『死体装飾』は『人間賛歌』だ。
『死』を題材として、素材として扱うことは、逆説的に『生』を突きつけることに通じる。
こいつらは死んだ。
そして私たちは生きている、と。
彼岸と此岸、それを隔てる三途の川。あるいは、無限に広がるあわせ鏡。
『死』と『生』のど真ん中に立って、沈黙を破るように高らかに『人間賛歌』を歌い上げる。
それが、春原無花果の『作品』なのだ。
ひたすらにやかましく、『生』をがなりたてる『うた』。
芸術とは、洗練された暴力だ。研ぎ澄まされたやいばだ。ときにひとを殺し、ときにひとを守る。『死』にさらわれそうになった白鷺百合恵のようなニンゲンを、救うことだってできるのだ。
同時に、一歩間違えれば造り手すら傷つけることになりかねない。
毎回毎回、いのちを削るようにして『作品』を完成させている無花果さんだって、その『死』に引きずられるかもしれない。
『死』は認識し、意味を与えることができる。
けど、決して飼いならせはしない。
奢り高ぶれば、必ずしっぺ返しを食らう。
あえて『生』と向き合うことは、それくらい危険なことだった。『死』によって『生』が際立つのと同じく、『生』を作り上げることは、終わりである『死』へのカウントダウンを始めるということだから。
これから、無花果さんがどんな風に進化していくのかはわからない。
けど、完全に『モンスター』になってもらっては困る。僕はそこまでは付き合えない。カメラが入り込めない神話の世界の住人になってしまったら、もう僕は完全に追いつけなくなってしまう。
だから、ほんの少しだけでいい、ニンゲンでいてほしい。
『死』と『生』の狭間で揺れる、解脱できないニンゲンのままであってほしい。
……なんて、ワガママかな。
僕はシャワーを止め、思考も中断した。
シャワールームから出ると、脱衣所でからだをふく。脱ぎ捨ててあった服を着て、タオルで髪を拭きながら浴室を出た。
……無花果さんは、なぜかぶすくれた顔で突っ立っている。もう『調律』は終わったのだろうか。
なにか声をかけるよりも先に、無花果さんは僕の右手を取ると、おもむろに自分の胸に手のひらを押し当てた。
「…………」
「…………」
「……なにか、感想はないのかい?」
「ええと……胸ですね。比較的大きな」
「それだけ?」
「やわらかいです」
「ふうん。淡白な返答の割にはしっかりと揉みはするのだね!」
「いや、だって、胸ですから。揉まないと失礼かと」
「ああ、まひろくん! 君ってやつはどこまでも紳士なおっぱい星人なのだね! そうだよ、こういう反応だよ普通は!」
「……なにかあったんですか?」
「べっつにぃ!?」
「だいたい、僕はおっぱい星人じゃありません」
「小生のおっぱいを揉みしだいておいてそれかい!?」
「違いますよ。おっぱい星人なんかじゃありません。僕は、言うなればおっぱい原理主義過激派です」
「……うん?」
「おっぱい原理主義過激派です」
「繰り返して言ってくれたのはありがたいんだけど、説明してもらえるかな?」
「長くなりますけど、いいですか?」
「え、長い話はちょっと……」
「おっぱいは神聖にして不可侵なものなんです。男性にはありえない、やわらかな女体の象徴。性の神秘。神が与えた奇跡。それがおっぱいなんです。それならただ小麦粉練ってろと言われるかもしれませんが、それは論点のすり替えでしかありません。ひとつの人格があって、そこにおっぱいというものが伴っているからこそ、尊いものなんです。付属品、オマケ、バイプレイヤーであるからこそ、おっぱいという存在は奇跡の輝きを放つんです。ひとつのたましいがおっぱいを帯びているからこそ、その女性性が一層美しくきらめくんです。大きくても小さくてもいい。サイズに貴賎などありません。すべてのおっぱいは平等です。平等に神聖なものなんです。だから、軽々しく手を出していいものじゃない。いわばこれは、秘宝なんですよ。トレジャーです。そこには全男性のロマンがあるんです。夢と希望に満ちているんです。決してよこしまな目で見てはいけません。たっとび、崇め奉らなければなりません。超合金ロボに性的に欲情しますか?つまりはそういうことなんです。すべての男性は等しくそのロマンを」
「ちょっちょっちょ、ストップ! ストップ、まひろくん! お願いだから止まってくれたまえ!」
「……なんですか、ここからが本題なのに」
「君がおっぱいを非常に愛していることはよくわかった! わかったからもうやめてくれ!」
「言ったでしょう、長い話になるって」
「こんなドン引きするほど長い話になるとは思ってもみなかったよ!」
「ともかく、僕はおっぱい原理主義過激派なんです。なので、迂闊におっぱいを揉ませない方がいいですよ」
「……童貞のくせに、おっぱいにうるさい男だね……! 君はゴルゴ13かなにかかい!? むしろ初めてキメェと思っちゃったじゃないか! さっきから何回おっぱいおっぱい連呼すれば気が済むんだい!? 小生、頭がフットーしそうになっちゃったよ!」
「童貞だからこそ、女体には夢と希望を追い求めるんですよ」
最後にもうひと揉みしてから、僕は無花果さんの胸から手を離した。その感触をしっかりと覚えておく。
……ところで、無花果さんはどうしてそんなに引いているのだろうか? 怪物を見る目で僕を見ている。
まあいいや、とスルーして、僕は冷蔵庫へと向かった。冷えたスポーツドリンクを取り出すと、一気に喉に流し込む。これで、からだの内側も冷えた。
ペットボトルを片手にソファに座ると、右手をまじまじと眺めた。
……なるほど、参考になる。あれがおっぱいか。約100センチ、重さは片方1キロ強、だいたいGカップと見た。
しかし、僕は決してこの感触をオカズにすることはないだろう。なにせ、おっぱいは侵してはならないサンクチュアリなのだから。
右手からなにか出そうな気さえしながら、僕は静かにからだを冷やすのだった。