№11 ラストステージ
……それは、ただの空気が流れる音だった。
すか、すか、と酸素がむなしく喉を通過するだけの音。
とても歌唱と呼べたものではない。
……けど、たしかに『うた』だった。
マイクに、情感たっぷりのシャンションが流し込まれていく。桜のつぼみだった、大輪の牡丹だった、円熟した枯れ木だった、あの『歴史』が、『うた』として放出される。
マスクに覆われたくちびるを動かして、マイクに向かって、完璧に完成された『うた』を歌う白鷺百合恵。
息継ぎをする躍動が、声帯のない喉のわななきが、表情が、空間を彩っていく。
『うた』というものを突き詰めて、突き詰めて、突き詰めて、そして行き当たったのが、その無言の『うた』だった。
歌手・白鷺百合恵は、声をなくしてから、その最終的な境地に至った。
沈黙ですべてを歌い上げる。
なんて迫力だろう。
なんて説得力だろう。
なんて表現力だろう。
関係者が口々に語っていたように、もう白鷺百合恵はニンゲンではないのかもしれない。
鳴けない『カナリア』は、『音楽』そのものになった。それは芸術の神の領域で、歌手としての究極の最終形だ。
『カナリア』は、からだを震わせて歌い続ける。たましいの声が、『ここで歌っている』と叫んでいる。最後の舞台は今この場所だと。
僕は間違っていた。
ラストライブの歌声は、絶唱なんかじゃない。
だって、ここにはまだ『うた』があるじゃないか。
大ウソつきの『カナリア』が、たったひとつ世界に誇れる『ホンモノ』が。
マイクを抱き、『カナリア』は声なき声の限りに鳴き叫ぶ。髪のなくなったかぶりを振り、苦痛に似た表情を派手な舞台メイクのかんばせに浮かべて、腹の底から息を絞り出し。
……ああ、そうだ、写真……!
頭が真っ白になっていたけど、僕はこの『光』と『影』を『記録』しなくてはならない。それが僕の役目だ。ここに立っていていいと許可をもらうためには、その役割を果たさなければならない。
両手の翼を広げて渾身の『うた』を捧げる『カナリア』に向けて、何度もシャッターを切る。角度を変えて、ピントを調整して、光源を意識して、何枚もフィルムに焼き付けていく。
それは、現代のセイレーン。
かつて船乗りたちを歌声で海に葬ってきた怪異は、姿を変えてここに降り立った。両翼も、丸めた頭も、派手なメイクも、なにもかもが怪異じみていた。
あるいは、八百比丘尼。
その姿は、かつて人魚の肉を喰らって永遠のいのちを得た尼僧としても受け取れた。『表現者』が死んでも、『表現』は未来永劫生き続ける。それが罪だとしても、それが罰だとしても。
……どちらにせよ、白鷺百合恵はもう、ニンゲンではない。
『うた』がカタチを得た怪異に成り果てた。
どんな怪談よりも、心底、ぞっとする。
しかも、その完成形が『無音』だなんて、もはや神話でしかない。
僕は今、神話と対峙しているのだ。
……絶対に、フィルムに焼き付けてやる。
ひるむな、日下部まひろ。おじけづくな。弱腰になるな。
見たものの目が潰れたとしても、呪われたとしても、その姿、絶対にとらえてやる。
僕だって『表現者』だ。こんな圧巻のステージを見せつけられたら、応えなくてはその名が廃るというものじゃないか。『表現者』としてのたましいが、共鳴している。
上手く撮ろうと思うな。
しかし、単純な真実だけを写すな。
咀嚼して、嚥下して、消化して、排泄しろ。
それが、日下部まひろの『作品』になる。
……喰らってやる。
この『光』と『影』、絶対にモノにしてやる。
乗りこなすには危険すぎる荒馬だけど、そこは意地と根性で御して、おのれの実にしてみせる。
そうやってカメラにしがみついているうちに、ふとした感覚が訪れた。
……ああ、今、僕は『うた』を撮っている。
たしかに、『うた』がフィルムに焼き付いている。
カタチのないものを撮影しているという手応えが、たしかにそこにあった。
その感覚に出会ったのは初めてのことで、僕はシャッターを切りながら自分でも驚いていた。
……やがて、声なき『うた』は沈黙のうちに途切れた。
アンコールはなく、見えない幕が下りて、白鷺百合恵はたったふたりの観衆に深々と頭を下げた。
声なき声で、堂々と歌い上げて見せたのだ、この『モンスター』は。
鳴けない『カナリア』の『うた』は、たしかに美しかった。それ以上に、言語化できないエモーションを揺さぶった。
「……なんだ、まだ鳴けるじゃないか……まだ、生きてる」
疲れきってぐったりしながらも、無花果さんは満足げににやりと笑った。最初からこうなることがわかっていたみたいに、『それでいい』と。
そして、今度こそ宣言する。
「……できたよ。これが、今回の私の『作品』だ」
『生きている素材』本人のちからを借りて、『死体装飾家』の『作品』は、ここに完成した。
たしかに、鳴けない『カナリア』なんて死体そのものだ。『死』という概念がカタチを得たようなものだ。
それなのに、こんなにも『生きている』。
『死』を逆説的に使った、これはいのちの賛歌だった。
今まで『死』を想っていた無花果さんが、『生』と向き合った。ひとの『死』でしか自己表現ができなかったはずの無花果さんが、初めていのちを飾り立てた。
それは、芸術家としてのキャリアを語る上で、重要な転換点となるだろう。
それくらい、今回の『作品』は、今までのどんな『死』よりも衝撃的だった。
こころを素手で殴られた、じゃ済まない。
たましいを、指の先でごっそりえぐり取られた。
いのちが宿ったものすべてに、『生』とはなにか、そんな問いかけをぶん投げるような『作品』だ。
息が詰まる。思考が吹っ飛ぶ。心臓が早鐘を打って止まらない。
自慰を覚えたての猿のように、僕は一心不乱にラストステージに、『うた』に向けて、シャッターを切り続けた。
「……お見事だよ、Canary」
無花果さんから白鷺百合恵に向けて、最大級の賛辞が送られる。疲れきってくたくたになった無花果さんは、それでもラストステージに拍手を送った。ぱちぱち、と、万雷には及ばない音が『アトリエ』に鳴り響く。
僕も、釣られるようにしてカメラから手を離し、惜しみない拍手を送った。
たったふたりの拍手なんて、今まで大舞台をいくつも踏んできた白鷺百合恵にとっては至極ちっぽけなものだろう。
……それでも、そのアイメイクはたしかに涙でにじんでいた。
『カナリア』はもう一度深くお辞儀をして、満面の泣き笑いを浮かべる。
『音楽』そのものになった『カナリア』の、俗世に向けてのさよならの挨拶だ。
再びカメラのファインダーをのぞいた僕は、その鳴り止まない『うた』を、次々とフィルムに焼き付けていく。
『死体装飾家』。
『カナリア』。
そして、『記録者』である僕。
三者三様の『表現』が混ざりあった、これはいわば合作だ。この『創作活動』で、無花果さんは初めて自分の『作品』に、いのちに、他者の介入を許した。背中を預けてくれたのだ。
その現場に立ち会った僕は、今度こそ本当の『相棒』になれた気がした。
いつもの褒め言葉だけではなく、真に一人前の『表現者』として認められた気がした。
なんだか、僕まで泣きたくなってきた。
そんなたましいの震えを隠すこともなく、僕は指が震えるままに、シャッターボタンを押し続ける。
観衆は僕たちだけのこのラストステージは、だれも知らないうちに伝説となった。
『音楽』となってさらに高いステージへと踏み出した『カナリア』を、僕は必死になってレンズで追いかけ続けるのだった。