№10 面構え
事務所に到着しても、白鷺百合恵が泣き止むことはなかった。涙は枯れ果てることを知らず、あとからあとからこぼれてくる。
僕はむせび泣く老女を一旦ソファに座らせて、なんとか落ち着かせようとした。
「しっかりしてください、白鷺さん」
もちろん、そんな呼びかけで涙が止まることはない。大きくしゃくりあげ、それでも無音で泣き続ける白鷺百合恵。
「もう大丈夫ですから。なにも死ぬことないですよ。助けほしかったんでしょう? だったら、なにもかなしむことなんてないじゃないですか。だから、」
「だから、生きろってか? そんな小さい声じゃ、この大ウソつきには響きはしないよ、まひろくん!」
僕の言葉を遮った無花果さんが、代わりにまた白鷺百合恵の胸ぐらをつかんで揺さぶる。
「おら、いつまで泣いてんだ、しゃきっとしろ! いらつく!!」
どこまでも自分勝手に言っても、涙が止まるはずもなく。号泣を続ける白鷺百合恵に向かって、無花果さんは声を張った。
「いいか、お前は死んだ『カナリア』だ! けどな、『カナリア』は死んだって歌うもんだ! 小生がそれらしく鳴けるようにしてやるから、一世一代、最後の舞台を踏め!」
舞台、という言葉に、ひゅ、と喉が鳴る。
それは、千の言葉よりも饒舌に白鷺百合恵のこころの揺れを語っていた。
まだ、希望を捨てていない。
歌えなくなってもなお、白鷺百合恵は空を恋しがっている。
絶望しきっていない。
それにつけこむように、無花果さんは喚き散らす。
「四の五の言うな! いいから、もう一度鳴け、白鷺百合恵!」
ふっと、その矮躯からちからが抜けた。張り詰めていた糸が切れるように、高ぶった感情がゼロ℃にまで急降下する。
……もう、白鷺百合恵は泣かなかった。
顔を覆っていた手を、すっと下ろすと、『そのケンカ、買ってやる』とばかりに、泣き腫らした顔で無花果さんの視線と対峙する。
それは、間違いなく数々の舞台を踏んできたベテランシャンソン歌手の顔だった。歴戦の戦士の顔つきだ。
ここにはもう、ただ鳴けないことを嘆いているだけの『かわいそう』な『カナリア』はいない。
いるのは、幕が上がるのを待っている歌い手がひとり。
「……いいじゃん。いい面構えだ」
にやりと笑って、『魔女』はそうつぶやく。
「小生の初めての『生きた素材』になるんだ、シケたツラさてたんじゃ困るからね!」
そう、無花果さんはこれから、『カナリア』をもう一度だけ鳴かせる魔法をかける。『生きた素材』を装飾するつもりだ。
それがどれほど大変で、しかし意味あることなのか。僕なんかには測り知ることすらできないけど、いつもの『創作活動』とは一線を画するということだけはわかる。一体どんな化学反応が起こるのだろうか。
世界的な『表現者』同士、通じ合うものがあるのだろうか。白鷺百合恵は無花果さんの笑みに呼応するように、ぐしゃぐしゃの顔で笑った。
やっと、笑ったのだ。
黙ってその腕を引いて、無花果さんは『アトリエ』へと向かう。
そうだ、カメラを持っていかないと。
僕はテーブルの上に置いてあったカメラを準備すると、すぐさまその後を追いかけて『アトリエ』に入る。
……無花果さんは、すでにいつもの祈りを捧げていた。白鷺百合恵は向き合って同じように両手を組んでこうべを垂れている。まるで合わせ鏡のようだった。
まずその光景を何枚か撮影する。なにかすごいことが始まるような気がして、シャッターを切る指がかすかに震えていた。
ほどなくして、無花果さんは呪文を唱える。
「……As I do will, so mote it be.」
いつものように『そうあれかし』と祈りを終えると、猛然と立ち上がった無花果さんは、小鳥くんが用意してくれた資材の中からバリカンを取り出した。
そして突然、白鷺百合恵の白髪混じりの髪を刈り落とした。ばさばさと髪の毛が落ちて散らばる。
女のいのちとも言える髪を、ここまで躊躇なく刈り取れるか。バリカンの電動音を鳴らしながら、無花果さんはたちまち白鷺百合恵の頭を丸刈りにしてしまった。
さらにカミソリですっかり剃りあげてしまうと、その頭はつるつるに丸められる。
死装束になるはずだった黒いイブニングドレスはそのままに、次は大量の金色の大きな羽根を抱えてくる。
その羽根を一枚一枚、広げた腕にくっつけていく。羽根に羽根を重ね、さらに重ね。いつしか、両腕は大きな金色の翼になった。
巨大な翼を作り終えると、今度はメイクだ。すっぴんの老いた肌に、丹念に化粧を施す。舞台メイクらしくファンデーションで真っ白に顔を塗りたくり、派手なアイシャドウ、つけまつ毛だってつけていた。
仕上げに、無花果さんは白鷺百合恵の口に、黒字に白いバッテンが書いてあるマスクを取り付ける。もう鳴けなくなった『カナリア』に、くちびるは不要だ。
それでメイクは終わり。
最後に、無花果さんは喉の手術痕にも手を加えた。縫合の痕にアイライナーで丁寧に描きこんでいくのは、閉じたまぶたの柄だ。まるで開くのを待っているかのような瞳が、声帯のない喉に出現する。
僕は、その熱狂に充てられたように夢中でシャッターを切った。何枚も何枚も、『創作活動』の現場の熱の痕跡を残そうと、フィルムに焼き付けていく。
残りのフィルムの残弾数なんて気にしていられない。
間違いなく、初の『生きている素材』の装飾は、『死体装飾家』・春原無花果にとってエポックメイキングな出来事だった。
またフィルムが切れる音がする。慌てないように、しかし素早くフィルムを交換すると、僕はなおもシャッターを切った。何度も、何度も。
『創作活動』の現場は、息をするのが難しいくらい過熱していた。それは無花果さんも同じらしく、いつも以上に気力体力を振り絞っている様子だ。
喉への装飾を施して、やっと無花果さんは息をついて止まる。
しかし、いつもの『できたよ』の宣言はない。
『これが今回の私の作品だよ』とは、決して言わなかった。
……そうだ、『作品』はまだ完成していない。
この『作品』には、鳴けなくなった『カナリア』の『うた』が必要なのだ。無花果さんの装飾だけでは足りない。
苦しげに息を乱しながら、無花果さんは資材の山からマイクスタンドを引っ張り出してきた。
そして、マイクをセットして白鷺百合恵の目前に置き、頭上にぶら下がっていた裸電球のスイッチを入れる。まるでスポットライトのように『カナリア』が照らし出された。
……これで、最後の舞台は整った。
できることはやった、とばかりに、無花果さんはどさりと椅子の上にからだを投げ出す。
あとは、『カナリア』次第だ。
どう鳴くかで、『作品』の出来栄えが変わる。
無花果さんは今回、初めて『作品』の完成を他者の手に委ねたのだ。そんな不確定因子を入れるなんて、芸術家としては致命的な行為だというのに。
それでも、無花果さんは白鷺百合恵に『作品』をバトンした。『今度はお前の番だ』、そう言っているような気さえする。
そこには、高度な『表現者』同士でしか成り立たない、信頼感じみたものがあった。『作品』は無花果さんにとってのいのちも同然、そのいのちを預けるに足る『表現者』だと、言外に認めたのだ。
……幕は上がった。
あとは、『カナリア』が声なき鳴き声を上げるだけだ。
無花果さんはなにも言わない。
僕も、ただ無言でカメラを構えていた。
だれも、『歌え』とは言わない。
それでも、白鷺百合恵は歌手としての本能に従うように、自然な仕草でマイクに手をかけた。
息を吸い込み、やがて……