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Grave Dancers ! ~死体装飾家の修辞学~  作者: エノウエアカシ
第10章 The Sickness Unto Life
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№6 逆再生のディスコグラフィ

 最初は、ラストライブのYouTube配信から始まった。


 大きなホールに詰めかけた観衆を前に、イブニングドレス姿の痩せこけた老婆が姿を現す。舞台の中央に立って一礼してから、すうっと息を吸い込み、そして。


 ……声は、ほとんど出ていなかった。


 かすれて潰れた声は、かつての華やぎを感じさせはするものの、バックバンドに負けてしまっている。観衆の間にはどよめきが走った。


 それでもなお、白鷺百合恵は歌い続けた。


 声の限りに、歌い上げた。


 たしかに、その声はみじめなほどに無様だった。


 しかし、その姿勢が、そのプレッシャーが、その歴史が、重々しく会場中に鳴り響いている。


 こんなものは、単なる空気の振動に過ぎない。


 それでも、たしかに『うた』だ。


 これから声を失おうとしている、『カナリア』の絶唱だった。


 ……戸惑いに満ちあふれた観衆から、ぱらぱらと拍手が起こる。それはやがて大喝采となり、スタンディングオベーションとなった。


 万雷の拍手を受けて、白鷺百合恵が深々と一礼する。


 それが最後の舞台だと知りながら。




 次は、晩年のCDからの音源だった。


 これも、声がすっかりしわがれている。しかし無様な様子は微塵も感じられなかった。


 焼けた喉は枯れていてもなお周囲の音を圧倒し、円熟味さえ感じさせる。何年も歌を歌い続けてきたが故に酷使された喉にしか出せない声だ。


 まさしく、完成形。


 まさしく、大御所。


 歌手人生の結晶のような歌声が、鼓膜を直撃する。


 老いたからこそ、その声はなによりも『うた』となっていた。もはやこれは、ひとの声ではない。『音楽』そのものだ。白鷺百合恵は、そういう名前のひとつの楽器と成り果てていた。


 華やかさやまろみ、艶、そういったものは一切ない。


 が、ひとが枯れ木に侘び寂びを見出だすように、積み重ねてきた年月の重みがにじみ出している。


 そして、その技巧やるや。


 シャンソンのなにもかもを知り尽くしているからこそ、この『うた』は成り立っている。


 まるで熟練の職人の仕事だ。


 無駄を一切削ぎ落とした、贅肉のないナイフを思わせる洗練。


 白鷺百合恵は、この時点ですでに『完成』していた。


 


 その次は、中期のカセットの音源だった。


 さっきのCD音源のような完成度はまだない。


 しかし、確実にその歌声には脂が乗っていた。今こそが人生の春だと、惜しみなく歌い上げている。


 哀愁と、それゆえのエロス。艶やかな声が再生された途端、大輪の牡丹が満開になったような景色さえ見えた。


 ある程度の熟練者ではある。が、どこかつたないところも聞き取れた。逆にそれが持ち味として感じられるほどに、その声は有無を言わせない魅力にあふれている。


 もはや魔力とさえ言っていいのかもしれない。


 聞くものを『うた』の世界へといざなう、白鷺百合恵もまた、ひとりの『魔女』なのだ。


 先のことなんてどうでもいいわ、今このときを精一杯歌いたいだけ。


 そんな言葉が聞こえてきそうだった。


 未完の完成。不完の完全。


 パズルのピースがひとかけそろっていないその状態が、白鷺百合恵という歌手の本来の姿なのかもしれない。


 完成された『うた』には感じられない、可能性。


 そんなものが見え隠れする、花のさかりの全盛期。


 声のすさまじさに、歌唱力が追いついていない。


 暴れ馬を連想させる、制御できないパッション。


 その歌声は、熟れた果実だった。




 さらにその次は、デビュー当初のレコードまでさかのぼる。


 なってない。


 技巧もなにもあったもんじゃない。当時の大御所が聞いたら眉をひそめるだろう。これならアイドルソングでも歌ってれば?と言われるかもしれない。


 だが、そこには若くはつらつとしたパワーがあった。


 若さとは、それだけでぐうの音も出ないようなちからとなる。青春を謳歌しているもの特有の、どうしようもなく膨大なちからだ。


 弾け飛びそうなハリと、みずみずしさ。


 シャンソンというジャンルでは、それはときとして邪魔になったかもしれない。まだまだ、しっとりと歌い上げるということができていない。発音や滑舌だってつたない。


 聞いているこっちが思わず恥ずかしくなるほどの若さ。


 同時に、これから大成していくのだろうなという可能性の輝きに満たされた歌声。


 この声を携えて、どこへだって行ける。世界の果てまでも。


 そんな、青春特有の根拠のない万能感が、そのまま声になったかのような『うた』だった。


 完成形が枯れ木、円熟期が満開の牡丹なら、これは咲きごろのぷっくりと膨らんだ桜のツボミだ。内側からのエネルギーではち切れそうになっている。


 技術も歌唱力も未熟。


 けど、歌いたいから歌っている。


 たったそれだけの情熱が、ひしひしと感じられる。


 白鷺百合恵のその『うた』は、ただ高らかに未来へ続く可能性を紡ぎあげていた。




 それで終わりではなかった。


 最後にやってきたのは、白黒のテレビの動画だった。


 小さな公民館らしきところに設置されたひな壇に、とある少女が上っている。高すぎるマイクの位置を直して、勢いよくお辞儀をする少女こそ、白鷺百合恵の子供時代だ。


 ちびっ子シャンソン大会と横断幕に書いている通り、子供が流行りのシャンソンを歌うという企画らしかった。しかし、こうして映像が残っているほどだ、それなりの粒ぞろいだったのだろう。


 そんな中、少女である白鷺百合恵はマイクに向かって立派にシャンソンを歌った。


 ただの歌の上手な少女の声ではない。


 このころから、白鷺百合恵の才能の片鱗は見え隠れしていた。幼い声は、メロディをたどるだけでなく、そのメロディをしっかりと自分なりに理解して歌っている。


 もちろんのこと、それはシャンソンとしては成立していなかったかもしれない。単に微笑ましいだけの、子供のお遊びだったのかもしれない。


 しかし、幼くても、それは立派な『うた』だった。


 白鷺百合恵は、歌うために生まれてきたような、そんな少女だった。


 一曲歌って、照れくさそうに笑っている少女の顔がずっと忘れられない。


 そして、その歌声もまた、耳に残って離れなかった。




 このようにして、僕たちは白鷺百合恵のディスコグラフィを逆再生のようにたどり終えた。


 まるで、人生の年輪のように『うた』が刻まれていた。まさしく、白鷺百合恵という歌手の生きてきた足跡だ。『うた』に人生を捧げてきた、ひとりの女性の生まれて死ぬまでが、そこにはあった。


 はっきりと、これは『歴史』だと言い切れる。


 『うた』を聴いただけなのに、長大な一篇の物語を読み終えたような気分になった。


 声のない『うた』に、しゃがれた『うた』に、艶めいた『うた』に、はつらつとした『うた』に、幼い『うた』に、それぞれの時代の白鷺百合恵がいた。


 そこに存在していたのだと、主張していた。


 紛れもないリアルを突きつけられたような、そんな気分になる。同時に、ひとはこうして年老いていくのだと否応なしに見せつけられた。


 栄枯盛衰。盛者必衰。


 いくら今を謳歌していたとしても、やがては枯れて朽ち果てていく。


 逆再生のディスコグラフィは、いのちと時間、その関係をまざまざと表してみせた。


 今、白鷺百合恵は、声を失って死のうとしている。


 ……『うた』に人生を捧げてきた女にとって、それはごく当たり前のことなのかもしれない。


 歌えなくなった『カナリア』は、もう死ぬこと以外なにもできないのかもしれない。


 それでも。


 それでも、『表現者』が死ねば『表現』は終わり、というわけにはいかない。


 続いていくのだ。声を失ったとしても、その『うた』は終わらない。


 カーテンコールにはまだ早すぎる。


 静かに白鷺百合恵の歌手人生を旅した僕たちは、その最後の音が途切れるまで、しばし無言で耳を傾けていた。

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