認識の外
感覚や意識、認識の遮断というものはあまり気づかれていないだけで当たり前のように存在している。
その例として少し想像してみて欲しい。例えば君は何かの間違いでスパイの容疑で捕まり、身動き一つできないほどに拘束されているとしよう。何やら隠していることを話せと言っているが、実際間違いで誘拐されている以上話せることなど何もない。それを相手に伝えるが簡単に信じるわけもなく、とうとう君は拷問を受けることとなった。
手始めに爪と指の間に針を刺される。それは普段の自分であれば想像し難い痛みで、思わず呻き声が漏れるほどだ。それを手足の20本全て指で行われる。
次に爪を剥がされる。ゆっくり、ゆっくりと剥がされる。爪が浮かび上がるにつれて、血管や皮膚がプチプチと切れていく感覚を剥き出しの神経で感じなければならない。そして全ての爪が剥がされる頃、身体中から体液を垂れ流すあなたには痛みという感覚しか残されていない。手足の先は痺れてまともな感覚がないのに、ズクズクと脈拍に合わせて膨張する血管が神経を逆撫でする痛みだけは感じさせられる。しかしそんな痛みなど相手には関係ない。
次に相手は紙やすりを取り出す。おそらく1番荒い紙やすりだろう。それを爪のない指先に当てると、上からグリグリと押しつけられる。それだけで尋常じゃない痛みなのは間違いない。泣き叫び、もがき、身体中に力が入る。しかしそんなもので拘束が解けるわけもない。そして忘れてはいけない。紙やすりの使い方は押し付けるのではなく、削ることということを。紙やすりを押しつけられながら素早く引き抜かれた紙やすりは爪のない指先を削っていく。血が滲んでいた指先からはさらに血が溢れ出し、言葉にするのも悍ましい痛みが生まれる。
「とまぁ、この先は骨を折ったり肉を削いだりしていくわけだが、現代の先進国という温室で生まれ育った一般人の君なら紙やすりあたりで気絶しているんじゃないか?」
「……よくそんなこと思い付きますね。」
そう呟くと足を組んで座る1人の女がアハハと笑った。
「あぁ、私自身こんなことを思いついてしまうのが怖いよ。だが、だからこそ君は素直に私に従った方がいいんじゃないかな?」
そう言って笑みを浮かべる女は俺の頬を撫でる。
本来であれば今すぐにでも逃げ出すべきなのだろうが生憎そうにもいかない。なぜか、それは拷問の話を聞く今この瞬間にも、俺は手足を縛られて椅子に拘束されているからだ。
さて、こう言うと何かの間違いでスパイと間違われたのかと思うかもしれないが、そうでもない。そう、俺はスパイするような組織に入っているわけでも。スパイを疑われるような立場でもなく、ただ今日というこの喜ばしい日に高校の入学式に参加しに来ただけの新入生なのだ。
その新入生がなぜ拘束されているか?そんなもの俺が1番知りたい。何か悪いことをしたわけでもない、ちょっと気分が上がって早めに学校に来てみたら部活の勧誘がされていて、チラシを貰ってベンチでそのチラシを眺めていただけだ。そうしたら突然頭に麻袋を被せられ、驚く間も無く後ろから突き飛ばされたと思ったら、そのまま躓いて転んだ俺の両手を後ろでロープで縛られ、変声機で「ついてこい」と言われれば誰でも付いていくだろう。
そのあとはどこかにつれて行かれ、椅子に足を縛り付けられると、改めて腕を縛り直され、だっちゅーのを背中側でやっているような状況にさせられた。それから麻袋が外され、質問する間もなく拷問の話を聞かされたのだ。
部屋は電気もつけず黒いカーテンが閉め切られていて薄暗いが、どこかの教室だということは分かる。おまけに目の前に座る俺のことを誘拐したであろう女は、制服を来ているものの高校生とは思えないナイスバディーの美女であることもだ。腰まである黒い髪、見ようによっては鋭くとも見える涼しげな目、机に腰掛ける体のラインをはじめとしたその他もろもろから色気を感じる。
全く。こんな形で出会わなければ最高の入学式だったのに……。
「さて、質問に答えてごらん?君はいつ気絶するんだ?」
だが実際は最悪の入学式だ。これで適当に答えて「なら試してみよう!」とでも言われれば俺の高校入学式が人生の卒業式になってしまう可能性がある。つまり、ここは沈黙するほか無い!
「ふむ。さっきは答えてくれたのに……何か答えたら試されるとでも思っているのかな?もしそうなら安心してくれ、今の話は拷問の話ではなく感覚と意識の遮断の話だ。それに学校で拷問なんてしたら私はすぐに捕まってしまう。」
「学校で誘拐しても捕まるでしょう。」
というか学校以外なら捕まらないのか?
「アハハ。それもそうだね。さて、返事をしてくれたついでにさっきの質問にも答えてくれないかい?君に危害は加えないと約束するからさ。」
………。
「紙やすりがどの程度の痛みなのか想像できないですけど、十分気絶する可能性はあるんじゃないですか?」
「ほほう?なら試してみよう!」
そう言って立ち上がった女の手には紙やすりが持たれていた。
「おい!!危害は加えないって言ったろ!」
「やれやれ、拷問の時の約束が守られるとでも思っていたのかい?」
肩をすくめながら笑う女はゆっくりと俺に近づいてくる。
まずい!この女はマジでやばい奴だ!さっきからなんとか拘束を解けないかやってるが、腕の方はガチガチに縛られていて一向に解ける気配がない。足の方は学校でよく使われている4本足の椅子の前2本の足にそれぞれ俺の足を縛り付けただけだからなんとかすれば椅子の足の方が抜けるか?最悪後ろに倒れて、というか最悪は今だろ!
俺は勢いをつけて椅子ごと後ろに倒れる。
腰は痛いし後ろで腕を縛られているから肩も腕も痛いが、今はそれどころじゃない。足を動かしてなんとか拘束を外そうとするが、椅子の足の先に付いているゴムの部分が引っかかってうまく外せない。
クソ!終わった!
「なーんてね!冗談だよ、冗談!」
すると女は手に持っていた紙やすりを放り投げると、俺の足を縛っていたロープを外す。
「ハァ!?」
こいつは何がしたいんだ。いやだが、足が自由になったのなら十分だ。とにかく他の人がいるところに!
俺は素早く立ち上がって教室の扉へと向かい、足を使って教室の扉を開けようとするが扉は開かない。どうやら鍵がかかっているらしい。だが俺は教室の中にいる!後ろで手を縛られているとはいえ鍵を開けるのは簡単だ!
俺は扉に背を向け手探りで鍵を探す。その間女を警戒していたが特に焦って追いかける様子もなく、倒れた椅子を直していた。
あった!!
なんとか手探りで見つけた鍵を開け、扉押さえながらカニ歩きで扉を開けていると女はクスクスと笑った。
「手を縛られたまま自己紹介とはなかなかの性癖だね。」
……確かに。側から見ると今の俺は両手を縛って入学式に来るただのド変態。こんな状況で同級生にでもあったら間違いなくスクールカースト下位決定だ!それにこの姿を先生に見られたらいくら事情を説明し誤解が解けたところで第一印象は最悪、3年間目をつけられるのは間違いない!つまり!つまり……。
「ほら、座りなよ。」
「……クソ。」
俺に残された選択肢は椅子に座り直すということだけだった。まあ足の拘束は解けたままだ、最悪逃げ出せる。
「さて、とりあえず楽しんでもらえたようだし本題に入ろうか。」
「楽しんでねぇ。」
そう言い返すとまあまあと笑いながら女は話を続ける。
「さて、さっき行った拷問の話は感覚と意識の遮断の話だ。痛みという感覚を遮断のするために意識を遮断した、というね。拷問というのは大袈裟かもしれないけど、こんな話は日常に溢れている。」
なら日常に溢れている方の話を先に聞きたかった。
「例えば人間は目に見えているもの全てに注目しているわけじゃない。服屋の帰り際にさっき見たはずの棚でいい服を見つける、みたいに、認識する情報としない情報を選んでいる。なら認識しない情報、つまり認識を遮断する情報とはどんなものだと思う?」
?
「認識する必要のない情報?」
「アハハ。確かに。なら聞き方を変えよう。認識する必要のない情報とはなんだ?」
……ん?目に見えているもの全てを認識した方がいいに決まってる。なのに俺達は認識していない?全てを認識する方が生存戦略の理にも適っているのに。
「そろそろ気付いてきたかな?」
しまった!気付かないうちに考えさせられていた。何が目的か知らないがこのままではこいつの思う壺だ。
「まあ、単純に視界の隅かピントが合っていない部分、もしくは膨大な情報を脳が処理しきれていないだけじゃ?」
こうは言ったがそれだけじゃないことは分かる。明らかに視界の中心でピントが合っていたはずの部分でも見逃すことはあるし、脳が処理しきれないから切り捨てている情報も意図的に選んでいるわけではない。
「確かにそうとも考えられる。でもさっきの拷問の話だと痛みという感覚を遮断するために意識を遮断していた。なら認識の遮断というのも、何かを遮断するための方法に過ぎないとも考えられないか?」
……確かに?
「でも何を遮断していると?」
「興味が出てきたようだ。」
いちいち癪に触る奴だ。この状況がなければ興味が湧く暇もなく帰っている。
「まあ簡単に言うと、認識したところで対処できない情報だ。例えばそうだな、君は普段自分の後頭部を認識しているかい?もちろん後頭部以外にも背中や肘、足の裏とかもね。」
そう言われると認識してしまうものだが、普段から意図的に認識しているかと言われると全くしていないと言っても過言ではないだろう。
女に同意するのは嫌だが、しぶしぶ首を横に振ると女は不敵な笑みを浮かべた。
「ならそこで何が起こっていたとしても気付かないと言うわけだ。例え後頭部に大量の蠅が卵を生みつけていても、背中でナメクジが這っていても、肘でダニが沸いていても、足の裏で寄生虫が巣穴を掘っていても、ね。」
本当によくそんなことが思い付くな。しかも今回は拷問と違って想像しやすいだけタチが悪い。
「といっても意図的な認識をしていないだけで認識する機会は十分にあるだろ。そもそも感覚は遮断していないし対処もできる。」
すると女は肩をすくめ、やれやれと眉を顰めながら笑う。
「そう言うことじゃないんだよ。認識する機会があったとしても、認識していない間は何が起こっていても分からないということだ。それに今のは一例、認識する機会もほぼなく、対処もできない場所なんていくらでもある。例えば内臓や眼球の裏とかね。もしかしたら腸の中では大量のゴキブリが繁殖しているかもしれないし、眼球の裏では蛆虫が蠢いているかもしれない。」
これだけ悍ましいことを聞かされ続けた今日の夢見は最悪だな。
「ほら、もしかしたら何かの間違いで認識できるかもしれないよ?ゴキブリが君の腸壁を6本足で歩いてるのを、君の排泄物を栄養に卵を生んでるのを、卵から生まれた無数の幼虫が体中に広がっていくのを。眼球の裏で何十もの蛆虫が君の粘膜に塗れて餌を探し求めているのを、耳や脳に繋がる道に進もうとしているのを、今にも瞼の裏から外に出ようとしているのを、どう?感じない?」
「ありえないな。」
鼻で笑ってそう答えると、女は真面目な顔で首を傾げる。
「全部認識していないのに何故そんなことが言える?何かの拍子に口に入ったゴキブリを飲み込んだのかもしれない、君が食べた物に潜んでいたのかもしれない、もしかしたら君の肛門から入ったのかもしれない。蛆虫も同じで、耳や鼻や口に生み付けられた卵から生まれた幼虫が眼球の裏にたどり着いたのかもしれない、いつのまにか卵のついた手で目を触ったのかもしれない、もしかしたら蝿が瞼の中に入って卵を産んだのかもしれない。」
それこそがありえない話という根拠だ。
「確かにそう言うこともあり得るのかもしれない。だがさっきも言った通り感覚は遮断されていない。万が一、いやほぼ皆無の可能性の中で実際に起こったとして、初めは気付いていなくても、すぐに認識することはできる。もちろん腸とかの内臓は感覚がないから認識は遅れるかもしれないが、内臓の外の筋肉に感覚はある。」
「感覚は万能じゃない。蚊に血を吸われている間は気付かないように、感覚の麻痺やズレが起きることなんて珍しい話じゃないさ。それに今でこそ、私達人間は文明の力を使って対処できるが、本来の自然の中であれば対処できない場合の方が多い。対処できないことは認識するだけ無駄だ。そもそも感覚とは認識するための手段。認識を遮断するために感覚を遮断していてもおかしくはない。」
女はそう諭すように俺の目を見て言ったが、言い終わると同時に口角を上げて無邪気な笑みを浮かべた。
「とはいっても君が言った通りほぼ皆無の可能性だ。でも同時に君が言った通り皆無じゃないことは覚えておくといい。じゃあ話を戻そうか。今言った通り、認識を遮断する情報とは、認識したところで対処できない情報だ。だが今言ったのは自分の体、すなわち内側の世界について。なら外の世界における認識したところで対処できない情報とは何だと思う?」
外の世界の認識したところで対処できない情報……?
「轢かれる寸前の車とか?」
すると女は声をあげて笑いながら「なるほどね。」と頷いた。
「確かに聞きようによってはそれもそうだ。でもそれはただ認識が手遅れなだけだ。車を認識したら轢かれる訳じゃないだろう?」
……なら思いつかない。今言ったのもなんとか絞り出したものだ。最初に言っていた服屋の帰り際に見たはずの棚でいい服を見つけた場合を想定したら、対処できない理由が分からない。
………。
「やっぱり対処できない情報ってのはちょっと飛躍しすぎじゃ?」
そうため息混じりで女に視線を向けると、女はこれでもかというほどの満面の笑みを浮かべていた。
「っ!?」
そして「うんうん、分かる分かる。」と深く頷くと「じゃあ」と話を続ける。
「飛躍しすぎたついでに、もっと飛躍してみよう。認識を遮断する情報とは、認識したところで対処できない情報だ。つまり言い換えれば、対処できる情報であれば認識の遮断はされないと言える。」
ん?
「それは普通の話じゃ?」
めちゃくちゃな話をしすぎて話してる本人が分からなくなったのかと思っていると、女は「あぁ、違う違う」と微笑した。
「本来なら認識したところで対処できない情報は認識を遮断するが、その情報に対処できる人間なら認識の遮断はされないと言える。」
そういうことか。いや、そうじゃない。
「確かに今回の話ならそう考えられるかもしれないが、そんな人間はいないだろ。もしいたとしたら人によって認識できる情報に違いがでる。人によって見える物と見えない物なんて……。」
………。
その一瞬の迷いを見抜くかのように。女は俺に顔を近づける。
「今何を思い浮かべたの?」
「……何も。」
見抜かれている以上うまく隠す必要などない、ただ言葉にしたという事実さえなければいい。
俺はこの口は開くまいとを固く決意して女から目を逸らす。
カシャ。
その音に俺は思わず視線を戻す。
そこにはスマホのカメラを俺に向ける女が嫌味な笑みを浮かべて立っていた。
「安心するといい、この写真をばら撒いたりなんて無粋なことはしないさ。ただ……。」
そう言って女は懐からもう一つのスマホを取り出す。それは制服の内ポケットに入れていたはずの俺のスマホだった。
「なっ!」
っと、それほど動揺する必要もない。いつ取られたのか全く分からなかったが、あのスマホにはパスワードが仕掛けられている。取ったところで初対面のこいつにそれを開く手段は。
「はいチーズ。」
そう言って女は俺のスマホのロック画面を見せるようにスマホを近づける。
あ……。
気づいた時には既に遅く。俺のスマホは顔認証でロックを解除していた。
「待て!何をする気だ!」
「あはは。縛られて悔しそうに視線を逸らす君の姿をSNSのアイコンにするだけさ。」
なんて恐ろしいことを!まだこの学校の奴と友達登録はしていないが、それは家族と中学までの同級生が見ている上に、その内の何人かはこの高校に来てるんだぞ!もしそこから漏洩でもすれば……。
「ん?なにか足りないな。」
もう十分すぎるだろ。
「よし、じゃあ君!これ付けよっか!」
そう言って俺を見下す女の手では、猿轡が軽い金属音を立てながら揺れていた。
「………。」
終わったな。まだ始まってもいない3年間の高校生活にそう別れを告げながら俺は静かに目を閉じたのだった。
「いや、そんなに素直に諦めないでくれ。君がさっき思い浮かべたことを言ってくれればスマホは返す。」
本当かどうかは別として、猿轡よりはマシか。
「幽霊とかの非科学的な物だ。」
言葉にはしたくなかった……。
「いいねいいね!その答えを待っていた!そう、幽霊なんてものは認識できるかできないかで判断されがちだが、実際のところは対処できるかできないかで判断されるべきだ!事実幽霊が見えると言う人間は対処、または対応できている!」
「だが根本的には自称だろ。そもそも俺達の認識が遮断されていたとしても、実際にいるのであれば科学的な観測はできるはずだ。」
「単純に科学が追いついていないだけかもしれない。現に宇宙の90%は観測できていないダークマターとダークエネルギー。観測できない以上、ここにそれがないとは言い切れない。」
全く、ああいえばこう言うな……。
俺は諦めの溜息を吐きながら肩をすくめて見せる。
「言いたいことは分かった。確かに観測できない物がある以上、認識できない物が無いと言い切れない。だが、だからといってどうと言うことはないだろ。結局対処できない物は考えるだけ無駄だ。」
散々こいつの話は聞いてきた。確かに納得できる、いやさせられる部分はあったが、結局のところ解決するわけでもなかった。そもそも問題にするほどのものでもなく、問題にするだけ無駄で、この問題こそが認識する必要のない情報だったのだ。
そんな話を聞かせる女の目的は何なのか。そんなことを考えていると、女は待ってましたと言わんばかりの笑み浮かべた。
「なら対処する方法を教えよう。」
「は?なんだそれ。」
急に怪しくなってきたな。女が言っていることを言い換えれば「見えない物を見れるようにしてあげる。」だ。なんだそれ、厨二専門の新手カルトか。
「断る。今のところ、その認識を遮断するものからの影響は受けていないしな。」
とは言ったが、次に言われることはなんとなく分かる。
「「影響を受けているという認識を遮断しているだけかもしれない。」だろ?」
予想していた次のセリフを合わせて口にすると、女は「へぇ。」と目を細めた。
こいつの目的は分からないが、やりたいことは分かった。こいつはつまり俺を、いや一般常識、当たり前と言うものを否定したいんだ。……?それも違うか。当たり前を否定したいんじゃない、当たり前じゃないものを否定しきれないことを知らしめたいんだ。
「君も分かってきたようだ。」
「分かりたくて分かった訳じゃない。だが俺が分かったことはもう分かっただろ。御託はもういい、さっさと目的を言え。」
音はこもっているが、外が騒がしくなってきた。それは入学式の時間が近づいていることを告げている。
「御託なんかじゃないさ。これは必要なことだ。」
そう言いながら女は俺の前に机を移動させてくると、その上に一枚の紙を置いた。
デカデカと入部届と書かれたその紙は、既に殆どが埋められており、あとは名前と印の部分を埋めるだけだった。そしてその部活名の欄はというと「オカルト研究部」という説明不要の部活名が書かれていた。
「まさか部活の勧誘のために誘拐したとは。入りませんよ。」
すると女は「まぁまぁ」と笑いながら俺の背後へと回る。
「それは縄を解いてから決めてくれたらいい。」
そう言いながら縄を解いていく女に「絶対に入らない」と内心答えながら、俺は安堵のため息を吐く。
これでやっと解放される。紙を出されたときは入部しないと拘束は解かないとでも言われるかと思ったが、そうじゃなくてよかった。
それはもう固く縛られた縄を解くのには時間がかかっているが、もうすぐ自由が手に入ることを考えれば屁でも無い。
「………。」
が、暇ではないというわけではない。むしろ暇なのには違いない。こういう時は窓の外を眺めるのが1番だが、あいにくこの部屋のカーテンは閉めきられている。
「………?」
特に見るものもなく、目の前に置かれた入部届に視線を落ち着かせると、ふと疑問が浮かんだ。
「このご時世にオカルト部とは、よく学校が許可したな。」
思わず鼻で笑いながらその疑問を口にすると、鼻歌混じりに縄を解く女は「あぁ、それか。」と苦笑混じりに答える。
「いや、君が言った通り許可はされなかった。それはただの形式だよ。」
……ん?許可はされなかった?ということは、このオカルト部は学校非公式のただのオカルト好きの集まりってことか?
元から断るつもりだったが、断る理由が増えたな。
「そりゃ残念だな。」
適当に相槌を打つと、女は「他人事だなぁ。」と笑う。
「でもこの縄が解けたら君はそれに名前を書いて印を押すさ。」
無いな。と心の中で笑っていると、長時間反って固定されていたおかげで悲鳴を上げ始めていた肩が解放された。開放されたと言っても、完全に縄が解けた訳ではない。複雑な縛り方をしているせいか、緩んだからといってすぐに縄が落ちることはなかったのだ。
というかこれ、かなりマニアックな縛り方だよな。あの時部屋を出ていたらマジで俺の高校生活終わってた。というかこの女マジで俺の高校生活を天秤にかけやがった!などと徐々に怒りが込み上がってきた俺は無視してもいい言葉にあえて否定の言葉を返す。
「それに今日は印鑑は持ってきてなくてな。」
「なら血判でいいさ。」
非公式にも関わらず形式を求めるということは印一つも妥協しないよな?と嫌味をこめたその言葉に、女は淡白にそう答えた。
今時血判って。
「痛いのは嫌いだ。」
あまりに想定外の言葉でそんな浅い答えしか出なかったが、断る理由には十分だ。これで無理やり怪我させにきたらそれこそ拷問紛い。とんだ伏線回収になる。そんなことを考えながらも、もう少しで手に入る自由を待ち侘びていると、パタパタという音を上げて縄が床へと落ちた。
「!!」
やっと返ってきた人権に安堵のため息をついていると女はクスリと笑う。
「なら心配ない。それを使えばいい。」
女が何を言っているのか分からずその言葉を無視した俺は、久々に視界に入る自分の手を見てその意味を理解する。
俺の手は、右手の人差し指を中心に赤く濡れていた。濡れていたと言っても水々しい物ではなく、既に乾き始めてベタベタとしたものだが、しかしそれはほぼ間違いなく、俺の体から溢れた血液だろう。
その原因を探るべく、最も赤く湿っている右手の人差し指を触ると、指先の腹がピリピリと痛む。皮膚を引っ張りながらよく見ると、紙で切った時のような薄く鋭い切り傷がパックリと開いていた。
気付かないうちに怪我をしているなんてことはよくあることで、いつもの俺ならば深くは考えなかっただろう。だが今回に限っては考えざるを得ない。怪我に気付かなかった、それはつまり痛みという感覚を遮断していたということだ。問題はなぜ遮断したか。
痛みという感覚は怪我を伝え、その部分を使わせないためにある。それこそ拷問のような容量を超えた痛みの場合に意識を遮断するという方法で半ば無理矢理遮断することもあるが、本来は遮断するようなものではない。そもそも今回の怪我程度で遮断していたのでは痛みという感覚の意味がなくなる。つまり今回の痛みという感覚の遮断は、痛みという感覚を遮断するために意識を遮断するように、他の何かを遮断するための副次結果ということだ。
なら何を遮断したか。怪我そのものが遮断の原因でないのならば、その原因は怪我の原因となったものしかない。怪我の原因の遮断、それは認識の遮断だ。つまり、怪我の原因が認識したところで対処できないものだったということ。だがそれにやられた怪我に気づいてしまえば、怪我の原因を認識してしまう。だから認識を遮断するために、痛みという感覚を遮断した。
「………。」
ついさっきまで痛くなかったはずの指先がピリピリと痛む。
そんな血が固まって赤黒くなった指先から、いつの間にか目の前に立っている女に視線を向けて思考を巡らしていく。
今となっては信じる信じないは関係ない。仮にこの怪我が本当に認識を遮断するものから受けた怪我だとして、女はそれとどんな関連を持っているのかの方が重要だ。
考えられる可能性は3つ。
1つ、女が怪我をさせた。この場合は女が、認識したところで対処できないものということになる。まあ拘束されていた俺が無意識に女を対処できないものと認識していたのであれば、あり得ない話でもないが、それだと今女が見えているのがおかしい事になる。部分的に認識を遮断させる、もしくは切り替えができると考えれば辻褄は合うが、そんなことを考え始めればキリがない。
2つ、女が認識を遮断するものを使って怪我をさせた。それがどういったものなのかは分からないが、さっきの話しを例に挙げると、幽霊を操るか協力を得て怪我をさせたということになる。
3つ、認識を遮断するものが偶然俺に怪我をさせたのに気付いて、それを利用した。つまり女に認識を遮断するものを操る力はなく、ただ偶然できた怪我を説得に利用したということだ。ただこの場合、もし怪我がなければどうやって説得していたかが分からない。
俺が今ここまで考えているのは、この部活へ入部するかの迷いだ。そしてその決め手となっているのが、言うまでもなくこの怪我。この怪我が認識を遮断するものの存在を仄めかし、その存在からの影響を示唆しているのだ。つまり言い換えればこの怪我がなければ俺が入部する確率は0になる。
それは女も分かっていたことだろう。突然拘束してくるようなカルトじみた部活に入部する奴はそうはいない。だからもし、仮にこの場で言いくるめることができたとしても、印鑑がなければこの場で入部はせず、この場で入部しなければその先入部する確率は低くなることも分かっているはず。さらに言えば、そう簡単に印鑑を持っていないこともだ。それはつまり女は元から血判を使わせる気だったということを意味し、すなわち俺が怪我をすることは必須となる。
この怪我は入部させることの説得、そして入部を即決させるために必要不可欠な存在。そんな怪我が偶然作られた物とは考えにくい。つまり3は論外。1と2に関してはそれほど大きな違いはなく、どちらにせよ認識を遮断するものを使いこなせている。
認識を遮断するものを使いこなせれば、誰にも悟られることなく己への利益を作み出し、誰にも悟らせることなく他者への不利益を生み出すことができる。この計り知れないメリットは思わず飛びつきたくなるほどに魅力的だ。だが、だからこそ言える。人はそんなメリットをそう易々と誰かに渡したりはしない。
それを渡そうとしているこいつの……
「目的は何なんだ。」
もうこいつに振り回されるのにも飽きた。睨みつけるようにそう言うと、女は肩をすくめながら薄い笑みを浮かべる。
「それ、さっきも聞いてなかった?」
「いいから答えろ。」
そろそろ本当にタイムリミットが近い。さっきまで騒がしかった外がまた静けさを取り戻している。皆んなが始業式の会場である体育館に集まっている証拠だ。
すると女は「やれやれ」とでも言うように小さくため息つくと、突然わざとらしく満面の笑みを浮かべた。
「さぁ?何のことだか?」
っ!
濁すと言うことは何か目的があるな……。
俺は改めて自分の指先を見て「クソが」と心の中で呟く。
この傷がなければ入部しようとも思わなかったが、この傷があるせいで入部を躊躇っている。もしこれが普通の相手なら、入部したいと思った時点で入部しているだろう。そしてもし合わなければすぐに辞めている。だがこの女が相手なら話は別だ。仮にオカルト研究部に入部したとすれば、認識を遮断するものへの対処方法を知るだろう。部活の勧誘を集団ではなく、俺個人に向かってしているということは、その対処法は誰彼構わず教える気はないということだ。そんな対処法を知った人間が部活を辞めようものなら、間違いなく口止めをする。問題はその口止めの方法。ただの口約束ならいい、なんなら書類での約束でも喜んでサインしよう。だが女は認識できないものを使いこなす。もし認識を遮断するものを使って口止めをしようとすれば、冗談抜きで文字通り命を奪うことができる。もし俺が女の立場なら迷いなくそうするしな。つまりこの部活は入部すればもう引き返すことはできない。
「ふぅ……。」
今になって拷問の話が響いてくるな……。
その上、女の目的が分からない以上、入部してからのリスクも膨大だ。部活を辞めようとしなくても、命をダシに何をさせられるか分かったものじゃない。入部してからしばらくの間は認識を遮断するものへの対処法を知らないままでいて、部活がどういったものか分かってから対処法を知るという手もあるが、結局は知った時点で命を握られる。つまり俺が油断して命を明け渡すまで怪しいことをしなければ、従順な下僕が手に入るということだ。
ダメだ。入部するメリットは大きいが、リスクも大きすぎる。というかついこの間まで中学生だったやつに判断させる内容じゃない!やはり入部はしないほうが……。
ん?待てよ?もし俺が入部しなければどうなる?
俺はこのオカルト研究部の存在を知っている。いや知ってしまっている。もちろん俺が「幽霊を見れるようになる部活がある!」と言ったところで誰一人本気にはしないだろう。だが女からすれば、噂レベルだとしてもこのオカルト研究部の存在が知れ渡る可能性が生まれてしまう。
もちろんこれが公式の部活であれば広く知られるのは万々歳だろうが、あいにくこの部活は非公式。誰一人本気にしないとは言ったが、そんな存在が知れ渡れば厨二病は興味を持ち、教師たちは多少の調査をするだろう。それがただのオカルト好きが集まっているだけならなんら問題はないが、集団に対して勧誘する気のないこの部活に人が寄り付き、カルトじみた活動をしている以上教師からの介入も避けられない。つまり部活の存続に影響してくるのだ。
まあ、元から正式な部活ではない以上、部活という形式に意味はない……はずだが、女はなぜが部活という形式にこだわっている。認められなかったにもかかわらず部活を名乗り、入部届へのサインと印という手順まで踏ませようとしている。つまり女にとって、この部活という形式がなんらかの鍵になっているということだ。
さて、俺はそんな部活の存続を脅かす、部活の存在を知ってしまっている。そんなやつを易々と逃す訳がない。そして認識を遮断するものを使いこなせるやつから易々と逃げられる訳もない。
つまり、この部活の存在を知った時点で俺はもう引き返すことはできなくなっていたということだ。
「はぁ……。」
俺は深くため息を吐いて覚悟を決める。
そして、入部届の印の部分に右手の人差し指を強く押し付けたのだった。
@ODAKA_TAIYO
↑Twitterのユーザー名です!↑
https://mobile.twitter.com/ODAKA_TAIYO
↑もし直接行きたい方がいればこちらからどうぞ!↑
見たところで大したことも無いですがもしよければ見てみて下さい(ほとんど呟かない笑)。
最新話を投稿した時は呟きます!
もしなろうに登録してなくて、指摘や依頼が言えなかった方はTwitterで是非送ってください!