冬枯れの死神
その日、後に公国の英雄として国から称えられる事となる兵士は、戦場と化した雪山の中でうつ伏せのままで、ただひたすらに息を潜めていた。
彼が両手で持つ、木と金属で造られた狙撃銃は、降り止まない雪を被って濡れ、覗き込んだスコープから見える景色は真っ白に覆いつくされている。
その奥に微かに見える、丘や木といった物体の輪郭を注視し始めてどれほどの時間が経っただろうか、彼自身も分かってはいないだろう。
まるで地面に同化するように、纏った迷彩服ごど積もった雪で埋まってしまうように、彼は微動だにせず、その場に居た。
肺まで凍ってしまいそうなほどに冷え、気を抜けば寒気に意識と体温を根こそぎ奪われそうになる中、やがて彼の曇った視界に複数のぼやけた人影が浮かび上がってくる。
人影の正体は公国が敵対する共和国軍の兵士、数か月前に公国に支配されたこの辺りの地域を奪還すべく進軍してきた部隊のうちの一部だろう。
雪に埋もれたままだった彼は、敵の姿を視認すると一度小さく息を吸い、虚ろだった眼に微かに光を灯す。
両手で構えた狙撃銃が、積もる雪を落とす事もなく静かに、銃口の遥か先にいる敵兵へと向けられる。
目視では人影が点にしか見えないほどの距離、加えて敵は斜面の下側にいるため、射撃位置からは角度も高低差もある。
山岳を撫でるように吹き抜ける凍てつく風、瞼を開けっ放しにするのも厳しい状況だろう。
しかし、彼は構わず銃を構え、鉄で出来たリング状の照準器を覗き込む。
狙撃は遠い距離にいる対象を弾丸で仕留める行為だが、銃口を出てから着弾するまでに受ける風の影響を受ける。
加えて一発毎に射撃時の振動等様々な要因に左右され、的中する事は容易ではない。
狙撃の失敗は、狙撃対象に敵の存在を知られる危険性をも含む。
だが、彼にとってそれは狙撃を躊躇う理由にはならなかった。
照準内に敵兵の一人の姿が入った直後、彼は引き金にかけていた指に力を入れる。
乾いた発砲音が冬の雪山にこだまし、射撃から数秒後、遥か向こうで歩いていた敵兵の一人の体が上半
身から地面へと倒れる。
傍にいた他の人影は、転倒した仲間に狼狽している様子だったが、その間にも狙撃銃の照準は次の狙いへ向けられる。
狙いを定め、引き金を引き、撃つ。
人を殺すための単純な行為を、彼は迷いも逡巡もなく、敵兵の影が全て雪の上に倒れこむまで続けられた。
やがて視界の中で動くものが無くなったのを確認すると、彼は立ち上がり周囲を見渡す。
本来なら、まだ潜んでいる敵がいる可能性を鑑みて、屈んだ状態でいるのが正しい行動であっただろう。
彼も分かってはいたものの、それをあえて止めようともしなかった。
「……誰もいないんだな」
仲間が見ていれば、すぐに危険だと忠告して無理矢理にでも座らされていたかもしれない。
だが、彼が全方位を見渡しても、敵はおろか味方の姿すら一人も見当たらなかった。
理由は単純であった、敵も味方も、既に息絶えて辺り一帯に骸となって倒れていたからだ。
数時間前、ここでは激しい銃撃の応戦があった。
彼も、彼の仲間も、彼の敵も、各々が手にした銃を撃ち合い、殺しては殺されを繰り返していた。
彼は得意の狙撃で、両手では数えきれない人数の敵を撃ち殺した。
相手の弾丸が自らの体を貫かなかったのは、狙いがつけにくい雪山の気候に救われたのと、偶然が重な
った幸運としか呼べなかった。
彼は撃ち続けた。
そうしなければ戦闘は終わらず、敵に背を見せれば撃たれる危険性が上がるからだ。
死なないために、顔も知らない誰かを殺した。
そして、気づけば敵も味方も、彼の周りには居なくなっていた。
流れた血も、穴の開いた死体も、降り続ける吹雪が積もり、どこにあるのかさえ確認が難しい。
探したところで何になる、どうせもう皆死んでいるのだから。
冬枯れの死神、この戦争が終わった後で彼はそんな異名を付けられる事となる。
それは彼がこの戦争の各地で敵である共和国軍の兵士を何百人も狙撃し続けた功績を称えるべく、公国がつけたとされているが、真実は違う。
人の頭を弾丸で吹き飛ばす行為に躊躇いのない彼の姿を間近で見ていた仲間が、敬意と畏怖を込めて叩いた陰口から生じた侮蔑に過ぎなかった。