伯爵夫人の遺書
このままここで生きていくことに耐えられなくなりました。
皆は絵に描いたような理想の旦那様に嫁げて幸せだねと言います。しかし、彼は皆が思うような人間ではありません。私を鞭打ち、見下し、気に入らないことがあれば人格まで否定して私を地獄に追い詰めるような人です。
もう彼と一秒だって一緒にいることに耐えられません。
離婚なんて親兄弟は許してくれないでしょう。何度訴えても無駄でした。そもそも、彼らは旦那様の本性を知っていて私を嫁がせたのです。
誰もここから逃がしてくれないのなら、苦しみを自分で断ち切るしかありません。
冷たくなった私を見て、ブレント様は何を思うでしょうか。きっといつものように冷たい目で淡々と事後処理をすることでしょう。……
***
「やだ、なにこれ……? 手紙……いや、遺書?」
私は偶然見つけた手紙を呆然と見つめる。とんでもないものを見つけてしまった。
ある春の昼下がり、まだ慣れないお屋敷の中をのんびり歩き回っていたら、入ったことのない小さな部屋を見つけた。好奇心から中へ入ると、そこは女性の部屋のようだった。
すぐにピンと来た。ここはブレント様の前の奥様の部屋だと。
勝手に入るのは申し訳ないと思いつつ、好奇心に負けて私は部屋の中へ入ってしまった。
全体的に埃を被っているが、まだ人が住んでいたころの気配を感じさせる部屋だった。ふと、本棚に目を遣ると一冊の本が目に留まる。
深い赤色のカバーのかかったその本は、私も小さい頃に何度も読んだ有名なもので、なんだか懐かしくなってつい手に取ったのだ。
すると、中から封筒がすべり落ちてきた。宛名も何も書いていない真っ白な封筒。封はしていなかったので、中の手紙を簡単に取り出せた。そっと中身に目を通す。
それが間違いだった。私は知らなくてもいいことを知ってしまった。
私が三ヶ月前に結婚したブレント・エドモンズ伯爵は、紳士的で優しく、大変整った顔立ちをした男性だ。まだ二十七歳という若さなのに領主としても優秀で、周囲の人たちから一目置かれている。
お父様もお兄様も、ブレント様のような素晴らしい方に嫁げるなんて、リサは幸せだと言う。私自身もそう思っている。
私、リサ・アルドリッジ……今はリサ・エドモンズだけど……は、ブレント様とは違って平凡な娘だ。
現在二十二歳で、明るい茶色の髪に、黒い目をした平凡な顔立ち。まあるい目が可愛いね、なんて言われることはあるけれど、美人だなんて言われたことはない。
お父様もお兄様も、「リサは性格はいいんだけど、外見は平凡だよな」なんて悪気なく言う。
だから、金髪碧眼で涼やかな目元のブレント様と並ぶと、こんな私が彼の妻だなんて、といつも申し訳なく思ってしまう。
けれどブレント様はいつも優しく、「リサはとても可愛らしいね」と微笑んでくれる。「君がうちに来てくれて本当によかった」と。私はブレント様も、ここでの生活も好きだった。
ブレント様の方も初婚であったなら、引く手あまたであろう彼が平凡な私を妻にしてくれることはなかったと思う。彼には二年前に亡くなったという最愛の奥様がいた。
彼女の名前はエリザベス・エドモンズ。私とは違い、大変美しい女性だったらしい。
美人で気立てが良く、周りの人たちからもよく愛されていた。ブレント様はそれはそれは彼女を愛していたそうだ。
大切にし過ぎて外に出すことも好まず、どうしても外出が必要なときは常にナイトのように彼女をそばで守っていたと。
ブレント様は優しいけれど、私にはそんな過保護な対応はしない。買い物もお茶会も自由に行っていいと言ってくれる。
自由でありがたいけれど、ほんの少しだけ、私はブレント様に過剰なまでに愛されていた前の奥様がうらやましかった。
きっと彼女はブレント様に大切に守られ、最期のときまで幸せに暮らしたのだろう。ずっとそう思っていた。
しかし、今見つけてしまったこの手紙はなんだろう。
ブレント様が奥様を鞭打つ? 見下して人格否定する? 普段接しているブレント様の印象とあまりにかけ離れていて、とても信じられなかった。
そもそも、なぜこんな場所に遺書を。まるで隠しているみたいではないか。
続きを読めばわかるだろうか。私は二枚目の便箋に指をかける。
「リサ? どこだい?」
「!!」
突然、階下からブレント様の声が聞こえて来た。私は慌てて便箋を封筒にしまい、本の間に挟んで元あった場所に戻す。そうしてそろそろと部屋から抜け出し、階段を降りた。
「ブレント様。何かご用ですか?」
「リサ! 先ほどアシュトン夫人からオレンジのケーキが送られてきたんだ。リサ、好きだったろう? 今から一緒に食べないか?」
「まぁ、嬉しいですわ。ぜひいただきます」
笑顔で問いかけてくるブレント様に、私も微笑んで返した。内心、いつも通り笑えているのか心配だった。彼に対する疑念が顔に出てやいないだろうか。
しかし、ブレント様の柔らかな笑みを見ていると、先ほどの遺書の内容は全て嘘だったのではないかと思えてくる。
例えば、前の奥様が、悪ふざけで書いたとか? 冗談でもそんな悪趣味な嘘を書くとは思えないけれど……。
とにかく、彼の柔らかな笑顔は、私にあの遺書の内容を見なかったことにしたいと思わせるには十分だった。
「行こう。リサ」
「はい」
私はブレント様に続いて、ダイニングルームへ向かった。
***
ブレント様とお茶をしてから、私は一人部屋に戻った。部屋でソファに腰掛けながら寛いでいると、先ほどの遺書のことが頭をかすめる。
(気になる……けれど、あれを読んでしまってもいいのかしら。なんだか嫌な予感がする……)
遺書の内容に抗いがたい好奇心を感じてはいたが、同時に本当に内容を知ってしまってもいいのかという不安も感じていた。
あれを全て読んだら、ブレント様と今まで通りの関係でいられなくなってしまうのではないだろうか。
けれど、気を紛らわそうと紅茶を飲んでみても、本を読んでみても、遺書のことが頭から離れない。
(……でも、全部読んだら真相がわかるかもしれないわ。前の奥様の創作だった、なんてオチかもしれないし)
そうだ。中途半端に知ってもやもやしているよりは、全て読んでしまったほうがすっきりするはずだ。
そう自分に言い聞かせ、私は再び奥様の部屋に忍びこむことにした。大丈夫。忙しい旦那様はお茶をしてからすぐに外に出かけてしまったので、今は屋敷にいない。
奥様の部屋の本棚からこっそり本を抜き出し、遺書の入った封筒を持って自室に戻った。
ブレント様は彼自身の私室以外ならどの部屋も自由に出入りしてもいいと言ってくれているのに、やけに緊張して心臓がばくばく音を立てていた。
私に出入りを禁止していないということは、ブレント様は遺書の存在に気づいていないのだろうか。
そんなことを考えながら、便箋に目を通す。二枚目の遺書には、彼女の家族のことが書かれていた。
***
私の人生は不幸の連続でした。
生まれた時からして、私は望まれない子供でしたから。私は男爵である父と、父が資金援助していたお気に入りの舞台女優である母との間にできた子供でした。
私が十歳になる頃にその母が亡くなったため、父は仕方なしに私を引き取ることにしました。
家族の中で、私だけが夫人と血が繋がっていませんでした。妾との間にできた平民上がりの子供なんて、認めてもらえるはずがありません。夫人も兄弟たちも皆私を憎んで虐げ、父はそれを見て見ぬふりしました。
十六歳になる頃には、私はすっかり元気をなくし、年相応の無邪気さのない、憂鬱そうな少女に成長していました。
しかし、そんな私にもひとつだけ武器がありました。女優だった母譲りの美しい外見です。
子供の頃は貴族の子らしくない薄汚い子供だと散々馬鹿にされてきたのに、年ごろになると周りの男性の私を見る目がすっかり変わりました。
皆私を見かけるとしきりに声をかけ、困っている素振りを見せれば競うように手を貸し、私の興味を引こうと数多の贈り物をしてくるのです。
私を虐げてきた姉や妹を、そんな風にちやほや扱う者はいません。苛立たしげに私を見る彼女たちを見て、気が晴れなかったと言えば嘘になります。
しかし、その唯一の武器は私に幸運をもたらすことはありませんでした。
成長した私の外見を見て政略結婚に使えると考えた父が、エドモンズ伯爵家の長男に嫁がせることに決めたのです。
エドモンズ伯爵家のブレント様は、大変優秀で美しく、評判の良い方でした。
婚約が決まったとき、私は十七歳で、彼は二十歳。正直に言うと、父が私の相手にこんなに評判のよく、年齢もちょうどいい方を選んでくれるとは思っていませんでした。
父が私の政略結婚の相手を探し始めた時から、うんと年上の方に嫁がされることも、周りからの評判が悪く嫁の来手のない方に嫁がされることも覚悟していましたから。
こんなに条件の良い相手ならば、未だ嫁ぎ先の決まっていない姉や、私と一つしか年の変わらない妹の相手にすればいいのではないかと、不思議に思いました。
嫁いだ後になって知ったことですが、ブレント様は夜会で一目見て私を気に入り、父にぜひ私を娶りたいと頼み込んだそうです。伯爵家と縁ができるとあっては、父も断るわけにはいきません。
私は、父がきっと内心では可愛がっている正妻との間の娘ではなく、私が選ばれたことをいまいましく思いながらも、ブレント様の頼みを受け入れたのだろうと、笑いだしたい気持ちになりました。
しかし、真実はそうではなかったのです。父が大事な娘たちの方をブレント様に嫁がせるはずはありませんでした。
ブレント様との結婚は、私の人生にこれまで以上の苦痛をもたらすことになります。
***
「リサ様、お客様がいらしています」
「は、はぁい。すぐ行きます!」
すっかり遺書に集中しきっていた私は、扉の外から聞こえて来たメイドの声にびくりと肩を震わせた。動揺を隠しながら慌てて返事をする。
この遺書の内容は本当なのだろうか。これが前の奥様……エリザベス様の人生?
奥様は美しい方だったと聞いた。美しく、気立てが良く、周りから愛されていた人だと。そして、ブレント様の愛情を一身に受けていた人だと。
それが、こんなにつらい人生を送って来た方だったなんて。
家族からの扱いも気になるが、問題は最後の文章だ。ブレント様との結婚が苦痛をもたらした……。一体、彼女はどんな目に遭ったというのだろう。遺書の最初には虐待まがいの扱いを受けたということが匂わされていた。
生家で辛い目に遭い、結婚してからも旦那様に虐げられるなんて、と見たこともないエリザベス様に同情心が湧いてくる。
遺書の続きが気になって仕方がなかったが、お客様が来ているというのに部屋にこもって読んでいるわけにはいかず、後ろ髪を引かれながらも便箋をしまって客間へと向かった。
「おお、リサ! 元気だったか? 少しふっくらしたんじゃないか」
「太ったってこと? 失礼ね。ブレント様はいつもリサは華奢で可愛いね、って言ってくれるのよ」
「ははは。そうだよ、父さん。リサはもともと痩せすぎていたんだから、これくらいがちょうどいいよ。それにしても、ブレント様とは仲睦まじくやっているんだな。安心した」
訪問客はお父様とお兄様だった。二人は私を見るなり目を細めて笑いかけ、軽口を叩く。
一応うちは貴族の家なのだけれど、二人とも随分砕けた態度だ。お父様は男爵だけれど、先ほどまで手紙で読んでいたエリザベス様の父である男爵様とは随分違うな、と思った。
ふいにお父様は真面目な顔になり、声をひそめて言う。
「リサ、ブレント様とはうまくやっているようだが……本当に何も困ったことはないのか? 小さなことでも問題があるなら教えてくれ」
「大丈夫よ。問題なんてないわ」
「本当か? いくら相手が伯爵といえど、リサを傷つけるようなことがあっては問題だ。もし困ったことがあれば、私たちにすぐに知らせてくれ」
「大丈夫だったら。心配しないで」
私は笑顔で片手を振った。
しかし、頭の中には先ほどまで読んでいた遺書の内容が浮かんでいた。
問題、というのではない。実際に接しているブレント様はいつもお優しいのだから。ただ、気になるものを見つけてしまったというだけだ。
「お父様もお兄様も心配しないで。私は幸せにやってるから」
大丈夫だと言ってもなおも何か言いたげなお父様と、その隣で心配そうに見ているお兄様に再度そう伝え、私は実家での話に話題を変えた。
内心、心配してくれる彼らの気持ちを嬉しく思いながら。
そう思うのと同時に、少しだけ……ほんの少しだけ、私は「エリザベス様と違って」幸せ者だな、なんて思いが頭に浮かんだ。
***
「リサ、今日ご家族が来ていたんだって?」
夜、外出から戻って来たブレント様とダイニングルームで夕食を取っていると、そう尋ねられた。私はこくりとうなずく。
「はい。ブレント様が留守にしてらっしゃるときに申し訳ありません」
「いや……君を責めているわけではないが、父君と兄君の訪問は少々頻繁過ぎやしないか?」
ブレント様は珍しく険しい顔で言う。怒らせてしまったかしら、と少し不安になる。
実際、彼らの訪問は頻繁だった。実家までは決して近い距離ではないのに、お父様もお兄様も週に一度はこの屋敷にやって来る。ブレント様としてはわずらわしいのかもしれない。
「申し訳ありません……。父と兄には、あまり頻繁に来ないように伝えておきますね」
「そうしてくれると助かるよ。君はもうエドモンズ家の人間になったのだから、あまり生家の人間の関わり過ぎるのもよくない」
ブレント様は私の答えに気を良くしたように、にっこり笑って言った。
私はふと、心が波立つのを感じる。
正直に言うと、優しいブレント様のことだから、そんなことはしなくていいと言ってくれると思っていた。たとえそう言われても、訪問を少し控えてもらうつもりではあったのだけれど。
しかし、彼はあっさり肯定した。それほどお父様やお兄様をうっとうしく思っていたのだろうか。
私のもやもやする気持ちとは裏腹に、向かいに座るブレント様は上機嫌だ。
ブレント様は私が彼の言葉通りに従うと、いつだって気を良くする。
……? いつだって?
ブレント様はいつだってお優しかったのに、なぜそんな風に思うのだろう。こういう態度を彼が取ったのは今日が初めてで、だからこそ落ち着かない気持ちになっているというのに。
「リサ。やっぱり君はとてもいい子だね。君が来てくれて本当に嬉しいよ」
ブレント様は私の顔を愛おしげに見つめながらそう言った。
***
部屋に戻ると、私は早速遺書の続きを読み始めた。お父様たちが帰った後すぐにブレント様が帰って来たため、あれから続きを読む時間がなかったのだ。
どきどきしながら便箋を手に取る。
ここにはきっとエリザベス様の結婚生活が……そして、ブレント様の彼女に対する仕打ちが書かれているはずだ。
***
ブレント様の妻としてエドモンズ伯爵家に来てからの最初の頃は、夢を見ているかのように幸せな日々でした。
ブレント様はとても紳士的でお優しく、常に屋敷に不慣れな私を気遣ってくれました。
ただでさえ男爵家で虐げられきちんとした教育を受けていないのに、格上の伯爵家に嫁いだ私が、失敗なく女主人の仕事をこなせるはずがありません。
屋敷の中でも社交の場でも、何度も失敗を繰り返してしまいました。けれどブレント様は呆れた顔も見せず、私がヘマをする度にさらりと助けてくれます。
また、ブレント様は贈り物をたくさんくださいました。繊細な刺繍の施されたドレスに、色とりどりの宝石のついたアクセサリー。それに外国から取り寄せたという精巧な髪飾り。
私がパーティー会場で見かけたご婦人のドレスを素敵だと褒めると、次の日には似たデザインのさらに豪華なドレスを用意してくれました。
私が何気なくオレンジを使ったお菓子が好きだと言うと、次の日の食卓にはテーブルから溢れかえりそうなほどのオレンジのお菓子が用意されていました。
贈り物をもらう度に幸せな気持ちになりました。
贈り物自体が嬉しいことはもちろん、何よりブレント様が私を想ってプレゼントを用意してくれることが私を温かい気持ちにさせたのです。
そんな幸せな日々に影が差し始めたのは、いつの頃からだったでしょうか。
ある時期から、ブレント様は私が外に出ると不機嫌になるようになりました。
初めのうちは、可愛いものでした。
私が夜会で一人になった時、男性に声をかけられると、ブレント様がすぐさまやって来てむすっとした顔で私の手を引いていくのです。私はそういうことがある度に、くすくす笑いを噛み殺してブレント様に謝っていました。
いつも冷静な彼がやきもちを焼く様子がおかしく、可愛らしかったからです。
しかし、だんだんと彼の行動は度が過ぎていきました。私が男性とすれ違うだけで嫌な顔をし、女性と話していてもすぐに会話を打ち切らせて自分の元に引っ張っていきます。
そのうちに私が外に出て人と会うこと自体、嫌な顔をするようになりました。屋敷から出ないように命じられ、行動を厳しく制限されます。
どうしても外に出る必要がある時は常に彼がぴたりと隣について離れません。
「大事に守られていて幸せね」と、久しぶりに出たパーティーでご婦人から言われたことがあります。しかし、私には守られるというよりも、監視されているように思えてなりませんでした。
……外界と遮断され、監視されるくらいならば我慢できます。どうせ生家では虐げられてきたのですから、それを思えば何ともありません。
しかし、ブレント様の態度はしだいに残酷になっていきました。
その頃には屋敷で働く使用人は皆女性に変えられ、私は決して男性と関わらないように言いつけられていました。
約束を破ればブレント様の機嫌を損ねるということは、十分過ぎるくらい思い知らされています。なので、男性の客人が来た時は決して顔を合わせないよう、細心の注意を払っていました。
しかし、ブレント様が仕事で数日間留守にしていたある日のこと、ついうっかり気が緩んで、庭師の男性と口を利いてしまったのです。
彼は屋敷に残っている唯一の男性でした。屋敷の中の使用人は皆女性に変えられていましたが、庭師であれば本邸にそう出入りすることもないため、そのままにしておいたのでしょう。
私といくらも年の変わらない青年でした。
私が窓辺に寄りかかり庭の花をじっと見つめていると(その頃はブレント様から一切の外出を禁じられ、外の景色が恋しかったのです)、彼は「そんなに気に入ったのでしたら、一輪どうぞ」と花を差し出しました。
なんだかとても嬉しくなりました。屋敷に閉じ込められるようになってからブレント様の叱責を恐れて使用人たちもよそよそしく、こんな風に何気ない親切を受けるのが久しぶりだったからです。
私は笑顔で庭師にお礼を言いました。
ふと、正面を見ると人影が見え、血の気が引きました。そこにはじっと冷たい目で窓を挟んで話す私たちを見るブレント様が立っていました。
ブレント様は大股でこちらへ歩み寄ると、迷いなく庭師の青年を殴り飛ばしました。青年は地面に倒れ込みます。
そして突然のことに唖然としている青年の胸倉をつかむと、「エリザベスに何をする気だった!? 誰が近づくことを許可した!」と怒鳴りつけました。
彼はただ花をくれただけだと説明しようとしましたが、声が震えてうまく言葉になりません。
怒りのままに青年を怒鳴りつけていたブレント様は、従者に命じて彼を押さえつけさせると、何度も何度も殴りつけました。
青年が口から血を吐いても、膝から地面に崩れ落ちても、なかなか暴力は止みません。
「やめてください」と何度叫んでも、ブレント様の耳には届きませんでした。私は涙で滲んだ視界でその残酷な光景をただじっと眺めているしかありません。
青年が息も絶え絶えになった頃、ブレント様はようやく手を止めます。それから振り返ってぎろりと私を睨みつけました。
彼は嘲るような声で「何を泣いている? そんなにこの庭師を気に入ったのか?」と尋ねてきます。恐怖で説明しようとする言葉も声にならず、私はただ首を横に振ることしかできません。
「約束を破ったのだから、覚悟はできているのだろうな」と、彼は言いました。屋敷の中に入って来たブレント様に手を引かれ地下室に連れて行かれ、私は自分も罰の対象であることを悟りました。
ブレント様は私を床に放り出すと、何度も何度も鞭で打ちました。焼け付くように背中が痛み、恐怖で震えが止まりませんでした。許してくださいと何度言っても、ブレント様の手は止まりません。
散々私を鞭打った後、ブレント様ははっとしたように突然手を止め、鞭を置いて私の横にしゃがみ込みました。
怒鳴られるのだろうか、それとも殴られるのだろうかと震えながら顔を見ると、彼の顔にもう怒りは見えません。
彼は泣きそうな声で私に謝りました。「すまなかった。君が別の男と話すのを見て正気を失ってしまった」と。それから床に倒れ込む私をそっと抱き起こし、「君が憎くてやったわけではない。君を愛し過ぎてこんな愚かな真似をしてしまったのだ」と言います。
痛みと恐怖で頭がもうろうとしている私は、彼の言葉をぼんやり聞いていることしかできませんでした。
それからも、ブレント様の監視と体罰は続きました。彼は私を屋敷に閉じ込め、少しでも約束を破ったり、彼の気に入らないことをすれば地下室に引っ張っていって鞭打ちます。
そのくせ、機嫌のいい時には贈り物をしたり、優しい言葉をかけたりするのです。
優しげな顔で私を見るブレント様を見ていると、このままずっと穏やかな時間が続くのではないかと錯覚しそうになりました。しかし、そんな淡い期待は、いつも些細な出来事によってあっけなく打ち砕かれます。
そんな日々が、五年続きました。
艶やかだった茶色の髪はぱさぱさになり、目からは生気が失せました。生家にいた時以上に私は元気を失くし、ただただブレント様を怒らせないことだけを考えて過ごす人形のような存在になりました。
時折、あれだけ嫌いだった生家が懐かしくなるほど、ブレント様との生活は辛いものでした。
けれど、残酷さでいえばブレント様よりもお父様の方が上かもしれません。お父様はブレント様の本性を知っていて私を嫁に出したのですから。
丁寧にもブレント様本人が、鞭打ちの最中に説明してくださいました。彼は昔からかっとなると怒りを抑えられず、使用人に暴力を振るう子供だったのだと。
社交界で表立ってそれを口にする者はいませんでしたが、貴族の間でブレント様の暴力性は有名な話だったそうです。そのせいでなかなか結婚が決まらなかったといいます。
そんな時、彼は夜会で見かけた私に一目惚れしました。
自分の噂を知っている者であれば娘を嫁に出すはずがないと半分諦めつつ、彼は父に私と結婚させてくれないかと頼みました。結婚を許してくれるのならば、多額の資金援助をすると約束して。
父はあっさり了承しました。ブレント様の評判を知らないわけではなかったでしょう。父は誰よりも風向きや損得に敏感で、貴族間の噂話なども熟知していましたから。
ブレント様は私の耳元で、「つまりお前は売られてきたんだ」と囁きました。反論する気はおきませんでした。生家で過ごした日々を考えれば、その話は嘘ではないと思ったからです。
けれど、思いとは関係なく、なぜか頬を涙が一筋伝いました。
これから先も生きていてなんの希望があると言うのでしょう。私はこれからもブレント様に虐待され続けます。その上、私がここにいる限り私を売った父の家に多額の資金が流れ続けるのです。
先日、ブレント様の私室から毒を拝借しました。
この毒は単純な暴行に飽きたブレント様が、私に少しずつ飲ませて苦しませるために用意したものです。先日も地下室でこれを飲ませられた後鍵をかけられ、私は一晩悶え苦しみました。
この毒薬には頭を朦朧とさせ、記憶を曖昧にさせる作用もあるようで、私は床にのたうち回りながら、自分が誰なのかもなぜこんなところにいるのかもわからなくなり、ひどい混乱を味わいました。苦しみや痛みとはまた違った、ひどい苦痛でした。
コップに半分にも満たない量であれだけ苦しむのならば、瓶ごと飲み干せばきっと死ねるでしょう。あの苦しみを再び味わうのは嫌ですが、ここで何十年も生き続けるよりはずっとましです。
死ねずに頭だけおかしくなったり、記憶が飛んだりすることだけが心配ですが、そうならないように願うしかありません。
毒薬の瓶は、ご丁寧に私の肖像画の後ろの隠し棚に隠されていました。
そうです。旦那様はまるで愛妻家みたいに、ご自分の私室に私の肖像画を飾っているのです。その肖像画の裏に妻を苦しめるための毒を隠しておくなんて、悪趣味が過ぎますよね。
隠し棚の中には、私を打った鞭も、首を絞めた縄も、背中に傷をつけたナイフも一緒にしまわれていました。
そろそろ、遺書を書くのもやめにしましょうか。毒を飲む前に旦那様が帰って来ては大変です。
この遺書は旦那様や生家の家族や、使用人に見せるために書いたわけではありません。私自身のために書きました。
ですから机の上に置いたりはせず、子供のころから好きだった本の中に挟んでおくことにします。
ここに隠しておけば、もしも服毒自殺に失敗して記憶を失ってしまったとしても、自分に何が起こったか知ることができるのではないかと期待を込めて。
ああ、けれど小さい頃にこの本が好きだった頃の記憶まで失ったら意味がありませんね。その辺りは全て賭けです。
それではさようなら。もう二度と目が覚めませんように。
***
遺書を読み進めながら、足が震えるのがわかった。
そこに書いてあったのは、あまりにもリアルなエリザベス様の地獄の日々。これが悪ふざけや創作だとは、もう思えなかった。
恐怖で寒気がする。私は、一刻も早くブレント様から逃げなければならない。こんな危険な人物を優しい方だと慕っていたなんて。
一刻も早く、私を心配してくれていたお父様やお兄様に知らせて家に戻らなければ……。
……あれ、でも、どうして私ブレント様と結婚したんだっけ。確か、お父様がやけに熱心に勧めてきて……。お父様は、貴族間では有名だというブレント様の評判を知らなかったのかしら……?
そもそも、なぜ私がブレント様と結婚できたのだろう。後妻といえど、平凡な私はエリザベス様のように一目惚れされてぜひ娶りたいなんて言われるはずがないのに。
違う。もっと考えなくてはならないことは別にある。
遺書の最後の文章は、まるで記憶を失った自分に向けたかのように書かれていた。遺書に書いてある通り、私は幼いころに好きだった本だから目について、遺書を見つけたのだ。
考えたくない方向に思考が及び、私は必死で頭を振る。
違う。そんなはずはない。
そもそも年齢がおかしいじゃないか。エリザベス様はブレント様と三歳差で、私は五歳差。エリザベス様が生きていたら、現在二十四歳のはずだ。
それに外見だって。彼女の顔を見たことはないけれど、とても美しい人だったという。平凡な私とは違う。平凡だと、私はいつもお父様やお兄様から言われてきた。ほかの人だって……。
……あれ? ほかの人って誰だろう。なぜだか誰も思い浮かばない。私の記憶にあるのは、お父様とお兄様と、ブレント様と、それに屋敷のよそよそしい使用人くらい。
そんなはずはない。生家には父と兄以外の家族もいるし、友人だっていた。なのに、頭にもやがかかったように彼らを思い出せないのはなぜだろう。
自分が何者なのかわからなくなる感覚が恐ろしくて、私はふらふらと部屋を歩き回る。それからはじかれたように部屋を飛び出した。
ブレント様はこの時間は書斎の方にいるはずだ。私室にはいないはず。
彼の私室には入るなと言われているけれど、構いはしない。早く、早く真実を知って楽になりたい……。
足をもつれさせながらふらふらと走り、ブレント様の私室の扉を開ける。
部屋の正面には、明るい茶色の髪の、丸い黒い目をした童顔の女性の肖像画が掛かっていた。
その顔は、普段鏡で見ている私の顔そのものだった。
震える足で近づき、肖像画に手をかける。あっさりと壁からはずれ、後ろから隠し棚らしきものが顔を出した。そっと戸を引くと、中から血のこびりついた鞭やナイフが現れる。
それを見る頃には、すべての記憶が蘇っていた。
ブレント様との地獄の日々と、絶望的な気持ちで持ち出した毒薬の瓶。
臆病な私はナイフを胸に突き立てる勇気がなくて、何度も死のうとしては思いとどまることを繰り返していた。それで毒薬であれば一度飲み切ってしまえば逃げられないと、最後の手段のつもりで持ち出したのだ。
遺書には冷静なふりをして書き綴っていたが、内心ではうまくいくのか不安で仕方なかった。
記憶だけ失って、またブレント様に虐待される日々が始まったら。もしもの時のために残しておくこの遺書が見つかって捨てられたら。大した効き目もなく毒から目覚めてしまったら。
不安はたくさんあったけれど、もう限界だった。わずかな可能性にでも縋りたくて、私は毒を飲んだ。
しかし、運命は最後まで私の味方をせず、再び目を覚ましてしまった。
記憶を取り戻した後になって思い返すと、屋敷を頻繁に訪れてきたお父様やお兄様の姿に乾いた笑いが込み上げてくる。あんな風に親しげに話しかけてきたことなんて、記憶を失う前は一度もなかったのに。
大方、何度も屋敷を訪れてきたのも、問題があったらすぐに知らせろと言ったのも、私がまた自殺することを防ぐためだろう。私が死んだら彼らに一銭も伯爵家から資金が流れなくなる。
命がけで逃げ出した娘を再び原因となった男の元に嫁がせるなんて、いっそおかしくなってしまう。
ブレント様の屋敷で毒を飲んだ私は、意識がもうろうとしたまま二年の時を過ごした。やっと頭が働くようになると、すぐさまお父様にブレント様の妻になるよう勧められ、この家にやって来たのだ。そうだ、私は本当は二十二歳ではなく、二十四歳のはずだ。
すべての記憶を取り戻すと、いやに気分が落ち着いてきた。先ほどまでの恐怖はどこかに消えて、冷静に状況を把握できる。
今になって思えば、なぜ自分が消えることでしかブレント様から逃げる方法を思いつかなかったのかわからない。それだけ彼が恐ろしかったからだろうか。
しかし、今は私が死ぬことはないように思えた。私とブレント様は夫婦なのだ。近づく隙はいくらでもある。幸い、彼は私が記憶を取り戻したこともまだ知らない。
彼を油断させて、機会を作ればいい。
鞭をしまって肖像画をかけ直すと、そっと部屋から出た。そうして旦那様がいるであろう書斎まで向かう。私はそっと扉を叩いた。
「リサ。どうしたんだい?」
「なんだか寂しくなっちゃって。少しここにいてもいいですか? 仕事の邪魔はしませんから」
甘えるようにそう言うと、旦那様は相好を崩す。そうして「もちろんだ」とうなずいた。私は笑顔で旦那様に近づき、後ろからその背中に抱き着く。
エリザベスだった頃も、リサになってからも、自分からこんなことをしたことがない。旦那様はくすぐったそうな嬉しそうな声で笑った。
「旦那様、大好きよ」
耳元でそう呟いた後、私は彼の首にナイフを突き立てた。