3話 檻の外へ
わたしはゆっくりと目を開けた。
ここがどこかは、硬い床の感触ですでに理解している。
暗闇ではなく、窓から弱い光が入るところを見ると、おそらく、早朝。
取り上げられていなかった腕時計は暗くて見えない。
こんな場所で、こんな状況でもしっかり寝ている自分に感心する。
起き上がり、周りを見ると、薄暗い小さな部屋。
そして、正面の壁に凭れた女性と目が合う。
彼女は、視線を反らした。
今の状況はかなり悪い。
それでも一人よりはましだと思う。
たとえ、視線を外されても、何も答えてくれなくても。
時間だけがむなしく過ぎていく。
期待した朝食はなく、前方の女性とは言葉一つ交わさない。誰一人この部屋を訪れない。
時計はわざと見ないようにした。
それでも、窓から差し込む光の変化で、時間の経過は実感する。
その日もずっとここに閉じ込められているのだろうと諦めた後に変化があった。
人の声がして、やがて、近づいてくる足音が聞こえた。
その足音はいつもより大きく、慌てているように速い。
乱暴にドアが開けられる。
二人の男が部屋に入ってきた。
驚いている間に、男の一人にわたしは引っ張られ、強引に立たせられた。
「来い。移動する」
男がそっけなく言う。
がっしりと痛いほどに手首を掴まれ、部屋から引き出された。
もう一人の女性も部屋を出されていた。
わたしとは違い、彼女は男に掴まれておらず、自分から出てきていた。
その顔は怯え切って、青白くなっていた。
抵抗する意志は見られない。
わたしは彼女の様子を気にしつつも、未だにきつく握られた手首の痛みにこのままでは逃げられないと焦っていた。
そのまま外へと連れ出される。
明るさに目が眩む。
外に出ることが随分久しぶりのような気がする。
その時初めて、この場所に閉じ込めれれていたのが、わたしと同室の女性だけではなかったと知った。
他に5人の女性がいたのだ。
それにしても、変な時間に連れ出されると不思議に思う。
時計は、15時を指していた。
闇に紛れるわけではなく、朝一番の出発でもない。
それに男達はどこか慌てた様子がある。
もしかしたら、この場所が知られてはいけない人物に知られて引き払うのかもしれない。
それは警官かもしれない。
そうだとしたら、助かるチャンスがある。
できるだけ、ここに引き留める。
わたしは引っ張られた拍子に前のめりに倒れた。
もちろん、故意にだ。
男に手首を離され、地面に倒れ伏した。
演技だと思われないように、思いっきり倒れたため、足と手が痛い。
男はこれ見よがしに舌打ちする。
「さっさと立て」
男が再び、わたしの手首を掴んで、引っ張る。
「い、痛いです……待って、ください……」
「ぐずぐずするな」
「お願いします……待って……」
男は何も言わず、威圧的に睨んでくる。
無理やり、ぐいぐい引っ張られる。
わたしの頭の中では、どうしようどうしようと思考が回る。
いい考えが浮かばない。
わたしがもっと賢ければ……
もっといい時間稼ぎができたかもしれないのに……
馬鹿で無能な自分が悔しい……
何か……何か……
何かを探して、わたしは周りを見る。
何か、起死回生の何かを求めて。
目の前には、もう馬車があり、男達が他の女性達を乗せている。
確か、馬は臆病だと聞いたことがある。
馬を暴れさせられれば。
ただ、都合のいい石などない。
それに今思うと、既に他の女性は馬車に乗っている状態では彼女達が危ない。
わたしが馬車に乗せられようというときだった。
「待て! リーシアを返せ!」
一人の男が飛び出してきた。
その男に全員の視線が注がれる。
男は20代前半くらいの若い男で、その手には、鍬と鎌を持っている。
もっと他に武器はなかったの、とこんなときなのに思ってしまった。
同じように思ったのか、傍にいた男がふんと笑い飛ばす。
この場には、わたしが見た限り、8人の誘拐犯の男がいる。
1対8で、しかも単独で立ち向かう男は、強そうには見えない。
「リーシア!」
男が女性の名を呼ぶ。
わたしには、誰がそのリーシアさんなのかはわからない。
それに、女性達の内、誰もその声に答えようとはしなかった。
「たった一人で何をしようってんだ?」
別の男が嘲る様に言う。
その男が立ち向かおうとする男に向かい、一歩踏み込む。
わずかに顔を歪めるが、女性を取り戻そうとする男は引かなかった。
「泣いて逃げ帰るなら、助けてやってもいいが、どうする?」
誘拐犯の男の一人が腰にぶら下げた剣に手を掛けて言う。
「逃げない! 返せ!」
勇敢にも、男は鍬と鎌を構えた。
その時だった。わたしの背後で鈍い音が聞こえた。
わたしを馬車に乗せようとしていた男が崩れ落ちた。
何が起こったのかすぐにわからなかったが、背後を振り返ると理解できた。
誘拐犯ではない別の男達が雪崩れ込んできていた。
その数、10人ほど。
ほとんどが立ち向かった男と同様、農具と思しきものを手にしている。
わたしの傍の男を倒した一人だけはちゃんとした剣を持っていた。
それに、他の男達とは服装も違う。明らかに上等そうな服を着ていた。
そんな観察をしている場合ではなく、すぐに男達が入り乱れて、戦いが始まった。
「ここでじっとしていてほしい。必ず、助けるから」
男はそう言うと、他の加勢に向かった。
助けに来てくれた男達は数では勝っているが、こういうことに向いているとは思えない人達だった。
だが、わたしを助け、加勢に向かった男は強かった。
男は筋骨隆々というわけではないが、戦い慣れている印象だ。
剣を手に、相手の剣を受け流し、次々と倒していく。
しかも、おそらく相手は殺されておらず、失神しただけのように思える。
それでも、一人では同時に全ての敵を相手にはできず、残った敵には農具を持った男達が当たっている。
わたしの目を捉えたのは、その内の一箇所。
最初に女性の名を呼んだ男が一人で敵と向き合っている。
腰は引けており、まともに相手ができているようには思えない。
早く、あの人の元へも助けを……
そう思っている間にも、いつ彼に攻撃が当たるかわからない。殺されてしまうかもしれない。本当に危うい状態だった。
わたしは、そこへ駆けていた。
勢いをつけて、敵に背後から体当たりした。
なぜかどうにかできるとよくわからない自信が芽生えた。
敵の男は倒れることはなかったが、わずかにバランスを崩す。
そこへ奇跡的に振り回された鍬が敵の男の頭に直撃した。
ゴンッと鈍い音が響き、男は気を失った。
男が倒れ伏し、起き上がってこないことを確認すると、目の前の鍬を持った男と顔を見合わせた。
男の顔が緊張から安堵の表情に変わっていく。
やったー! 倒した!
わたしは心の中で叫んでいた。
目の前の男が協力して敵を倒した戦友のように勝手に思ったのだった。
そう勝手に心の中で盛り上がっていたわたしと目の前の男に、
「すまなかった。助けに行けず……」
上等そうな服を着た男が申し訳なさそうな顔でおずおずと言う。
「い、いえ! こちらこそ、手伝っていただいて、感謝しておりますっ!」
鍬を持った男が畏まって感謝を述べる。
ふと、周りを見ると、既に決着していた。
敵は全員、地面に転がっている。
農具を持った男達も、誰も重傷を負っているような人はいないように見える。
男達は、敵をロープで縛っていっていた。
「君も怪我はないだろうか?」
急に手を取られ、真正面からそう声を掛けられた。
周りの様子に気を取られていたわたしは驚いて、体がびくっとなってしまった。
わたしは、その男の顔をすぐ近くで直視することになった。
こんな近くで見たことのない端正な顔に、わたしの体は拒絶反応を示した。
男の手を振り払い、距離を取った。
今度は男の方が驚いた顔を向ける。
「申し訳ございません。馴れ馴れしい行いを致しました」
男が謝罪の言葉を述べる。
「わたしより、他の人たちをお願いします」
男の顔を見ないようにして、そう返した。
「わかりました」
そう言って、男は漸くわたしの前からいなくなった。
敵が倒れたとき以上に安堵した気がした。
男にあんなことをされたことがない。
その上、今のわたしは、臭いし、汚い。
優しい人だということはわかる。その優しい人にあんな態度を取ってしまったことも申し訳なく思う。
それでも――
わたしは、離れたまま、助け出された女性達を見ていた。
傍にいた鍬を持ったままの男は、鍬を投げ出し、ある女性に駆け寄っていった。
きっと、あの人がリーシアさんなのだろう。
それに、同室だった女性の姿も見える。
本当によかった。全員が無事に助け出されて。
例のわたしに近づいた男は、他の女性達も気遣っていた。
その男から視線を外す。目を合わせたくなかったから。
「近くに馬車が止めてあります。そちらに乗って、村に向かってください。歩くのがつらい方は手を貸します」
一番年上と思われる青年が声を上げる。
「あの――」
また別の男がわたしに駆け寄り、話しかけてきた。
「歩けますか? 馬車まで少しだけ、歩かないといけないので」
「大丈夫です。ありがとうございます」
わたしはそっけない口調になっていた。
一番年上の青年を先頭にゆっくりと歩き始める。
どうやら、例の男と後4人の男がこの場に残るらしい。
「行きましょう」
傍にいた男が声を掛けてきたので、わたしも続いて歩き出した。
歩いて、3歩ほど進んだところで、急に突き飛ばされた。
何が起こったのかわからないまま、わたしは地面にぶつかった。
わたしがいた場所には、あの同室だった女性がいた。
女性と目が合った。
ただ、それはほんの一瞬のことだった。
女性は力なく倒れていった。
倒れた女性の背は赤く染まっていた。
その傍らには、鍬で頭を殴られて気を失っていたはずの男が血に濡れた剣を手に立っていた。
わたしは何もできず、ただ、立ち尽くしていた。
すぐに状況が理解できずにいた。
目と鼻の先には、まだ、返り血を浴び、剣を持つ狂気に満ちた男がいるのが見えている。
逃げないといけない。
それなのに、体は動いてくれなかった。
男がわたしを見据えている。
剣が振り上げられる。
その剣はわたしに振り下ろされる前に男の手から離れ、転がった。
男が微かに呻いた。
男が自分の背後を振り返る。
男の後ろには、剣を手に、上等な服を血に濡らした男がいた。
その優し気だった顔は強張っている。
狂気の男は血を滴らせたまま、噛みつくように襲い掛かろうとする。
もう一度、その男に向かって剣が振るわれた。
男は今度こそ、倒れ伏した。
2人の血まみれの男女が転がっている。
赤い血だまりが生々しい。
「ぁ――」
ずっと、息をするのも忘れていたかのように、息を吐いた。
周りは誰もいないかのように、静かだった。
これは、現実だろうか。
まるで残酷な映画でも見ているかのように錯覚した。
わたしは周りを見回した。
何人もの人がいる。その誰もがこちらを見たまま、呆然としている。
わたしは転がる男女を再度、見る。
違う。これは、現実だ。
二人はもう、ぴくりとも動かない。
わたしは何をしているんだろう。
わたしは、女性に駆け寄った。
彼女の血を止めないといけない。
早く病院に連れて行かないといけない。
でも、どうしていいかわからない。
わたしは、彼女の背の傷に手を当てた。
全然、大きな傷は塞げない。
わたしの手にそっと大きな手が被せられた。
顔を上げると、端正な男の顔があった。
「彼女は、もう……」
その口から弱々しい言葉が漏れる。
わたしは……
そのまま、しばらく、そのまま動けなかった。
女性の体は冷たくなっていた。
彼女は死んでいるんだ。
わたしの……せいで……
彼女の顔を見た。
彼女の名前すら知らない。
彼女とは少しだけ話しただけ。
どうして、わたしを助けてくれたのだろう。
あんなことをしなければ、死なずに済んだのに。
彼女の冷たい体とは対照的に、男の手の温かさを感じる。
生きているのだと、実感する。
男は何も言わなかった。
変に慰められるより、その方がよかった。
詰られてもいい。憎まれても仕方ない。
わたしは男の顔を見た。
その表情は、わたしを責めるようなものではない。
わたしは彼女の体から手を離そうとする。
男はためらいがちにわたしの手を放す。
わたしの手にはべったりと彼女の血で濡れて、赤く染まっていた。
わたしが殺したようなものだ。
自分の両手を見つめ、思う。
この光景をきっと一生忘れられない。
わたしは立ち上がった。
それを見届けたように、男は横たわる女性を抱き上げた。
「村に行きましょう。休んだ方がいい」
男がそう、声を掛けてきた。
皆がぞろぞろと移動を始める。
わたしもそれに倣った。
誰もが無言だった。
馬車まで辿り着くと、男は死んでしまった女性を馬車に寝かせ、
「村の者達を頼るといい。僕も後で、村に戻る」
そうわたしに声を掛け、男は一人、来た道を戻っていった。
馬車は屋根などはなく、椅子すらない荷物の運搬用のような馬車だった。
それが2台あり、男が6人と女性達で分乗していた。
わたしは庇ってくれた女性の傍に座っていた。
彼女の体が馬車の揺れで傷つけられないように、彼女にそっと触れていた。
彼女の顔は、傷ついておらず、眠っているようだった。
沈黙の車内で、暗い影を作る斜陽が嫌でたまらなかった。