ー 9 ー
僕は渡されたものを黙って見つめていた。
古い秘密は冷たく重い。けれどひとたび爪を立てれば新たな血が溢れるはずだ。
過去は眠るだけで死ぬことはない。目を覚まし、暴れ出す。そして手を触れたやわらかな者に傷をつける。
その痛みで未来を変えられる?
僕はそう思わない。だから見えるものだけを見てただ道を行く。
「ここに置いていこう」
僕がそう言うと、その人は「知るというのは……」と呟いた。
「恐ろしいね。戻れなくなるから」
「遠ざかることはできる。進めばいいんだ」
と、道の端に秘密を横たえる。すぐそこに湖があるはずだけど、霧が深すぎて水面のたゆたいしか聴こえなかった。
並んで歩き出す。その人は何度も後ろを振り返った。あたり一面が真っ白なのに何を見ようとしているのだろう。
「これが君の魔法なのか」
「そう。僕は忘却を、それを装う者を肯定できる」
「…………」
ギイッ、と湿ったものが軋む音がした。
「あれは?」
「船出かもしれない」
それきり僕たちは黙り、前に進んだ。
見慣れた町の明かりが目に入り、私は細くため息をついた。
たった二日の旅はあまりにも遠く長かった。ようやく帰ることができたとまばたきを繰り返す。
小さなアパートの青い扉を思う。そこを潜れば妻が迎えてくれる。
私はダイナーで買った菓子とメイリーの花束を渡す。ビビは笑顔で尋ねるだろう、「先生のお家はどうだった?」……
真に答えるのは今日ではない。
しかし、じきに。
私は彼女に打ち明け、一から調べ直し、メイリーに電話をかける。
あるいは詫びの言葉で始まる長い手紙を書くだろう。そうして近いうちにもう一度会うことになる、あの少年とも。
何のために、という問いはまだ自分の中にあった。私の望む行き先は先生のそれと同じではないのかもしれない。
それならば、だからこそ託されたのだと信じたい。
夜の湖に向けられたマービンの視線を思い出す。どうかその目のままで私が差し出す過去を見てほしいと願った。
ガレージに車を納め、通りから部屋を見上げる。カーテンの向こうを、妻の優しいシルエットが幾度か横切った。
荷物を抱えた私は、現在へと続く階段を上り始めた。
彼がやってきた時から分かっていた。
ずっと一緒に進むことはない。この人は必ずどこかで引き返す。
薬を抱いて湖に消えた先生が、手帳だけは残していったように。
ひょっとしたら呼ぶ声が聞こえるかもしれない。そんな気がして遠くなった水音に耳を澄ませていると、ふっと隣の気配が消えた。
思ったより早かった。
そう苦笑いした僕は、ひとりで白い霧の中を歩いてゆく。
( 了 )
最後までお読みくださり、真にありがとうございます!
「年を重ねた方に楽しんでいただける物を」との目標に辿りつけていたら幸いです。
(余談)
過去の習作を加筆修正して…… と始めたはずが、元が不出来すぎてタイトルと薬の要素しか残せませんでした。