ー 6 ー
階下に戻った時には正午になろうとしていた。
昼の用意に立っていたメイリーが、「ありがとうユアン、大丈夫だったかしら?」とふり返る。まだ少し眠そうで、ゆっくりした動作は昨日より年齢を感じさせた。
「おおかた仕事の書類で、仕分けておきましたよ。特別な物といえばこれが」
卒業のカードを差し出すと、彼女は「あらまあ!」と嬉しげな笑顔に変わった。それを目にした瞬間、頭の中に声が響く。
それでいい。そこまでだ。
私は微笑みを返した。
「これでやっと終わりですね……」
それからは、美味しいサンドイッチをお供に穏やかな時間をすごした。
いよいよの別れぎわになって、私は、
「二人によろしく。またお会いしましょうと伝えてください」
と告げた。昼食の直前に、チェイスから「道が混んでいて帰りが遅れる」と電話が入っていたのだ。
「ええ、来てくれて本当にありがとう! 次は私たちの家にいらっしゃい、奥さんも一緒にね」
「喜んでうかがいますよ。お元気で、メイリー」
老婦人に見送られながら、私のコンバーチブルは長い道のりを走り出した。
マービンと顔を合わせずに済み、ひそかに安堵していた。彼は聡明な少年だ。いま言葉を交わせば私の動揺を見抜いてしまうに違いない。
しかし心が軽くなったわけではなかった。
どうぞ奥さんにと渡された庭の花束。それが助手席から香るたび、シャツのポケットに忍ばせた秘密が鉛のように感じられた。
峠を越えてさらに一時間ほど走り、規模のある町にさしかかった。夏の陽はまだまだ高い。私は大きな書店の脇で車を停めた。
入り口近くは混雑していたが、奥まった位置にある“ルポルタージュ”の棚はひっそり静まり返っていた。
店先のにぎわいも誰の足音も届かず、世界から遮断されて過去を探す。
もう五十年も昔。隣国セルリゴの八月革命……
私の知識は極めてあやふやだったが、独裁政権の成り立ちから終焉までを検証した本の中に、求めていた記述を見つけることができた。
ひそかに他国の後ろ盾を得ていたセルリゴの反政府軍は、戦いをごく短期で終える算段をつけていた。しかし思惑は外れ、内戦は数年に及ぶことになる。
なぜこれほど長期化したのか。
理由の一つとして、反政府側の動きが不自然なほど漏れていたという事実が挙げられている。そして政権側に本来の諜報能力を超える情報をもたらしたものは―――
おそらくは“薬”である、と書かれていた。
「その存在は未だ実証されていないが、ミンドーツ系化合物ではないかと思われる。
捕虜に投与すると強烈な自白作用を引き起こし、有益で重要な情報を手にすることができるのだ。
多くの国で禁止薬物に指定されていることからも分かるように、ミンドーツの多量摂取は再起不能なまでに精神を破壊する。そしてダジオ政権の管理下にあれば、自我が崩壊した者の行き場は死にほかならない……」
その少し後、私は薬物関連の棚の前に立っていた。今度は数分もせずに見つかった。
「ミンドーツを主成分とした薬剤は、薄い水色を発する」
燃える夕陽にビル群が浮かび上がる。
渋滞の最後尾についた私は、息をついてかたわらの本に目をやった。同時に胸ポケットの手帳に触れる。
書斎でこれを開いた時、私は不可解さに眉をひそめた。
その中身は、先頭から中盤にかけてごっそり破り取られていた。もともとが薄い手帳だ。少しだけ残る黄ばんだページには罫線すらなく、何も書かれていない……
と思ったが、一番最後に薄い鉛筆の走り書きを見つけた。
おそらく先生の字だ。しかし書かれた化学式が何を意味するのか、その時はまだ理解できなかった。
ばらばらの点を結びつけたのは、布張りの表紙だ。
手帳を隅々まで改めた私は、折り込まれた布の端が不自然にめくれていることに気づいたのだ。
先生が、後から貼り付けた? 何を隠そうとして?
板敷きの床に手帳を押しつけ、四隅から慎重に剥がしていく。
くすんだ緑色の厚紙が現れる。
そこに黒いインクのスタンプ。外国語――― 隣国の言葉で、おそらく“通行許可証”と示している。文字の上には何かの絵が続く。
早鐘のような鼓動が私を急かす。黒い布を一息に取り去ると、身体を捻じ曲げた双頭の獅子がこちらを睨みつけていた。
醜く恐ろしい、心を持たぬ怪物。
これがあの忌まわしき独裁政権の印章であることは、さすがの私も知っていた。