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訃報が届いたのは夏至の翌日だった。
鳴り響く電話を寝ぼけ眼でとった私は、アレックの「ラッセン先生が亡くなった。事故だ」という短い言葉に一瞬で醒めた。
「どうして」
「ボートが転覆したそうだ。家の裏の湖で、昨日の早朝。一人きりだった」
そばの町で葬儀がある、と続けるアレックの声に半ば自動的に答えながら、私の頭には学生だった日々の細切れの情景が次々とよみがえっていた。
板書をする先生の大きな背中。元素周期表のあちこちを指して説明する姿。昼時に教務室を訪ねれば、たくさん買い込んだオレンジを気前よく投げ渡してくれる。
先生はしょっちゅう寝坊をして、「おや、君もかね!」と並んで門に駆け込んだこともあった……
アレックも同じようなことを思い出していたのだろう。沈黙の後でこう呟いた。
「残念だ」
「ああ、本当に」
葬儀場で会おう、と力なく言い合って受話器を置いた。
ちょうど家に来ていたビビが様子をうかがっているのに気づき、「喪服を探さないと……」とぼんやりふり向いたのを覚えている。
「やれやれ、先生がこんな魔窟を築いてたなんて!」
声を上げたアレックが、大きな音を立てて色あせたテーブルを脇にどけた。私は舞い上がる埃にむせ返りながら、掃除バケツを抱えてきたマービンに尋ねる。
「ここ、開けるのはいつ以来?」
「ぴったり一年です。大伯父さんのお葬式の後、父さんが中を見て、閉めただけ。新年の会でも何とかしようって話は出たんですけど」
すでに私と並ぶ背丈の少年は、ばつが悪そうに答えた。果敢にがらくたに挑むアレックが笑ってふり返る。
「無理ないよ、家も遠いだろう。ぼさっとしてないでそっち持ってくれユアン」
「はあ、君は体力があるからいいが……」
「言い出したやつがへたっちゃ困るぜ。ほら、われらが先生のために!」
そう、私こそ彼らをこの開かずの間に誘った張本人だ。少しは格好をつけなければ、とやたらに重い木箱を持ち上げたとたん腰が悲鳴をあげた。
ラッセン先生は、薬学研究の道の半ばで高校教師の職に就き、定年までを勤め上げた。
最後の教え子となったのが私たちの代で、先生も一緒に卒業したというわけだ。
彼はしばらく学校のある町で暮らしていたが、終の棲家として湖のそばの森の家を選び、そこへ移ってからは卒業生の集まりも辞すようになっていた。
私が先生に会ったのは十年以上前の同窓会が最後だ。他の皆も似たようなものだろう。
先生は自分の家族を持たなかった。たった一人のきょうだいであるメイリーは、当初この家を残したがっていた。
しかしアレックの言うように彼女と息子一家の住む町は遠く、この先も維持するのは難しい。メイリーはみずから動けるうちに手放すことを決意した。息子のチェイスを中心に大掃除を始めたのが、春が始まる前のことだ。
片づけは順調だった。
しかし、誰もが存在を忘れていた二階の物置が、唯一にして最大の難関として立ちはだかったのだ。
「開けた途端、もうパズルみたいなのよ。木箱やら何やらぎっちり詰まっていて…… 兄さんったら、どこからあんなに物を集めてきたのかしら」
と途方にくれた声を思い出す。
私への電話の用件は他のところにあったのだが、窮状を聞いてつい「それなら手伝いましょう」と申し出た。そしてこういう時に声をかけられる友人となれば、あの三人しかいないというわけだった。
階段を上がってきたロードと顔をつき合わせたと思うや、彼女は私を指してケラケラ笑った。
「大きなネズミみたい、頭っから埃だらけで」
「君だって大差ないからな。次のコレクションはネズミをモチーフにしたらどうだ?」
やりあう私たちの後ろで箒を振るっていたヘレナがおどけた声で言う。
「がんばりましょうよ落第ネズミ組。これをやりきれば埃の化学式を書けるようになって、先生が泣かずに済むんだから」
この台詞どおり、私たち四人の共通点はよりによって受け持ちのラッセン先生の専門である化学で赤点を取り続けたことだった。
補講、追試、レポートの再提出…… と居残りを重ねる中で奇妙な連帯感が生まれ、それは今でも続いている。
物置部屋には輝く床が現れていた。そこへしゃがみ込むアレックとマービンが、古いトランクを開けつつ話し込んでいる。
「これは宝物が出てきそうだぞ。どうだい、おじさんと山分けしないか」
「そういう時ってお祖母ちゃんの取り分が一番多くなりますよね?」
こちらも平和な会話を背に、空の木箱を抱えた私は階段を下りた。
掘り出して埃を払い、不要な物は裏庭へ。時間と気力と体力すべてを要する作業で、太陽の消える前に終えられた時は心底ホッとした。
あれだけ元気だったロードもぐったりした様子で、しかし最後まで口は止めずにパラキートの本領を発揮していた。
「ああやり遂げた、もとからくたびれてる身体で。私たち誇っていいんじゃないかしら、これは先生だって褒めてくれるわよね?」
「ああ、きっと……」
私は心地よい疲労感とともに逆光の庭を眺めた。
積み上げられた棚や椅子がひとつの大きな影になっている。いくつもの梢の重なる彼方に、静かな湖面が黄金のように輝いているのが見えた。