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凪色の薬  作者: 小津 岬
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ー 1 ー

 この道はいつまで上がり下がりするのかと思った瞬間、ようやく目指す木立ちが見えてきた。

 鬱蒼(うっそう)と茂る森へとハンドルを切る。高い木々が夏の陽ざしをさえぎっていて、いくらも進まないうちに窓から爽やかな風が入ってきた。やがて車を停め、前庭に降り立つ。

 昨年よりもずっと狭く感じたのは、手入れが減って野放図に茂る植栽のせいだけではないだろう。

 先生の家にしてもそうだった。

 アイビーの()う石壁もすすけた煉瓦(れんが)色の屋根もひと回り縮んだように見える。住人という魂を失って……

 二階建ての小作りな住居を見上げて立ち尽くしていると、正面のポーチからメイリーの声がした。

「まあ、いらっしゃいユアン!」

 亡き先生の妹である老婦人が、開け放したドアから杖をついてやって来る。私は急いで歩み寄り小さく丸い身体を支えた。

「こんにちは、メイリー。こうして会うのは一年ぶりですね」

「ええ、お迎えもしないでごめんなさいね。いつもは車の音が聞こえるんだけれど…… それとも、あなたは本当に魔法使いなのかしら」

と、メイリーは親しげなまなざしで見上げてきた。


 懐かしさと照れくささが胸を満たす。魔法使い、ウィザードというのは正に私のあだ名だった、二十数年前の。

 魔法使い、僕が?

 そうだとも。君には何かがある、何かができるんだよユアン―――

 今も鮮明な、温かな声。思い出が頬をゆるませる。

 ラッセン先生はよく私たちを突拍子もない名前で呼んだものだが、突拍子もないと感じるのは呼ばれた本人だけで、周りからしたら隙間なく()まる納得の選択なのだった。遠い時代の楽しい思い出だ。

「どうでしょう、気配を消すしかできませんから。永遠の見習いですよ」

「あらそうかしら? あなたが来ると決まってから、庭が急に元気を取り戻したのよ」

「電話から伝わった魔法で?」

 私は笑いながらポーチの脇に目をやる。地植えの薔薇(ばら)は夏の盛りにも太陽へ花を向け、確かに生命力を感じさせた。



 家に上がるとすぐに、居間の奥のキッチンに“女の子たち”の気配がした。バターとチョコレートの甘い香りが漂う中、

「ああユアン、久しぶりね!」

と現れたヘレナが両手を広げた。

 澄んだ声と、輝く金髪の巻き毛に飾られたまぶしい笑顔。高校時代の彼女は意図することなく男子の視線を集めていたが、今は近所のおじさん連中の憧れを一身に受けていそうだった。

 あいさつを交わす私たちの後ろでもう一人が顔を出す。

「えっ、今来た? 庭を見てたのにわからなかった。ちゃんと地面を走ったの?」

 焼きたてのクッキーを頬張りつつ、ロードは目を丸くした。

 真っ黒に染めた髪のおかげで印象は変わったものの、痩せて小柄で、眼鏡の奥からきょろきょろと周りを見回すのは昔のままだ。かつて先生はこの癖を好ましく思い、おしゃべりな小鳥、パラキートという名を彼女にさずけていた。

「走ったよ、何時間も。この森じゃ私の車は保護色だな。アレックは?」

「ちょっと前に着いて、湖に行ってる。あの坊や、何だっけ、あの子と」

 ロードがせわしなく視線をやると、メイリーはキッチンから苦笑した。

「マービンよ、私の孫。ユアンも会うのは二度目かしら。栗色の髪の背の高い子を覚えてる? 秋から高校に通うの」

 そう言われて私はやっと思い出した。峠の向こうの町の葬祭場で、メイリーと同じ列に座っていた男の子の姿を。

 今回の客は、私たち教え子が四人だけのはずだった。

 そこに馴染みの少ない少年がいる。どことなく気がさざめくのを覚えた。


「さあユアン、聞かせてもらいましょうか!」

 お茶の仕度を終えたヘレナが元気よくふり返り、私はハッと顔を上げた。

「何が。何を?」

「決まってるじゃない。結婚おめでとう、この私を少数派にしたご気分はいかが?」

 意地悪く目を細めたロードがクッキーを持ったまま肘で突っついてきた。

「奥さんはどんな素敵な方? 写真はあるかしら」

とソファーに身を落ちつけたメイリーまでもが目を輝かせる。私は弱りきって頭を掻いた。

「先に片づけを済ませないか。時間もあまりないし……」

「平気よ、まだ十三時。午後中かかるわけでもないでしょう」

「勿体ぶらないでお話しなさいよ!」

 ヘレナとロードのさえずりが一段と高くなり、包囲網は破れない。お茶とお菓子と好奇心の(おり)(はば)まれた私を救ったのは、

「諸君!」

という晴れやかな一声だった。

 ふり返った先にアレックの笑顔があった。癖のある茶色の髪を丁寧に撫でつけ、たくましい胸をそらせている。やや肉がついた気はあっても、依然としてスポーツ向きの体系を保っていた。

「健全な労働は陽のあるうちに。男手が揃ったところで開けようじゃないか、頭上のパンドラの箱を」

 大げさねえ、と呆れてみせたロードだが、彼の登場でみんなの意識はすでに二階へ引きつけられている。堂々とした佇まいとよく通る声は、大きな商社で鍛えられ年々力を増しているようだった。

 彼のとなりで、先ほど話にあがった少年が静かに頭を下げる。

 やっぱり何かが起こるのではないか。

 そんな予感がよぎったが、私は「やあ、マービン!」とあえて明るい声を出して立ち上がった。

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