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この道はいつまで上がり下がりするのかと思った瞬間、ようやく目指す木立ちが見えてきた。
鬱蒼と茂る森へとハンドルを切る。高い木々が夏の陽ざしをさえぎっていて、いくらも進まないうちに窓から爽やかな風が入ってきた。やがて車を停め、前庭に降り立つ。
昨年よりもずっと狭く感じたのは、手入れが減って野放図に茂る植栽のせいだけではないだろう。
先生の家にしてもそうだった。
アイビーの這う石壁もすすけた煉瓦色の屋根もひと回り縮んだように見える。住人という魂を失って……
二階建ての小作りな住居を見上げて立ち尽くしていると、正面のポーチからメイリーの声がした。
「まあ、いらっしゃいユアン!」
亡き先生の妹である老婦人が、開け放したドアから杖をついてやって来る。私は急いで歩み寄り小さく丸い身体を支えた。
「こんにちは、メイリー。こうして会うのは一年ぶりですね」
「ええ、お迎えもしないでごめんなさいね。いつもは車の音が聞こえるんだけれど…… それとも、あなたは本当に魔法使いなのかしら」
と、メイリーは親しげなまなざしで見上げてきた。
懐かしさと照れくささが胸を満たす。魔法使い、ウィザードというのは正に私のあだ名だった、二十数年前の。
魔法使い、僕が?
そうだとも。君には何かがある、何かができるんだよユアン―――
今も鮮明な、温かな声。思い出が頬をゆるませる。
ラッセン先生はよく私たちを突拍子もない名前で呼んだものだが、突拍子もないと感じるのは呼ばれた本人だけで、周りからしたら隙間なく嵌まる納得の選択なのだった。遠い時代の楽しい思い出だ。
「どうでしょう、気配を消すしかできませんから。永遠の見習いですよ」
「あらそうかしら? あなたが来ると決まってから、庭が急に元気を取り戻したのよ」
「電話から伝わった魔法で?」
私は笑いながらポーチの脇に目をやる。地植えの薔薇は夏の盛りにも太陽へ花を向け、確かに生命力を感じさせた。
家に上がるとすぐに、居間の奥のキッチンに“女の子たち”の気配がした。バターとチョコレートの甘い香りが漂う中、
「ああユアン、久しぶりね!」
と現れたヘレナが両手を広げた。
澄んだ声と、輝く金髪の巻き毛に飾られたまぶしい笑顔。高校時代の彼女は意図することなく男子の視線を集めていたが、今は近所のおじさん連中の憧れを一身に受けていそうだった。
あいさつを交わす私たちの後ろでもう一人が顔を出す。
「えっ、今来た? 庭を見てたのにわからなかった。ちゃんと地面を走ったの?」
焼きたてのクッキーを頬張りつつ、ロードは目を丸くした。
真っ黒に染めた髪のおかげで印象は変わったものの、痩せて小柄で、眼鏡の奥からきょろきょろと周りを見回すのは昔のままだ。かつて先生はこの癖を好ましく思い、おしゃべりな小鳥、パラキートという名を彼女にさずけていた。
「走ったよ、何時間も。この森じゃ私の車は保護色だな。アレックは?」
「ちょっと前に着いて、湖に行ってる。あの坊や、何だっけ、あの子と」
ロードがせわしなく視線をやると、メイリーはキッチンから苦笑した。
「マービンよ、私の孫。ユアンも会うのは二度目かしら。栗色の髪の背の高い子を覚えてる? 秋から高校に通うの」
そう言われて私はやっと思い出した。峠の向こうの町の葬祭場で、メイリーと同じ列に座っていた男の子の姿を。
今回の客は、私たち教え子が四人だけのはずだった。
そこに馴染みの少ない少年がいる。どことなく気がさざめくのを覚えた。
「さあユアン、聞かせてもらいましょうか!」
お茶の仕度を終えたヘレナが元気よくふり返り、私はハッと顔を上げた。
「何が。何を?」
「決まってるじゃない。結婚おめでとう、この私を少数派にしたご気分はいかが?」
意地悪く目を細めたロードがクッキーを持ったまま肘で突っついてきた。
「奥さんはどんな素敵な方? 写真はあるかしら」
とソファーに身を落ちつけたメイリーまでもが目を輝かせる。私は弱りきって頭を掻いた。
「先に片づけを済ませないか。時間もあまりないし……」
「平気よ、まだ十三時。午後中かかるわけでもないでしょう」
「勿体ぶらないでお話しなさいよ!」
ヘレナとロードのさえずりが一段と高くなり、包囲網は破れない。お茶とお菓子と好奇心の檻に阻まれた私を救ったのは、
「諸君!」
という晴れやかな一声だった。
ふり返った先にアレックの笑顔があった。癖のある茶色の髪を丁寧に撫でつけ、たくましい胸をそらせている。やや肉がついた気はあっても、依然としてスポーツ向きの体系を保っていた。
「健全な労働は陽のあるうちに。男手が揃ったところで開けようじゃないか、頭上のパンドラの箱を」
大げさねえ、と呆れてみせたロードだが、彼の登場でみんなの意識はすでに二階へ引きつけられている。堂々とした佇まいとよく通る声は、大きな商社で鍛えられ年々力を増しているようだった。
彼のとなりで、先ほど話にあがった少年が静かに頭を下げる。
やっぱり何かが起こるのではないか。
そんな予感がよぎったが、私は「やあ、マービン!」とあえて明るい声を出して立ち上がった。