知らない家6
29 夜の家
「ただいまー」と言っても、返事がない。
「春樹、春樹」と呼んでも、返事がない。
息子の部屋のドアを開けると、息子はまだ寝ている最中だった。
起こしたものか、どうしたものか、と思いながら、買い物してきた材料を、食卓に並べた。
超手抜きだ。
残っている唐揚げを早く食べないと、という意識もある。
捨てたらゴミ、食べたら栄養だ。
冷蔵庫からビールを出してきたが、何となく、昨日も一昨日も大量に飲んだので、今日はやめておこうと思った。
珍しいことだ。
さ、ごはんを食べよう、と思ったところに、息子が起きてきた。
「ああ、おなかがすいた」と息子は言った。
起きてすぐに、おなかがすく。
若い証拠だ。
「ビール、飲まへんの?」と息子に聞かれて、「うん」と答えた。
「まさか、一緒に来るつもりと違うやろね」と言われて、自分が一緒に夜の家に行くつもりだったことが、初めてわかった。
ありゃりゃ。
本気で行くつもりなんか、どこにもないのに。
「今日は、疲れたわ」と息子が言った。
「そら、そんだけ寝てたら、疲れるわ」と私は答えた。
「まあな」と息子は言った。
私達が、出掛ける時には、夜の8時になっていた。
『夜には、来ないでください』とは、言われていない、と私は、今までの注意事項を再確認した。
ボーナスか。
本当にくれるんなら、欲しいなあ。
「しゅっぱーつ」という息子の掛け声で、私達は、家を後にした。
夜の町は、朝や昼や夕方とは別の顔をしている。
駅前までは、コンビニやホテル街、商店街があって、昼間とあまり変化はないが、昼間には余り見掛けなかった、若い男や女がウロウロしている。
駅を通り越してしばらく行くと、今までのキラキラした明かりが、全て消え、住宅街の街頭の明かりしかなくなる。
「ここから、雰囲気変わるなあ」
息子が自転車から怒鳴った。
「ほんまやねえ」と私も怒鳴り返した。
家の前に着いた。
真っ暗だ。
一瞬、家で寝ていればよかった、という気分が起こる。
息子が、懐中電灯を出して、門の鍵を差し込むところを照らした。
私は、鍵を開けた。
そして、息子に知られないように、鍵をかけないでおいた。
何かあった場合、素早く逃げたいからだ。
玄関の鍵も、同じようにした。
ああ、ほんまに真っ暗や、と私は思った。
何で、こんな時間に来ることにしてしまったんやろか。
そして、電気のスイッチを探して初めて、ここには、電灯がつかないことを思い知った。
息子の昨日の準備の意味がわかった。
そして、5時には帰ってください、という注意の意味も。
息子は、持ってきたカバンの中から、次々と懐中電灯とろうそくを出した。
「そんなん、どうしたん」
「100円ショップで買った」と息子は言った。
一体、いつの間に?
懐中電灯に照らされた人形の群れを見た時、怖さよりも懐かしさが込み上げてきた。
私=人形にとっての春子ちゃんを守るために集まっているのだ。
『春子ちゃん』
『春子ちゃん』
仕方がないなあ、と私は思った。
今夜一晩は、春子ちゃんになっておこう。
ろうそくに照らされて、一番広い部屋の真ん中に座って、瞑想している息子は、恰好よかった。
きっと爆発か何か起こるんだ、と身構えていたが、何も起こらなかった。
奥の六畳間と台所と玄関は、懐中電灯で照らされていた。
その他の部屋は、地震対策用みたいな太いろうそくが灯っている。
ま、深く考えたら、怖い状況だ。
何でついてきてしまったんだろう、と弱気になったり、息子が危険に飛び込むのに、母が家でノンビリ待っているわけにはいかんだろう、という強気が、交互に、私の心を襲ってくる。
私も真似をして、広い部屋の隅で、息子みたいに瞑想の恰好をしてみた。
その瞬間、ドッカーン、という爆発音が起こった。
お馴染みの硫黄の匂いが、周囲に立ち込める。
『春子ちゃん』
『春子ちゃん』
と人形達がざわめいている。
『大丈夫』と私は言った。心の中で。
その瞬間、私は、自分の身体が、ゴムマリになったように、ポーン、とどこかに飛んでいくような気がした。
30 過去生?
私は、暗いトンネルをトボトボと歩いていた。
何で、こんなところを歩いているのか、わからなかった。
突然、周囲に光が満ちてきた。
ワハハ、ワハハ、と腹の底から笑いが込み上げてくるような気分だ。
その後、また、暗い通路をどこかに向かって、一直線に進んでいた。
突然、自分が空中に放り出されたような気がした。
遙か下の方を見ると、自分が見えた。
自分が何らかの光で、輝いているように見えた。
私は、瞬時に、その肉体に宿った。
そこは、私の家で、今までいた光輝く世界とは、全然違っていた。
その世界に対応できるまで、かなりの時間がかかった。
「お兄ちゃん」と私は、泣いていた。
「お兄ちゃん」
私が、この世で一番大切に思っていた人が、今、死んでいこうとしていた。
「春子、あっちに行っていなさい」と誰かが言った。
「いやや」と私は答えた。
誰かが、私よりも力の強い誰かが、私をお兄ちゃんから引き離した。
お兄ちゃん、お兄ちゃん、と私は、ずっと泣いていた。
誰か、すごく優しい手が、私の身体にかかった。
「春子ちゃん」
その相手が、自分と同じように悲しんでいるのがわかった。
もう一つ、自分と同じ小さな手が、私に触れた。
「範子ちゃん」
私達は、もうこの世に残っているのは、自分達二人きりのように、お互いに、お互いの身体を抱いた。
「春子ちゃん」
その私達を、優しい手が包む。
誰だかわからないが、すごくいい匂いがした。
「華さん」と範子ちゃんが言った。
「大丈夫よ、大丈夫」と華さんが言った。
上を見上げると、白い靄のかかったような感じで、華さんの顔はよく見えなかった。
でも、華さんが泣いているのがわかった。
自分の身体を見ると、アチコチに痣ができていた。
目に見えない誰かが、私を殴った。
「その子、気持ち悪い」と誰かが言っている。
お母さんなのだろうか。
私は、一人きりでブルブルと震えている。
誰も味方がいない感じ。
味方はいた。
たった一人。
そのお兄ちゃんは、今、死んでいこうとしている。
ワアア、と私は泣いた。
「気持ち悪い」
「気分悪い」
「可愛くない」
「異常」
色々な声が聞こえてくる。
「春子ちゃん」
『春子ちゃん』
「春子ちゃん」
『春子ちゃん』
わからない。誰が誰なのか。
私は、また、ひどく殴られた衝撃で、ハッと我に返った。
「お母さん、大丈夫か」という息子の声が聞こえ、私は、自分が、暗い家の広い部屋にいることを思い出した。
あーあ、私まで、変になってしまった、と私は思った。
31 道 全員集合
「お母さん、しばらく動揺が続くけど、我慢してな」と息子が言った。
瞬間、また目の前に、家具や人の姿が見えるような気がした。
あーあ。
ま、そういうこと全部、わかった上で来たんやから、仕方がないか、と思う。
私の幻覚も、多分、息子のせいだろう。
「今、タオ(道)を整えてるから」
もう、タオでもタオルでも、何でも整えてちょうだい気分だ。
私は、なぜか、本能的に、人形達を自分の周囲に集めた。
ケースに入ったリーダー格の美形人形も、ケースから出して、全員の先頭に置いた。
『春子ちゃん』
『春子ちゃん、怖い』
あのな、私の方があんたらの百倍怖い、と思ったけれど、『大丈夫』という態度を堅持することに決めた。
これは、子供を育てる時の、基本姿勢。
親が動揺すると、子供はもっと動揺するという、当たり前の原理や。
私が動揺すると、人形はもっと動揺する。
しばらくは平和だったけれど、ピシピシッというラップ音に続いて、周囲が揺れ始めた。
春樹、あんた、私が地震に一番弱いて、知っててやってんな、と思ったけれど、息子は、瞑想態勢に入ったままだ。
揺れている。家中が揺れている。
『春子ちゃん』
『春子ちゃん、怖い』
ほんまにもう。
私が一番怖いって。
それなのに、人形達に、『大丈夫』と言い続ける自分も怖い。
パシーン、周囲が光に包まれた。
謎の発光現象だ。
グラグラグラッと、家が揺れている。
ズゴーン、という爆発音。
硫黄の匂い。
そりゃあ、あんた、こんな家、誰にも売れません。
ピカッ、ピカッと、閃光。
ガラガラガラッという、雷の音まで聞こえてくる。
ま、電気がつかんのは当たり前かも。
こういうところで、無駄に電力を使ってるんやから。
『春子ちゃん!』
『大丈夫、もう、私にまかせとき!』
とつい見えを切ってしまう私が嫌い。
シャーという音がしたから見たけど、懐中電灯の光の中、水道が噴水みたいに上がっていた。
そら、水道も止まる。
しかし、最終的に、地震の揺れに加えて、ズゴゴーン、ズゴゴーン、と大砲のような音が聞こえてきた時には、『大丈夫よ』と言いながら、思わず、手近な人形を抱き締めていた。
怖いよー。
本当に、怖いよー。
助けて、もう、誰でもいいから、助けて。
「春子ちゃん!」
爺さんだった。
どこかで来てくれると思っていた。
「春子ちゃん、あ、ごめんなさい、明子さん」
範子ちゃんも、来てくれると、どこかで思っていた。
「何があったんですか」
ああ、もと春行、実は範子ちゃんのお兄さんの隆さん。
来るとは思ったけど、来て欲しいとは思わなかった。
「坂口さん、大丈夫ですか」という顔でか男の声。
まあ、これで、役者は全部、揃ったわけやった。
32 対決
「春行、何やってんねん」と軽い口調で、範子さんの兄であるゲッゲの隆さんが言った。
「道を整えている」と息子は、黙想しながら答えた。
ハハハハハ、と隆さんは笑った。
「転生しても、相変わらずやな」
ま、ほんまに、イヤーなヤツ。
若くてハンサムに見えるだけに腹が立つ。
「お前になんか、何の力もなかったやないか。
全部、春子の力やったやないか」
え? 全部、春子ちゃんの力?
「過去生で得られなかった力を、オレは今世で獲得する」と息子は言った。
言うてやれ、もっと言うてやれ、テレパシーやらチャネリング、サイコキネシスやら、もう何でもいいから言うてやれ、と母は思った。
「結局、何回生まれ替わっても、お前なんか、春子の力がなかったら、無力や」
ズゴゴゴーン、という音がして、バッバッバッと硝煙が周囲に満ちた。
あ、あかん、と私は、わけがわからないまま、思った。
息子が、道を整えることに失敗したことだけはわかった。
息子は、無防備なまま、広い部屋の中央に座り、ガックリと肩を落としていた。
「もう帰ろうか」とゲゲゲのいやなヤツは言った。
「帰ってくれ」と息子も言った。
「これ以上、近所迷惑な音を立てるのは、やめといてや」
その瞬間、何かがピカッと光った。
「何や?」とイヤなヤツは、目を手で覆った。
美形人形の目が異様に光っていた。
その周囲に、人形達が、次々と起き上がっていた。
「またか、またお前がやってんのか」と男は、私をにらんだ。
「そうや」と嘘をついてやった。
息子のカタキや。
「それに、私は春子ちゃんではなく、華さんの生まれ替わりよ」といやがらせもしてやった。
フッフッフ。
どうや、ざまあみろ。
「嘘をつけ、この不細工な中年女が」
ガーン。
返り討ちに会ってしまった……
『春子ちゃん、綺麗』
『春子ちゃん、可愛い』と言いながら、人形達もバタバタと倒れていった。
慰め切れずに、エネルギーを消耗してしまったようだ。
親子共々、討ち死に。
「お兄ちゃん、私の友達に失礼なこと、言わんとって」と範子さんが言った。
「ほんまですよ。何ぼ何でも失礼ですよ」と顔でか男も言った。
夫婦で私の傷を広げてくれるわけね。
それに、あんた達、全然怖がってない……
私と違って、こういう騒ぎに慣れているわけね……
「春子……明子さん、ここに泊まるんやったら、お布団持ってきます。ね、あなた、構わないでしょう?
きっと、この家も喜ぶわ。華さんも」
「華さんも?」と私と息子は同時に尋ねた。
「華さんの遺言だったんです。
『春子ちゃんが戻ってくるまで、家は残しておいて』というのが。
華さんは、春子ちゃんを可愛がっていたから」
幻覚の中での華さんの優しい手を思い出した。
「ふん、あほらしい」とイヤな男は言った。
が、あえて、反対はしなかった。
「わしも泊まる」と爺さんが言い、
「何、アホなことを」
「邪魔になるだけ」
「早く帰って寝なさい」と散々に反対されていた。
「いいよ、お祖父ちゃん、一緒に寝よう」と息子が言った。
わーい、わーい、と不穏な雰囲気の中、爺さんだけは関係ないみたいにはしゃいでいた。
パタパタパタパタと子供のような足音を立てている。
いや、違う。
爺さんの足音ではない。
爺さんの足音に混じって、子供の足音が聞こえる。
パタパタパタパタ。
周囲に冷気が漂い始め、人形達が、ざわめいていた。
『可愛い方の春子ちゃんだ』
あ、こいつら、可愛くない、と私は思った。
息子は体力を消耗したのか、うつらうつらし始めている。
「寒いわ」と範子さんは、しゃがみこんで両手で自分を抱きかかえ、顔でか男が範子さんを守るかのように、肩を抱いている。
爺さんは、はしゃぎ疲れたのか、部屋の隅に座って、ぼんやりしている。
立っているのは、私と厭味男・隆だけだった。
「華さんは、いつ死んだの?」と私は尋ねた。
「お前に答える必要はない」
「何で死んだの?
病気?
事故?
自殺?」
「黙れ」
何かで殴られたような衝撃を左の頬と右膝に感じた。
「春子ちゃんは、どこに行ったの?」
「オレが知るか」
顔に座蒲団が飛んできた。
いわゆる、エスパーというやつか。
子供の足音がかすかに聞こえている。
「聞こえる?」と私は、尋ねた。
「何が?」
「子供の足音よ」
「何をふざけたことを」
背中に一撃を受けて、私はよろめいた。
「隆兄ちゃん、やめて」と息子が言った。
男は、ギクッとして、息子の方を向いた。
「春行か。
お前は、絶対に、オレには勝てない。
華さんも春子も、オレのもんや。
親父も……」
人形が、一体また一体と起き上がり始めていた。
美形人形の目が怪しく光っている。
「気味の悪い人形共め」
何らかの力が加わったのか、美形人形が突然倒れた。
まだ起きる途中だった人形達は、一斉に立ち上がり、息子の周りを取り囲んだ。
美形人形が、ゆっくりと起き上がった。
パタパタいう足音が、息子の周りを回り始めた。
「子供だましはやめろ、春行」
エネルギーが、隆の周囲に集まってきているのがわかった。
春行と人形達に攻撃するつもりだ。
隆の身体全体が白いオーラで包まれているのが見えた。
ゴオオオ、とオーラは暗い家の中で、白い炎のように蠢いていた。
やめさせないと、春行が殺される。
『春子ちゃん』
『春子ちゃん』と人形達が呼んでいる。
人形達も、自分の周囲にエネルギーを集結させているようだった。
全ての人形の目が光っている。
あっ、と思った瞬間に、人形達は、紙飛行機みたいに隆に向かって飛んだ。
『神風突攻隊』ということばが頭に浮かんだ。
人形達は、隆に触れることなく、その寸前で何か壁にぶつかったかのように、バタバタと下に落ちて、動かなくなった。
人形達が……息子を守って……春行を守って……
その瞬間、私は、何らかの思念の波の中にいた。
身体は一瞬のうちに、隆と息子の間に移動していた。
今正に、隆から殺意のこもったエネルギーの波が、息子に向けて発射されたところだった。
エネルギー波は、渦巻き状に旋回しながら、押し寄せてくる。
それが、スローモーションのように見えた。
「やめてー!」と私ではない誰かが叫んだ。
私は、頭を低くして、両手のてのひらを隆に向けて、エネルギー波を感じた瞬間、それを来た方向に押し戻した。
ドーン、という衝撃がして、隆は襖を突き破り、玄関先にまで吹っ飛んだ。
私は、ハアハア、と肩で息をしていた。
しばらくすると、隆は、また戻ってきた。
足下がふらついている。
「腕を上げたな、春子」と隆が言った。
こいつ、まだやる気か、と身構えたが、そのつもりはないようだった。
33 真相は
隆が近づいてきたので、私はジリジリと後ろに下がったが、どうやら、攻撃するつもりはないようだ。
「春子」と隆は、私に抱きついた。
おいおい、何をするんや! と突き飛ばそうとすると、隆が泣いているのがわかったので、何となくそのままの態勢で泣かせるしかなかった。
「お前がほんまに死んでしまうとは、思わなかったんや」
「あんたが、殺したんか」
やっぱり。
「春子は、春行とは違って、才能があった。
才能というより、生まれつきの力やろう。
オレは、一生懸命に努力して、修行して、力を獲得していったが、春子は、オレの言うことを、そのまま実行できた。
オレは、春子に教えるのが、面白くて仕方がなかった」
隆と範子の母親、春行と春子の母親、華さんは、三人姉妹だった。
父親達は入り婿同士で、親友になる。
範子や春子の生まれた時には、姉妹の両親も、そのまた母親も健在で、今では考えられないほどの大家族だったようだ。
隆達にとって、ひいお祖母さんが亡くなった時、二つの棟に別れていた家に、自然に住み分けが行われ、広い方に姉妹の両親と、春行と春子の両親、伯母にあたる華さんが住み、狭い方に、隆と範子の両親が住むようになった。
春行達の母親が、春子を産んでから、体調がすぐれない、という理由もあったようだ。
春子が五才の時に、母親が死亡し、自然に、華さんが春行と春子の母親代わりになった。
二人の父親は、華さんとの再婚を望んだが、果たせず、亡き妻の両親ともうまくいかず、不況下の失業で自暴自棄となり、酒に溺れるようになった。
入り婿の悲劇だ。
春行と春子は、自然、酒乱の父親から逃げて、隣の爺さん宅で過ごすことが多くなっていった。
春子が七才の時に、春行が死亡した。
元々身体が弱く、隆の修行のせいもあってか、衰弱死した模様。
それから、数ヵ月後、春子が失踪。
春子の父親の蒸発と時期が重なっていたので、父親が春子を連れて出た、と警察では判断された。
翌年、隆と範子の母が死亡。
二人の父、つまり爺さんは、華さんとの再婚を望むが、これも果たせず、以前からの神経衰弱が悪化する。
数年後、華さん達姉妹の両親が交通事故死する。
華さんが、広大な敷地の相続者となる。
今から二十年前、華さんが病死。
『春子ちゃんが帰ってきた時のために』という遺言を残して、敷地は、すべて、隆と範子のものになる。
そして、今年。
私が留守番役で、この家に来て、全てが終わる。
34 その後
私は、1ヵ月分の給料とボーナスを獲得して、また、失業した。
修行中に死んで、四十年以上地下に埋められていた、と隆さんが思い込んでいた、春子ちゃんの遺骨は結局、どこからも発見されなかった。
人形達は、お寺で供養された後、焼かれてしまった。
息子の頼みで、あの美形人形だけは、ガラスケースに入れて、我が家の玄関に飾られている。
何となく、ますます美形になったような気がするのは、一部春子ちゃんの欲目か。
「お母さん、行ってくるわ」と息子は毎日、あの家に出掛けて行く。
母親としては、複雑な気分だ。
範子さんのお兄さんの隆さんは、新たな弟子を得て、張り切っているらしい。
「あなたも是非。絶対に才能がある」と隆さんに言われたが、断った。
私には、あんまり興味のない世界。
「明子さーん」と範子さんが、ビール持参でやってくる。
爺さんは、付録でついてくる。
昼間から宴会だ。
「明子さんと春行さんが、あそこに住んでくれれば、一番いいのに」と範子さんは、あれ以来ずっと、私を口説き続けている。
範子さんにとって、息子は永遠に『春行さん』だ。
「だって、もう、水道もガスも出るし、電気だって大丈夫だし」
「春子ちゃん、あの家に帰って来てや」と爺さんも思い出したように、私を口説く。
時々、グラグラと心が動く。
失業中の身だから、なおさらだ。
我が家とは言っても、借家には違いなく、毎月の家賃もバカにならない。
「家を維持管理してもらうということで、管理費を支払わせてください」という、顔でか男、失礼、範子さんの旦那さんの一言が決め手となった。
ある晴れた日曜日、私と息子は、引っ越しトラックに乗って、あの家に向かっていた。
運転しているのは、隆さんだ。
「来た、来た、春子ちゃん」と爺さんが歓声をあげている。
「明子さん、よく来たわ」と範子さんもはしゃいでいる。
「今後共、よろしく」と言ったのは、顔でか男、もとい、範子さんの旦那さんだ。
家が、呼吸を始めているのがわかった。
一体、いつから息を止めていたのだろう。
わずかばかりの家具を配置すると、家は蘇った。
『お帰り、春子ちゃん』
パタパタパタという足音は、いつしか自分の息子の思い出と重なっていく。
その息子も、随分大きくなったものだ。
「お母さん、ほら」と息子は、皆の前で、電灯をつけたり消したり、座蒲団を移動させて見せた。
わあ、という歓声と、パチパチパチという拍手。
ついで、イヤーな男返上の、相変わらずのハンサム、隆さんが芸というか、技を披露……
うーん、こういう環境からは、逃れられない運命らしい。
皆が帰り、辺りが静まり返った深夜、私は、眠れずに目を開けていた。
息子が寝ているのは、玄関近くの六畳間、私は、やはりやはりの慣れた奥の六畳の部屋で休んでいた。
午前3時を過ぎた頃、ズズ、ズズ、と足を引きずる音が聞こえてきた。
最終的に、こういうことになるのではないか、と思っていた。
私の枕元に誰かが座っている。
『明子』
やっぱり、母だった。
『よかったね、私も一緒に暮らせる家が見つかって』
本当ね、お母さん、と思い、私の両方の目から、涙が流れてきた。
『今日は、一緒に寝ようか、お母さん』
了