知らない家5
25 顔でか男の正体
「やあ、いらっしゃい」と顔でか男が、姿を現したからだ。
な、何で、こんなところに、顔でか男が……
「あの、主人です」と範子さんが言った。
主、主人?
顔でか男が、範子さんの主人?
私は、ヘタヘタッと玄関先に座り込んだ。
「あれ、そんなに驚きましたか?」と顔男。
当たり前でしょ。
これで驚かない人間がいたら、神様に近いよ。
「僕は、これから仕事に行きますから、どうぞ、ごゆっくり」と顔でか男が、ニカッと笑った。
笑うこともできる人間だったのだ。
「行ってらっしゃい」と範子さんがカバンを持って見送っていた。
「ごめんなさいね、そんなにビックリしはるとは、思ってなかったものですから」
「私、てっきり、前一緒に来た方が、ご主人だとばっかり」
「ああ、あれは、兄です」
兄ということは、範子さんより年上か。
五十をとっくに越えている?
若い。
若すぎる。
「同じ敷地の中に住んでるんで」
「ご家族と?」とドキドキ。
「はい」ガックリ。
ま、どっちにしても、関係ないか。
範子さんの家は、同じ一戸建てでも建て替えをしたのだろう。
近代的な感じだ。
「もう、炬燵を出してるんですよ」
「あ、もうそんな時期ですか」
「朝晩、冷え込みますから。
それに、お祖父ちゃんがいてるし」
「はあ」
炬燵はありがたい。
「ゆっくりしてくださいね。
ビールでも出しましょうか」
「いや、ビールは、もう……」結構です、顔を見るのもイヤです、と思いながら、『二日酔いには、迎え酒』というフレーズが頭で踊る。
「じゃ、ほんの少しだけ」と口が勝手に答えていた。
「私も嫌いな方じゃないんで、友達が来たら、よく昼間っから飲むんです」
おお、アル中仲間よ、と急に範子さんに親近感を抱いてしまった。
「時々ね、想像するんですよ。
春子ちゃんが生きてたら、今頃一緒に飲んでたかもしれないなあ、て。
今日は、夢が叶ったみたいやわ」
「あの……春子ちゃんは、亡くなったんですか?」
「多分。だって、生きてたら、家に戻ってくるはずじゃないですか。
昔のままにしてあるんやから」
「あの家は、誰のものなんですか?」
私は、内心、ドキドキしていた。
ずっと疑問に思っていた答えがわかるかもしれない。
「兄と私が相続しました」
「いつ?」
「華さんが亡くなった後に。
何か身元調査みたい。
いや、もうやめましょう」
「そうですね」と答えながら、私は諦めないぞ。
「それより、乾杯しましょう。
おつまみぐらいしかないけど」
「そうですね」
酔わせて、口を割らせてやる。
「じゃ、春子ちゃんによく似た……」
「明子です」
「秋の子ですか?」
「それなら何か関係あってよかったですね。明るい子です」
「じゃ、明子さんに乾杯」
「乾杯」
カチャンとグラス同士が触れ合った。
ウッと喉元に吐き気が込み上げてくるのを抑え込み、ゴクリと一口飲んだ。
クー、昼間のビールは回る。
喉から食道を通過して、胃に染み渡る。
やっぱり『二日酔いには迎え酒』というのは、本当だった。
グラスが空になる頃には、気分がスッカリ爽快になっていた。
「ま、範子さん、ググッといきましょう、ググッと」とセッセとビールを注ぐ私。
「明子さんこそ、一息ですよ、一息」
しばらくして、相手がかなりの酒豪だということがわかった。
いい勝負だ。
「お強いですね」
「範子さんこそ」
何か変に愉快になって、顔でか男とのなれそめに笑い転げた。
「あの人って、顔が大きいでしょ?」
そう正面から言われると、どう答えたらいいものか、困惑する。
「あの大きな顔で毎日、あの家を売ってくれ、と頼みに来るんですよ」
何となく想像できる。
「買いたい客がいるから、売ってくれ。
兄は、頭から反対でしたけど、そんなに買いたい人がいるなら、私は、家を見せてもいい、と言ったんです」
「はあ」
「家を見せた、その日、彼が私の家に駆け込んできて、何を言ってるのかわからないんですけど、『出た、出た』と言うんです」
「出ましたか? と私は答えて、あんまり怖がっていて、気の毒やったんで、気つけにウイスキーをご馳走したんです。
そしたら、毎日のように、あの家に行っては、『出た、出た』と言うて、うちに駆け込んでくるようになって。
兄は怒ってましたけど、私は面白くて。
来てくれるのが、いつの間にか楽しみになってました。
それで、何か入り婿みたいな形で、結婚したんです」
「そうですか」
無表情な顔でか男の慌てふためく様を想像して、私は、ワハハ、ワハハと笑っていた。
「何が、出たんです?」
「……人形です」
「ああ、あの日本人形」
「あれは、春子ちゃんの人形で……」と言って、範子さんは、グイッとビールを飲んだ。
「全部、どこかが壊れていて……
処分したんですが……」
「戻ってくる?」
「そう。戻って来るんです。それと……」
「それと?」
「あの家では、電気製品が使えないんです。ガスもです」
「何でですか?」
「電気とガスと、それから配管とかも調べたんですけど、原因がわからない」
「でも、掃除機は使えますよね。水道も」
「家を綺麗にするものは、大丈夫みたいです。
もっとも、私は、あれ以来、一度も中に入ったことがなくて、全部、兄と主人から聞いたことですけど」
「あれ以来というのは?」
「……あの家は、呪われているんです。
兄のことはわかりませんけど、私は、実は、早く手放したかった。
でも……」
「もしかすると、春子ちゃんが戻って来るかもしれないと思って?」
「お祖父ちゃんは、ずっと呪文のように、そう言っていた。
春子ちゃんと春行は、絶対に戻ってくるって」
「でも、あの家に誰かが留守番に来る度に、戻ってきたと思ったわけでしょ?」
「そう、喜んで出掛けて行っては、毎回、ガックリして帰ってきてました。
『春子ちゃんやなかった』って」
それなのに、私の時は、春子ちゃんだと思い込んだ。
面影が似ていたから?
「明子さんは、お祖父ちゃんが選んだんです、履歴書の写真を見て」
私は赤面した。
年齢35才と偽った履歴書だ。
「すると、本当に春行さんが戻ってきた」と範子さんは、夢見る少女の表情を浮かべた。
「範子さんと春行さんは、恋人同士だったんですか?」
「まさか」と言いながら、範子さんは、ポッと顔を赤らめた。
「従兄妹同士で、小さい時から、家族同様に育ったんです。
ああ、暑い、炬燵の温度が高すぎる」
範子さん、可愛い、と私は思った。
「兄と春子ちゃんは、親同士が冗談みたいに、結婚させる約束をしていたみたいでしたが、私と春行さんとは、別に何も」
「範子さんの知らないところで、そういう話になってたかもしれませんよ」
「いや、そんな」とますます顔が赤くなった。
ビールのせいばかりではなかろう。
26 悪女? 華さん
「じゃあ、華さんというのは、春子ちゃんのお姉さんなんだ」と私は、カマをかけた。
「伯母さんですね」お母さんの妹か。
「お爺ちゃんが、よく華さんのことを言うんで、お姉さんやとばっかり」
「お祖父ちゃんは、アホなんですよ」
自分の父親にアホとは、これいかに。
「華さんて、美人やったんですか?」
これには、返事がなかった。
「男好きで、性悪な女です」
声に悪意がこもっている。
「誰とも結婚せず、最終的に、家を自分のものにしたんやから」
「はあ」どう切り込むべきか……
「まさか、全員を殺したりして」
ワハハハハ、と自分の詰まらない冗談で、一緒に笑おうとしたが、範子さんの表情で、笑いが頬で凍りついた。
「あ、すみません。詰まらないこと、言うて。すみません」
「そうかもしれません」と範子さんは言った。
「けど、誰にもわからないことです、今となっては」
ピンポーン、とドアチャイムが鳴った。
時計を見ると、5時5分。
息子だ。
範子さんは、私が考えるよりも、素早く、ビールの空き瓶を台所の下に隠し、コップを流しに運んでから、玄関に向かった。
さすが、手慣れている。
玄関の鏡で、ササッと髪を整えて、玄関を開けた。
春行用対策だな、と私は思った。
「お帰りなさい」
「母が、お世話かけました」と爺さんの手を引いた息子が、保護者のような口をきいている。
「上がって、お母さんと一緒に食事でもしていってください」と範子さんの口調は、懇願口調になっている。
何となく、顔でか男が可哀相なような気が。
「でも、それじゃあ……」と息子は私の顔を見た。
私は、周囲にわからないように、まばたきした。
まだ、調べは終わっていない。
「おことばに甘えて」と息子は、荷物を玄関に置いて、靴を脱いだ。
爺さんは? と見ると、また同じハンカチで、ブーと鼻をかんでいた。
「春子ちゃんと春行と一緒に、またごはんが食べられるやなんて……」
けど、爺さん、あんた忘れてるやろけど、一度、息子もいるところで、私の弁当を食べたくせに。
範子さんは、手早く何品か作ると、炬燵に並べた。
主婦の鑑だ。
「おビールでも出しましょうか、春行さん」
「少しだけいただきます」
「明子さんもいかが?」
「少しだけいただきます」ヘヘヘ。
「お母さん、飲み過ぎたら、アカンで」
「わかってますって」
もう飲み過ぎてるけど。
「春子ちゃん、今でも野菜が嫌いか?」と爺さんにとっては、あくまで、私は、『春子ちゃん』らしい。
さて、食事も一段落、どの辺りから攻めようか、と思っていると、息子が「お母さん、これ以上は、お邪魔やから失礼しよう」と言った。
おいおい。
「範子ちゃん、ご馳走さまでした。
お祖父ちゃん、また明日ね」
「おお、春行、もう帰るんか、泊まっていったらええのに」と爺さんは、息子の腕を離さない。
「そうですよ、明子さん、泊まっていけば?」
泊まるのは、少し困るかもしれない。
「また、今度、泊めてもらいますから。
家ですることもあるので」と息子が、キッパリ断っている。
偉い。
「ご馳走さまでした」
「お休みなさい」
息子は、この家の前まで、自転車を移動させていた。
「さよーならー」
「またねー」
そうして、この日は、このところになく珍しく平穏な一日だった。
嵐の前の静けさでなければいいが、と私は思った。
27 春子ちゃんの行方
家に帰って、お弁当箱を洗おうとした私は、ハテ? と思った。
残してしまった中身が綺麗に無くなっている。
「春行、じゃない、春樹」
私まで間違えてどうする。
「お弁当食べた?」
「お祖父ちゃんが食べてた」
「あ、そう」やっぱり。
けど、捨てたらゴミやけど、食べたら栄養。
よかった、よかった。
何となく息子に気を使いながら、家でも、ビールをシュパッと抜いた。
顔色を伺ったが、今日は、何も言わないようだ。
息子は、何やら、ゴチャゴチャとカバンに詰め込んだりしている。
「何してるの?」
「泊まる準備」と息子が言った。
「え! 範子さんとこに?」
「何アホなこと言うてんの。
あの家に決まってるやないか」
ホッ。範子さんのとこじゃないのか。
しかし。
「え! 何言うてんの。
5時には帰ってください、て言われてるねんよ」
「一旦帰ったらええやんか。
それでまた行ったらいい。
夜は来ないでください、とかは言われてないんやろ?」
ま、そういうたらそうやけど、どういう神経を持ってきたら、あの家に泊まるなんて考えが浮かぶのか、理解できない。
「春子のことが気になって仕方がない」と息子が言った。
「ああ、生きてるのか死んでるのかわからへんのでしょう」
「オレの方が先に死んでしまったから」
心臓がズキンとした。
春行が話しているのか。
「お母さん、心配せんでも、別に、春行の魂に全身乗っ取られるなんてことは、ないからね。
あの家に残っている春行の思念に時々同調できるだけやから」
また、私には理解できないことを言う。
「あんたは、ほんまに、春行さんの生まれ替わりなん?」
「多分、そうやと思う。
あの家も、人形も、範子ちゃんも、お祖父ちゃんも、みんな懐かしい気がする」
「そういう時、私は、あんたの何になってるの?」と怖いので知りたくないけど、やっぱり知りたいことを尋ねた。
これが、昨日のビール5本の理由の一つだ。
「春子ちゃん」
「え!」
「と答えると思ったやろけど、お母さんは、やっぱりお母さんのまま」
何となく、ビールが目から流れてきそうな気がした。
「けど、面白いな。
最初、お祖父ちゃんが、僕に心の中で話しかけてきて、僕は、それは、お母さんの死んだお祖父ちゃんやと思い込んでいた」
「爺ちゃんが、私の履歴書の写真を見て、採用を決めてしまったみたい」
「範子さんの話では、オレ、つまり春行が死に、春子ちゃんがいなくなってから、お祖父ちゃんは、挙動が変になったらしい。
『春子ちゃん、春子ちゃん』と気が狂ったみたいに、毎日毎日探して歩いたみたいや。
よっぽど可愛かったんやろ。
お母さんに会って、春子ちゃんが戻ってきたと思って、ほんまに嬉しかったんやと思うよ」
「そうか」
それで、あんなに喜んでいたのか。
「私、春子に名前変えようかな」
「オレは、春行か」
ここ何日かの間に、息子がたくましく成長したような気がする。
ま、それも、私の深酒の原因かもしれない。
守ってやらなければならなかった息子が、一人で判断して行動できるまでに成長する。
喜びたいが、反面、淋しくもあった。
親離れ、息子離れの時期が近づいているのだ。
「春行は、何で死んだん? 病気?」と私は、尋ねた。
「わからん」と息子は答える。
「いつ?」
「範子さんの話では、中学生になった頃。
けど、その頃の記憶がない」
「華さんは、性格が悪かった、て範子さんが言うてたけど」
「華さんは、物凄く綺麗やった。
それは、覚えている。
オレと、隆とで、一緒に風呂場をのぞいたこともある。
小学生の時やけどな」と言って、息子は、春行は? 赤くなった。
随分、複雑だな、と私は思った。
「範子さんは、あんたが好きで、春子ちゃんは、範子さんのお兄さんが好きで、お爺ちゃんは、華さんが好きで、あんたと隆も、華さんが好き」
「親父も、華さんが好きやった」と息子は、ポツンと言った。
え! と私は、内心、驚いていた。
華さんは、範子さんの言うように、正に魔性の女。
「けど、オレも、春行の思念が流れるようになって、時々、お母さんも、春子の生まれ替わりかもしれへん、と思うようになった」
「待ってよ。
春子ちゃんは、範子さんと同じ歳でしょ?」
「そうや」
「私も、同じ歳やってわかったん。
そやから、生まれ替わりというのは、あり得へんわ」
「オレは、時々、魂って、何やろか、と思う」
また難しい話か。困ったもんや。私には、ついていかれへん。
「色々な本を読むと、一人の人間の中には、複数の魂がいる可能性がある、いうことや。
こじつけになるかもしれへんけど、春子が死んでいたら、その瞬間、よく似た波長を持った魂に引き寄せられて、そこの住人になったかもしれへん」
「なるほど」と口では言ったけれど、実際には、全然わかっていなかった。
「ま、今日は、寝よか」というのが、私の本音だった。
28 イヤーな男
初日の大雨以来、毎日晴天が続いている。
晴れ女復活だ、と喜んでいたら、この日は、朝から雨が降っていた。
息子は、「お母さんが帰ってきたら、オレが出掛ける」つもりらしい。
とりあえず、息子は、寝だめをするようだ。
「前みたいに、途中で寝てしまったら、何にもならへんから」だそうだ。
小雨の中、二日連続で、一人淋しく自転車をこいだ。
門に着くと、顔でか男、訂正、範子さんの旦那さんが、この雨の中、傘を差して立っていた。
「ご苦労さん」と言われてしまった。
しかし、一体、何の用が……
「一つ言っておきたいと思いまして」と旦那さんは言った。
「本当のことを言えば、3日以上続いた人は、初めてですよ。
初日に逃げ出した人もいます」
「はあ」
「1ヵ月続いたら、ボーナス出しますよ」
「それは、どうも」自信がない。
「範子とお祖父ちゃんが明るくなって、それもお礼を言いたいことの一つです」
あんた、もっと奥さんの心配した方がいいよ、と私は、内心思った。
「では、私も仕事がありますので。
今日も、がんばってください」
「はあ……」できるだけ、がんばります。
雨の中でも窓を開け、掃除開始。
まあ、そろそろ来る頃やろな、とは思っていた。
部屋の気温が下がっていき、掃除機が突然動かなくなった。
ま、ええよ、別に、そんなに掃除がしたくてたまらんわけではないし。
毎日丁寧に掃除してるんやから、一日ぐらい別にいいよ。
拭き掃除に移り、畳を終了、水拭きしようと思ったら、水道の水が出ない。
ええよ、別に。
そんなに毎日拭かんでも、私は、ええよ。
あれ? 目の錯覚か、時々、視界に家具やら、人の姿が見えたりする。
目をパチパチすると、全部消える。
幻覚作戦か。
ま、今日は、掃除は無理やな、と諦める。
ピンポンピンポンパーン。
ありゃりゃ、今日は、爺さん、予定より早い。
時計を見たら、まだ10時だ。けど、することもないから、ちょうどいいかもしれない。
「はい」
「隣の佐藤です」
これは、最初、範子さんの夫の春行さんだと思った、実は、範子さんのお兄さんの隆さんの声。
「ちょっとお待ちください」
全然関係ない、と思いながら、心臓はトクトクする。
門に着く時には、バクバクドキドキしていた。
爺さんの手を引いてやって来たかと思ったら、一人きりだった。
「お邪魔かもしれませんが、ちょっと話があって来ました」
ドッキドキドキ。
これこれ、心臓よ、静まれ、静まれ。
「あ、どうぞ」ドキドキ。
あ、鍵をかけるのを忘れている。
けど、慌ててかけるのも恰好が悪い。
ま、いいか、と仕事なんて、スッカリ忘れている。
ど、ど、どこに通せばいい? と思案の末、一番広い部屋に通した。
だって、まさか、奥の六畳の部屋で、向かい合うわけにはいかない。
緊張と興奮で、何をしてしまうか、わからない。
奥の六畳から、セッセと座蒲団を運び、爺さん専用の湯飲みに、水筒のお茶を入れて、出した。
「あ、お構いなく」
「いえ、お茶ぐらいしかありませんが」と目茶、緊張している。
「これだけ続いた方は、初めてですね」と顔でか男、もとい、義弟と同じことを言っている。
「この家、怖くありませんか?」
どう答えようかと迷った結果、「全然」と虚勢を張る道を選んだ。
「そうですか」と沈黙が、支配する。
内心、緊迫の極致。
「息子さんは、春行の生まれ替わりだそうですね」
「さあ、どうでしょうか。
私は、そういうことは、全然……」
「何が、欲しいんですか」
「は?」
何のこっちゃいな。
「まさか、自分も、春子の生まれ替わりだなんて、言うつもりはないでしょうね。
頭の弱い父のことは、うまくたぶらかしたみたいやが」
あ、この男、目茶むかつく、と私は思った。
「言うときますけど、私は、仕事でこの家に寄せてもろてるんですよ」
「それならいいんですが。
いつでも、クビにできるんですよ」
あ、イヤーな男。
何で、こんなヤツのことを、ほんの少しでもカッコイイ、と思ったんやろ。
その時、部屋の温度が、下がってきているのがわかった。
バーン、と音がした。
きっと、台所の棚が一つ開いたに違いない。
「へえ、怖がらないんですね」と男は言った。
「僕と春行は、よくこういうことをして、遊んだんですよ」
コイツかい、ポルターガイストの張本人は。
息子の前世の春行もかい。
「うちも、よくこういうことが起こるから、慣れてるんです」とますます虚勢を張った。
「そうですか」
バーン、バーン、バーン。
棚が三つ開いたか、と私は思う。
何でか、本当に慣れてしまったのか、自分がしごく冷静なのが、却って、気になる。
バーン、バーン、バーン、と台所の一番上の棚も開いたのがわかった。
「何や、これは」と男が驚いている。
自分でやっといて、変なヤツ。
『春子ちゃん』と呼ぶ声がした。
これは、息子が可愛がっていた、あの美形人形だ、とわかった。
『春子ちゃん』と棚の上の人形の声も聞こえてきた。
「お前は、お前は、ほんまに、春子の生まれ替わりか」と男が言った。
「そうかも」と私は、自分でも驚くほど落ち着いて答えていた。
イヤーな男への復讐気分もある。
そして、春子ちゃんが、こんな男を好きやったわけがない、と思った。
この広い部屋の床の間にいる美形人形の目が光っている。
ドッカーン、という音がして、硝煙が周囲に立ち込め、また、私は、硫黄の匂いをかいだ。
「うわあああ」と男は、叫び声をあげた。
自分でやっといて、自分で驚くな、と私は思った。
あらら、人形達がやってくるような気がする。
「うわ、うわ、うわああ」という叫び声を残して、男は、開いている玄関と門から、転げるように逃げ出して行った。
何や、あれ、と私は、思った。
『もう大丈夫』と美形人形が言った。
台所に行く手前、この広い部屋の襖の前に、30体、正確に言えば、29体の人形が倒れていた。
「ありがとう」と私は、人形達に、お礼を言った。
あのイヤーなヤツを追い払ってくれて、ありがとう。
『春子ちゃんは、友達』と人形が言い、『ごめんね、私、本当は、明子ちゃんなの』と私は、心の中で謝っていた。
掃除機も使えず、水も出なくなったけれど、私は、律儀に空拭きだけはした。
その後は、ボウッとして、時間が過ぎるのを待っていた。
この日は、あのイヤーなヤツが来ただけで、爺さんも範子さんも来なかった。
来たら来たで大変だったけど、来なければ来ないで、淋しかった。
5時になるのを待って、家路についた。
どこかで、爺さんや範子さんの顔を見たい気持ちはあったけれど、息子が出発準備を整えて待っているかもしれないと思うと、一目散に家に戻った。
雨は、いつの間にか上がっていた。