知らない家4
20 人形は語る
息子は、人形ケースを持って、狭いマンション中を歩き回っている。
私は、ボウッとしたまま、それを眺めている。
我が家は、2DK、息子が寝起きしている六畳の仏壇の間と、母が元寝起きしていて、今は私がいる四畳半の和室。それと六畳のダイニング・キッチンだ。
「仏壇の隣は、いやか」と息子は、一人でブツブツ言っている。
「けど、とりあえず、ここにいてるか?」と仏壇の隣にスペースを作って、人形のケースを置いた。
そうしてちょうだい、私の目の届かないところに置いてちょうだい。
昨日、人形達の先頭に立って、ジリジリと近づいてきた、この人形の目が不気味に光っていたことを思い出して、ゾクッとした。
いい天気なので布団を干し、顔でか男が届けてくれた弁当箱と水筒を出して、朝食の食器と一緒に洗った。
ついでに洗濯もしてしまおう。
その間に、掃除大臣の息子が掃除機をかけている。
『春子ちゃん』と誰かが呼んだような気がした。
「あれ?」と息子が言った。
掃除機が止まったようだ。
ああ、もうイヤ、と私は思った。
気温が下がり始めている。
「お母さん、オレの部屋に来て」と息子が言った。
「話があるらしい」
私はイヤよ、もうイヤよ、と思いながら、息子について行った。
黒い仏壇の横に、ガラスケースに入った日本人形。
似合いすぎてて不気味だ。
「まあ、どうぞ」と息子はクッションを出してくれた。
息子自身は、畳んだ布団の上に座っている。
そのうち、居眠りを始めた。
ほんまに、小さい時からよく寝る子だ、と私は思った。
自分で呼んでおいて。
さ、こんなことしてられへん、と立ち上がりかけた時、「春子ちゃん」と息子が言った。
「もう、春樹、いい加減にしてよ」
「春子ちゃん、私、帰りたい。
あの家に帰りたい」と息子が言ったが、小さな子供のような口調だ。
どうやらふざけているのではないらしい。
考えないでおこう、考えないでおこう、と思ったけれど、人形が息子の口を借りて話しているらしい。
人形の方を見ると、昨日と同じように、目が光っていた。
「帰りたいって、自分では帰れないの?」と私は人形に尋ねた。
「私は、自分では動けない。
他の子達がいないと」
昨日の人形軍団の姿が、フラッシュバックのように脳裏に蘇る。
「他の子達も、私がいないと動けない」
「けど」と私は疑り深そうに、言った。
もう危険な目に会うのはごめんだ。
「連れて帰ってあげたら、また、私や息子を襲おうとするでしょう」
「私は春子ちゃんを襲わない。
他の子達も襲わない」
「それなら、昨日のあれは何なんよ!」と私は思い出して、怖いのと同時に腹も立った。
ピシッという音がして、息子の部屋の灰皿にヒビが入った。
「春子ちゃんが怒ったから、私達は動いた。
私達は、春子ちゃんを襲わない。
私達は、春子ちゃんに、怪我をさせない」
そう言われれば、人形軍団は私の方に近づいてきただけで、別に危害を加えたわけではなかった。
けど、怖すぎる。
「けど、一つ言うときますけど、私は、春子ちゃんとは違うからね」
「お爺ちゃんが、春子ちゃんと言った」
「お爺さんは、誰でも、春子ちゃんと言うんでしょ?」
「言わない。春子ちゃんのことしか、春子ちゃんと言わない」
困ったもんだ。
爺さんの人形版らしい。
「けど、息子のことは襲ったでしょ」
「春行も襲わない」
春樹なんだけど、思い込み人形に言っても仕方がないか。
「けど、床に倒れていた」
「春行は寝ていた」
「寝てた?」あの野郎。
人が、そのために、どれだけ怒り狂って、もう少しで爺さんを八つ裂きにするところだったというのに、寝てた?
「爆発は? あの爆発は何?」
「爆発は知らない」
「畳は? 畳が動いていた」
「畳は知らない」
「電話は、何で電話に出たらいけないの?」
「電話は知らない」
あ、そう。
人形は肝心なことは何も知らないわけね。
都合人形か。
「春子ちゃん、お家に帰りたい」
「お家に帰って、どうするの」
「春子ちゃんと遊びたい」
「私は、もうお人形遊びはしないのよ」
「春子ちゃんと遊びたい」
「爺ちゃんと遊べばいいでしょ」
「お爺ちゃんと春子ちゃんと春行と範子ちゃんと遊びたい」
範子ちゃん? 誰だっけ。
「範子ちゃんて、誰?」と私は尋ねた。
「春子ちゃんの友達」
だあ、わからん人形やな。
まあ、人形やから仕方がないか。
その時、「う、う、うん」と言って、息子が目を覚ました。
こういうのを、一体、何と呼ぶのだろう。
人形霊媒?
チャネ人形?
聞いたことがない。
「ま、これは、また、明日にでも、あの家に連れて帰ってやらな、仕方がないな」と息子が言った。
「私は、イヤやからね」
「お母さんが行きたくないんやったら、オレが一人で連れて帰るよ。
それから、バイト代も、全部オレ一人のもの」
そう言われると、何となく悔しい気がした。
人形は、私にも息子にも、危害を加えないと言っている。
爆発とか畳とか電話は気になるけれど、考えてみたら、何も実害はなかった。
怖かっただけだ。
実害と言えば、この家の方がひどい。
しかし、息子が、あの家に行き始めてから、この家でも実害は無くなった。
せいぜい、ドアが急に開いたり、ラップ音がするぐらいだ。
「わかった、私も行く」と私も行くことに決めた。
仕事、仕事。
給料、給料。
21 平穏な日
「これでいいか?」と息子が人形に聞いている。
翌日、息子は自転車の前かごに、私のスカーフで包んだ人形を入れて飛び出さないように紐をかけ、後ろに人形ケースをシッカリ縛りつけた。
「お母さん、ケースが落ちかけへんか、後ろで見張っててや」
ほんまに、人形に優しいこと。
人形に好かれて、えらいことになっても知らんからね、と私は思い、その想像で、しばらくゾッとしていた。
門に着いた時、爺さんを追い立てるようにして、角を曲がる爺さんの娘の後ろ姿が見えた。
爺さん、タッチアウト。
『範子ちゃん、友達』という声が蘇った。
そうか。あの女が、春子ちゃんの友達だった範子ちゃんか、と遅ればせながら悟った。
それに、爺さんも無事だったみたいで、よかった、よかった。
「お母さん、早く鍵、開けて」という息子の声で、我に返った。
「はい、はい」
息子は、まず人形を大事そうに抱えて、家に入ってから、ケースを運び込んで、一番広い部屋の床の間に人形を飾った。
きっと、人形が、ここがいいと言ったんだろう。
奥の六畳間の畳も元のままだし、他の人形達は、元の棚に収まっていた。
あの顔でか男が片づけたのだろうか。
何で、あのケースの人形だけ、私物として持ってきたんだろうか。
他の人形のことは、何と思ったのだろうか。
そもそも、ケースの人形や、他の人形が、上の棚に入っていることなんか、とっくの昔に知っていただろうに。
何で、何で、何で?
「お母さん、早く片づけよう」と息子に言われてしまった。
けど、どういう原理で人形は動くんだろうか。
何か動力が組み込んであるのだろうか。
それぞれの人形に相互にエネルギーを与え合う仕組みが施してあるんだろうか。
畳や床を拭きながらも、何で、何で? という疑問が、次々に浮かんできた。
息子は、家から新聞紙を持ってきて、それで窓を全部、綺麗にしていた。
私は、いつもの六畳間の畳を、拭きながら、隅から隅まで調べていたが、何も変化は見つからなかった。
何で、これが持ち上がったのだろうか。
単なる私の幻覚?
「この家も、かなり落ち着いたなあ」と弁当を食べながら、息子が言った。
「どういうこと?」
「最初は、何か、いてるだけで、めまいがするみたいな感じがした」
「私も、一番最初に来た時、地震が起こった。
最初、めまいかと思ったわ」
「へえ。何か過剰なエネルギーがあるんやなあ」
そういう話は、私にはついていけなかった。
ピンポンピンポンパーン、とインタフォンが鳴った。
「お祖父ちゃんや」と息子が、嬉しそうに言った。
「けど、家の人に、もう来ないように言うてくれ、て言われてんねんけど」
という私のことばを、息子は全然聞いてはおらず、走って行ってしまった。
私も仕方無く、息子の後を追った。
門の前では、「お祖父ちゃん」「春行、どこ行ってたんや」という感動の再会が展開されていた。
もう、私にはわからん。
視線を感じて、その方向を見ると、範子さんが、怖い顔をして立っていた。
いや、怖い顔をしているのではなかった。
必死で涙をこらえているようだった。
「春行さん……」と範子さんの視線の方向を見ると、何と、息子の姿が。
ああ……この人達は、揃って、妄想の世界の住人だったのか。
若年性痴呆症というやつか。
いや、中年性痴呆症かも……
春行さんは、あんたのご主人でしょうが。
「な、範子、春行やて、わしが言うたやろ?」と爺さんは、得意気だ。
う、う、う、と範子さんは、両手で顔を覆った。
「ほら、範子」と爺さんは、あのしわくちゃのハンカチを渡し、範子さんは、それに顔を埋めた。
あのう、そのハンカチ、全然洗濯していないんじゃ……と私は、他人事ながら心配していた。
「春行さん?」と範子さんは、涙を拭き終わると、息子に近づいて行った。
ちょっと待て、この妄想女、私の息子に手を出すな、と思って、私は、範子さんの前に立ちはだかった。
「お母さん、ちょっとどいて」と息子に言われて、私は愕然とした。
え? お母さん、ちょっとどいて?
え? 今なんと?
「範子さんですね」
「はい」と少女のような恥じらいを見せて、範子さんは答えた。
わあ、何なんや、この異常な世界は。
「範子ちゃん」
「春行さん」
私の大事な息子十八才と、中年のおばはんの範子さんは、母である私の目の前で、ヒシと抱き合った。
「春子ちゃん、怒ったらアカン、春子ちゃん」と爺さんに、肩をポンポンと叩かれて、慰められている始末だ。
怒る元気も起こりません。
「あんたは、春行が好きやったからなあ」
爺ちゃん、もうこれ以上言わんとって。
私、まともな神経でいてる自信がないから。
22 座って泣きたい
「私、仕事せな」と私は、かろうじて、自分を保つために言った。
息子と範子さんは、クスクス笑いながら、何か私には理解できない話をしている。
私は、ゲッソリと疲れていた。
「そうか、範子ちゃんは、結婚したんや」という息子の声が聞こえてきた。
そうよ、範子ちゃんは、あんたと同じ名前の男と結婚したんよ、春行さんと、と私は、心の中で突っ込んだ。
「へえ、子供も三人いてるんや」
「そやねん」と少女のような笑みを浮かべながら、範子ちゃんが答えていた。
「お祖父ちゃんは、僕が後で送っていくから、心配せんとき」と息子が言った。
「うん」と範子ちゃんが、答えている。
何て、可愛くて、素直。
私の息子は十八才、私の息子は十八才、と私は、心の中で、念仏のように唱えていた。
私の息子は、十八才。
はあ、しんど。
「春子、帰るぞ」と息子が言った。
は、春子お?
「春子ちゃん、帰るんやで」と爺さんも言った。
私は、座って泣きたい気分だった。
爺さんと範子さんだけでなく、息子までが変になってしまった。
ま、元々、息子は、多少変だったけど。
「じゃ、春行さん、また後で」と範子ちゃんが、言った。
「うん、後でな」
まるで、もう、恋人気分やないの。
ああ、むかつく。
何がむかつくのか、自分でもよくわからないだけに、余計むかつく。
「春子ちゃん、怒ったらアカン、怒ったら」と爺さんが言った。
「大丈夫、大丈夫」と私は、自分が腹を立てていた時に、手放しで泣いていた爺さんを思い出して、かろうじて、自分を保った。
その後、私が掃除機をかけ、拭き掃除をしている間、爺さんと息子は、何やかやと熱く語りながら、各部屋を回っていた。
私は、ただの掃除婦でございます。
ただただ、皆様が暮らしやすくなるように、朝から晩まで、お掃除をさせていただいている、ふつつか者でございます、と私は、一人でいじけていた。
「お母さん、お祖父ちゃんを送っていくわ」と息子が言った。
時計を見ると、4時半だった。
あ、そう、もう勝手にすれば、と私は、思っていた。
しかし、『春子』から『お母さん』に戻っていたのは、何となく嬉しかった。
私は、何となく、茫然としていた。
何が何だか、全然把握できていなかった。
この家の、奇妙な平和さも気になった。
何も起こらない。
ドッカーンどころか、パンもポンも何もなし。
息子は、中々戻って来ず、時計が5時を指した時、ジリリリリン、ジリリリリン、と電話のベルが鳴った。
『決して、電話には出ないでください』
今の私は、仕事の奴隷。
決して、『電話には、出んわ』と一人で虚しくダジャレを飛ばした。
どーせ、範子ちゃんと意気投合してるんやろ、アイツは、と私は思った。
『5時には帰ってください』と顔でか男には、言われている。
荷物を持って、鍵をかけないで、門から外に出ると、そこに息子が立っていた。
「お母さん、何で電話に出えへんの、オレ、ずっと電話してたのに」
あ、そう、範子ちゃんの家からね。
「『決して、電話には出ないでください』て、言われてんの」
「誰に? それやったら、何のために、電話がついてんの」
やかましい。
私が一番、それを知りたい。しかし。
「さあね、それが、仕事の約束やからね」と私は答えた。
「ああ、そうなんや」と息子も、深く追求してはこない。
「あと5分して外に出て来なかったら、家に突入するとこやった」
そのことばは嬉しかったけれど、この日一日、ずっと仲間外れだったことを、息子のその一言で、大変辛く思い出した。
23 酒
家に帰ってからも、何となく、息子とは、ぎこちない感じがしていた。
コイツは、息子であって、息子でない、という感じだ。
私は、十八年間コイツを育ててきて、コイツのことなら何でも知っている、とどこかで思っていた。
息子との十八年間が、走馬燈のように蘇った。
誕生前のトラブル。
誕生前後のトラブル。
幼稚園時代のトラブル。
小学校時代のトラブル。
中学生の時のトラブル。
離婚前後のトラブル。
一緒に暮らしてからのトラブル。
そして、現在のトラブル。
そう思って息子を見ていると、コイツは、私の人生にとっては、単なるトラブルメーカーに過ぎなかったんじゃないか、という想いが、心に迫ってきた。
「お母さんの考えていることは、わかるよ」と息子が、私の心を見透かしたように、言った。
多分、こういうところも、私がしんどい原因だと思う。
しかし、この日ほど、何で、私はこの子を育ててきたんだろう、という根源的な問いにぶち当たったことは、なかった。
私の方から言うことは、何もなかった。
息子が、過去に生きているなら、それはそれでよかった。
全然、私の出る幕ではない。
人形と話して、人形と結婚するのもいいし、お爺さんや範子さんと一緒の生活をするのも、いいと思った。
しかし、そうなってみると、私というのは、一体、何なんだろう。
ただの容器?
息子を育てるためだけに、存在した入れ物?
多分、私も、『春子ちゃん』になって、皆で幸せ、めでたしめでたしの人生を送るのも、もしかすると、いいことなのかもしれない。
けれど、残念なことに、私は、自分の今の人生の方が好きだった。
どれだけ悲惨で、どれだけ貧しくても、私は、今の私で満足だった。
だから、息子と話すことは、今は、何も無かった。
私達は、ダイニング・テーブルに向かい合って座っていて、目の前には、家に帰ってから、私が半ばヤケクソで揚げ続けた、鳥の唐揚げが、皿に山盛りになっていた。
私は、ガブガブとビールを立て続けに飲んでいた。
「お母さんの考えていることは、わかるよ」と再び、息子が言った。
「なーにが、わかるのん」と私は、自分が酔っていることを、かなり喜ばしく思っていた。
酔って、寝てしまう。
それが、一番。
何も聞きたくないし、見たくもない。
「オレは、お母さんには、苦労のかけ通しや」
ほんまにわかってたら、えーんやけどね、と私は、酔った頭で考えていた。
「けど、それは、お母さんが、オレに苦労をかけ通したせいやろ」
一瞬で、酔いが覚めた。
「毎日、酔っぱらってるお母さんを、オレはずっと大事にしてきたんや」
そやけど、それは……それは。
「親父のせいやと言いたいんやろけど、親父がいなかっても、お母さんは、酒を飲んだ。
お母さんは、酒を飲む理由が欲しかっただけや」
私は、新しいビール瓶を開けようとし、息子がその手を止めた。
「いつから、飲んでんのや」
「邪魔せんとってよ、これだけが、楽しみなんやから」
「邪魔は、せんよ」と息子が手を離したので、私は、ビールの栓を抜いた。
不快だった。
こんなことを、息子に言われるとは、思ってもみなかった。
「いつから、飲んでんのや」
「十八からよ」
そう言って、私は、コップにビールを注いで一息に飲んだけれど、思ったほどおいしくはなかった。
「いつ、小説、書いてんねん」と息子が尋ねた。
「私にそんな暇、ないやない。
あんたも養わなあかんし、お金貯めて、ワープロも買わなあかんし……」
そんなことを、言われたくは、なかった。
私の生涯の夢の部分には、誰にも踏み込まれたくなかった。
「お母さんは、オレの覚えている限り、毎日、酒を飲んどったけど、何で、飲んでてん。
毎日、酒を飲む、どんな理由があってん」
私は、追い詰められていた。
「親父が原因やと言いたいのはわかるけど、それやったら、何で親父と別れた後も、飲み続けてんねん」
「それは……」
「今は、オレが、いるせいやな。
そしたら、オレがいなくなったら、お前は、酒をやめるんか」
「多分、やめる」と言った自分の声は、弱々しかった。
自分では、多分、息子がいなくなった後でも、飲み続けることが、わかっているせいだろう。
私は、何で、毎日ビールを飲むのだろうか。
なぜ?
「オレが、面白い話をしてやろう」と息子は、まるで、私よりも年上の人間のように言った。
「オレは、春行の生まれ替わりや」
そんな話になるんではないか、と薄々は、感じていた。
もうどうでもいいわ、と思って、私は、グビグビッとビールを飲んだ。
24 二日酔い
起きた瞬間、頭が、グワラングワランと言っていた。
何で酒を飲むのかって、それは、飲みたいからに決まってるやろ、と私は、何だか知らないが、息子に向かって怒鳴っていた。
「オレは、春行の生まれ替わりや」
そういう夢を見たような気がしていた。
グワラグワラする頭で、時計を見ると、午前6時前だった。
まったく律儀なことでございます、と私は思った。
ピッと鳴りかけた目覚ましを、瞬時で止めた。
瞬殺、と思って、嬉しくなった。
ウキキキ、と声に出して笑った。
まだ脳にアルコールが残っているんだ、と少し冷静になって考えた。
前日飲んだビールの空き瓶を数えてみると5本あった。
一晩に5本……
それは、飲み過ぎでございます。
よく、6時前に起きられたものだ。
知らない間にパジャマに着替えているし。
弁当用も含めて、せっせとお握りを作ったが、7時を過ぎても、息子の起きてくる気配はない。
酔っぱらって、何かとんでもないことを言ったのではないか、と不安になった。
でも、とにかくお握りを一つ食べ、弁当のおかずをつまんだ。
昨日の唐揚げも当然弁当に詰めた。
いい気になって、大量に揚げ過ぎた。
ビールは一日2本まで、と決めていたのに、昨日は飲み過ぎた。
息子のせいだ、と私は思った。
息子がおかしな振る舞いをしたせいだ。
その上、私の飲酒のことを責めた。
今まで一度も、そんなことを言ったことがなかったのに。
何となく悲しくなり、息子を起こす元気もなく、息子の分の弁当をテーブルの上に置き、一人で自転車をこいで、職場(?)に向かった。
向かい風がやけに冷たく、心の中までも、ヒューヒューと吹き抜けているようだった。
ノロノロと掃除をすませると、12時前になっていた。
お弁当を食べようとしても、あまり食が進まず、特に唐揚げなんて、とても食べられない。
朝は、まだ前日のビールが残っていて元気だったのだ。
昼頃になってから、前日の飲酒がこたえてくるのが、中年以降の二日酔いの特徴だ。
若い頃みたいに吐いたりしない代わりに、ガクーン、と疲れが出てくる。
ちょうど12時半に、ピンポンピンポンパーン、とインタフォンが鳴ったが、私は、奥の部屋で、座蒲団三枚敷いて、横になっているところだった。
悪いけど、休ませてもらいます、の心境だ。
ビールは、絶対に2本まで。
どれだけ多くても3本まで。
午後の掃除は、悪いけど、パスしようと思った。
私だって、体調の悪い時はあります。
こういう仕事の唯一の特権、横になって休ませてもらいます。
ピンポンピンポンパーン。
しつこいな、早く帰ってよ、私は、今日は、いない日。
ピンポンピンポンパーン。
ピンポンピンポンパーン。
ピンポンピンポンパーン。
ええい、もう! と私は起き上がった。もう、いややわ。
「はい」
「わし」
「お爺ちゃん、今日は、忙しいから、また明日ね」と私は言った。
「お母さん、オレ」と息子の声もした。
もう、しゃーないなあ、と門を開けに行った。
この仕事、ほんまにやめようかな。
息子がしたいんなら、息子がしたらいいわ、と投げやりな気分になっていた。
門の前には、息子と爺さんと範子さんがいた。
あー、しんど。
「お母さん、オレとお祖父ちゃんで、午後の掃除やっとくから、範子さんと話してきたら?」と息子が言った。
何で、私がそんなことをせなあかんの、と思ったが、午後の掃除をやっとく、ということばに負けてしまった。
「うん」と力無くうなずくと、息子に鍵を渡した。
範子さんの家で、休ませてもらおう。
「お母さん、飲み過ぎやで」
「うん」
「範子さんとこで、休ませてもらい」
よくご存知で。
「うん」
「汚いとこですけど、ゆっくりしていってください」と昨日から可愛くなってしまった範子さんが言った。
「はい」
ほんま、人間て、一日で可愛くなったり若くなったりできるのね、と範子さんを見て、思った。
今日は、ワンピースなんか着て、化粧もしている。
弱り切って、範子さん宅にお邪魔した私は、目を剥いた。