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知らない家  作者: まきの・えり
4/6

知らない家4

 20 人形は語る

 息子は、人形ケースを持って、狭いマンション中を歩き回っている。

 私は、ボウッとしたまま、それを眺めている。

 我が家は、2DK、息子が寝起きしている六畳の仏壇の間と、母が元寝起きしていて、今は私がいる四畳半の和室。それと六畳のダイニング・キッチンだ。

「仏壇の隣は、いやか」と息子は、一人でブツブツ言っている。

「けど、とりあえず、ここにいてるか?」と仏壇の隣にスペースを作って、人形のケースを置いた。

 そうしてちょうだい、私の目の届かないところに置いてちょうだい。

 昨日、人形達の先頭に立って、ジリジリと近づいてきた、この人形の目が不気味に光っていたことを思い出して、ゾクッとした。

 いい天気なので布団を干し、顔でか男が届けてくれた弁当箱と水筒を出して、朝食の食器と一緒に洗った。

 ついでに洗濯もしてしまおう。

 その間に、掃除大臣の息子が掃除機をかけている。

『春子ちゃん』と誰かが呼んだような気がした。

「あれ?」と息子が言った。

 掃除機が止まったようだ。

 ああ、もうイヤ、と私は思った。 

 気温が下がり始めている。

「お母さん、オレの部屋に来て」と息子が言った。

「話があるらしい」

 私はイヤよ、もうイヤよ、と思いながら、息子について行った。

 黒い仏壇の横に、ガラスケースに入った日本人形。

 似合いすぎてて不気味だ。

「まあ、どうぞ」と息子はクッションを出してくれた。

 息子自身は、畳んだ布団の上に座っている。

 そのうち、居眠りを始めた。

 ほんまに、小さい時からよく寝る子だ、と私は思った。

 自分で呼んでおいて。

 さ、こんなことしてられへん、と立ち上がりかけた時、「春子ちゃん」と息子が言った。

「もう、春樹、いい加減にしてよ」

「春子ちゃん、私、帰りたい。

 あの家に帰りたい」と息子が言ったが、小さな子供のような口調だ。

 どうやらふざけているのではないらしい。

 考えないでおこう、考えないでおこう、と思ったけれど、人形が息子の口を借りて話しているらしい。

 人形の方を見ると、昨日と同じように、目が光っていた。

「帰りたいって、自分では帰れないの?」と私は人形に尋ねた。

「私は、自分では動けない。

 他の子達がいないと」

 昨日の人形軍団の姿が、フラッシュバックのように脳裏に蘇る。

「他の子達も、私がいないと動けない」

「けど」と私は疑り深そうに、言った。

 もう危険な目に会うのはごめんだ。

「連れて帰ってあげたら、また、私や息子を襲おうとするでしょう」

「私は春子ちゃんを襲わない。

 他の子達も襲わない」

「それなら、昨日のあれは何なんよ!」と私は思い出して、怖いのと同時に腹も立った。

 ピシッという音がして、息子の部屋の灰皿にヒビが入った。

「春子ちゃんが怒ったから、私達は動いた。

 私達は、春子ちゃんを襲わない。

 私達は、春子ちゃんに、怪我をさせない」

 そう言われれば、人形軍団は私の方に近づいてきただけで、別に危害を加えたわけではなかった。

 けど、怖すぎる。

「けど、一つ言うときますけど、私は、春子ちゃんとは違うからね」

「お爺ちゃんが、春子ちゃんと言った」

「お爺さんは、誰でも、春子ちゃんと言うんでしょ?」

「言わない。春子ちゃんのことしか、春子ちゃんと言わない」

 困ったもんだ。

 爺さんの人形版らしい。

「けど、息子のことは襲ったでしょ」

「春行も襲わない」

 春樹なんだけど、思い込み人形に言っても仕方がないか。

「けど、床に倒れていた」

「春行は寝ていた」

「寝てた?」あの野郎。

 人が、そのために、どれだけ怒り狂って、もう少しで爺さんを八つ裂きにするところだったというのに、寝てた?

「爆発は? あの爆発は何?」

「爆発は知らない」

「畳は? 畳が動いていた」

「畳は知らない」

「電話は、何で電話に出たらいけないの?」

「電話は知らない」

 あ、そう。

 人形は肝心なことは何も知らないわけね。

 都合人形か。

「春子ちゃん、お家に帰りたい」

「お家に帰って、どうするの」

「春子ちゃんと遊びたい」

「私は、もうお人形遊びはしないのよ」

「春子ちゃんと遊びたい」

「爺ちゃんと遊べばいいでしょ」

「お爺ちゃんと春子ちゃんと春行と範子ちゃんと遊びたい」

 範子ちゃん? 誰だっけ。

「範子ちゃんて、誰?」と私は尋ねた。

「春子ちゃんの友達」

 だあ、わからん人形やな。

 まあ、人形やから仕方がないか。

 その時、「う、う、うん」と言って、息子が目を覚ました。

 こういうのを、一体、何と呼ぶのだろう。

 人形霊媒?

 チャネ人形?

 聞いたことがない。

「ま、これは、また、明日にでも、あの家に連れて帰ってやらな、仕方がないな」と息子が言った。

「私は、イヤやからね」

「お母さんが行きたくないんやったら、オレが一人で連れて帰るよ。

 それから、バイト代も、全部オレ一人のもの」

 そう言われると、何となく悔しい気がした。

 人形は、私にも息子にも、危害を加えないと言っている。

 爆発とか畳とか電話は気になるけれど、考えてみたら、何も実害はなかった。

 怖かっただけだ。

 実害と言えば、この家の方がひどい。

 しかし、息子が、あの家に行き始めてから、この家でも実害は無くなった。

 せいぜい、ドアが急に開いたり、ラップ音がするぐらいだ。

「わかった、私も行く」と私も行くことに決めた。

 仕事、仕事。

 給料、給料。


 21 平穏な日

「これでいいか?」と息子が人形に聞いている。

 翌日、息子は自転車の前かごに、私のスカーフで包んだ人形を入れて飛び出さないように紐をかけ、後ろに人形ケースをシッカリ縛りつけた。

「お母さん、ケースが落ちかけへんか、後ろで見張っててや」

 ほんまに、人形に優しいこと。

 人形に好かれて、えらいことになっても知らんからね、と私は思い、その想像で、しばらくゾッとしていた。

 門に着いた時、爺さんを追い立てるようにして、角を曲がる爺さんの娘の後ろ姿が見えた。

 爺さん、タッチアウト。

『範子ちゃん、友達』という声が蘇った。

 そうか。あの女が、春子ちゃんの友達だった範子ちゃんか、と遅ればせながら悟った。

 それに、爺さんも無事だったみたいで、よかった、よかった。

「お母さん、早く鍵、開けて」という息子の声で、我に返った。

「はい、はい」

 息子は、まず人形を大事そうに抱えて、家に入ってから、ケースを運び込んで、一番広い部屋の床の間に人形を飾った。

 きっと、人形が、ここがいいと言ったんだろう。

 奥の六畳間の畳も元のままだし、他の人形達は、元の棚に収まっていた。

 あの顔でか男が片づけたのだろうか。

 何で、あのケースの人形だけ、私物として持ってきたんだろうか。

 他の人形のことは、何と思ったのだろうか。

 そもそも、ケースの人形や、他の人形が、上の棚に入っていることなんか、とっくの昔に知っていただろうに。

 何で、何で、何で?

「お母さん、早く片づけよう」と息子に言われてしまった。

 けど、どういう原理で人形は動くんだろうか。

 何か動力が組み込んであるのだろうか。

 それぞれの人形に相互にエネルギーを与え合う仕組みが施してあるんだろうか。

 畳や床を拭きながらも、何で、何で? という疑問が、次々に浮かんできた。

 息子は、家から新聞紙を持ってきて、それで窓を全部、綺麗にしていた。

 私は、いつもの六畳間の畳を、拭きながら、隅から隅まで調べていたが、何も変化は見つからなかった。

 何で、これが持ち上がったのだろうか。

 単なる私の幻覚?

「この家も、かなり落ち着いたなあ」と弁当を食べながら、息子が言った。

「どういうこと?」

「最初は、何か、いてるだけで、めまいがするみたいな感じがした」

「私も、一番最初に来た時、地震が起こった。

 最初、めまいかと思ったわ」

「へえ。何か過剰なエネルギーがあるんやなあ」

 そういう話は、私にはついていけなかった。

 ピンポンピンポンパーン、とインタフォンが鳴った。

「お祖父ちゃんや」と息子が、嬉しそうに言った。

「けど、家の人に、もう来ないように言うてくれ、て言われてんねんけど」

 という私のことばを、息子は全然聞いてはおらず、走って行ってしまった。

 私も仕方無く、息子の後を追った。

 門の前では、「お祖父ちゃん」「春行、どこ行ってたんや」という感動の再会が展開されていた。

 もう、私にはわからん。

 視線を感じて、その方向を見ると、範子さんが、怖い顔をして立っていた。

 いや、怖い顔をしているのではなかった。

 必死で涙をこらえているようだった。

「春行さん……」と範子さんの視線の方向を見ると、何と、息子の姿が。

 ああ……この人達は、揃って、妄想の世界の住人だったのか。

 若年性痴呆症というやつか。

 いや、中年性痴呆症かも……

 春行さんは、あんたのご主人でしょうが。

「な、範子、春行やて、わしが言うたやろ?」と爺さんは、得意気だ。

 う、う、う、と範子さんは、両手で顔を覆った。

「ほら、範子」と爺さんは、あのしわくちゃのハンカチを渡し、範子さんは、それに顔を埋めた。

 あのう、そのハンカチ、全然洗濯していないんじゃ……と私は、他人事ながら心配していた。

「春行さん?」と範子さんは、涙を拭き終わると、息子に近づいて行った。

 ちょっと待て、この妄想女、私の息子に手を出すな、と思って、私は、範子さんの前に立ちはだかった。

「お母さん、ちょっとどいて」と息子に言われて、私は愕然とした。

 え? お母さん、ちょっとどいて?

 え? 今なんと?

「範子さんですね」

「はい」と少女のような恥じらいを見せて、範子さんは答えた。

 わあ、何なんや、この異常な世界は。

「範子ちゃん」

「春行さん」

 私の大事な息子十八才と、中年のおばはんの範子さんは、母である私の目の前で、ヒシと抱き合った。

「春子ちゃん、怒ったらアカン、春子ちゃん」と爺さんに、肩をポンポンと叩かれて、慰められている始末だ。

 怒る元気も起こりません。

「あんたは、春行が好きやったからなあ」

 爺ちゃん、もうこれ以上言わんとって。

 私、まともな神経でいてる自信がないから。


 22 座って泣きたい

「私、仕事せな」と私は、かろうじて、自分を保つために言った。

 息子と範子さんは、クスクス笑いながら、何か私には理解できない話をしている。

 私は、ゲッソリと疲れていた。

「そうか、範子ちゃんは、結婚したんや」という息子の声が聞こえてきた。

 そうよ、範子ちゃんは、あんたと同じ名前の男と結婚したんよ、春行さんと、と私は、心の中で突っ込んだ。

「へえ、子供も三人いてるんや」

「そやねん」と少女のような笑みを浮かべながら、範子ちゃんが答えていた。

「お祖父ちゃんは、僕が後で送っていくから、心配せんとき」と息子が言った。

「うん」と範子ちゃんが、答えている。

 何て、可愛くて、素直。

 私の息子は十八才、私の息子は十八才、と私は、心の中で、念仏のように唱えていた。

 私の息子は、十八才。

 はあ、しんど。

「春子、帰るぞ」と息子が言った。

 は、春子お?

「春子ちゃん、帰るんやで」と爺さんも言った。

 私は、座って泣きたい気分だった。

 爺さんと範子さんだけでなく、息子までが変になってしまった。

 ま、元々、息子は、多少変だったけど。

「じゃ、春行さん、また後で」と範子ちゃんが、言った。

「うん、後でな」

 まるで、もう、恋人気分やないの。

 ああ、むかつく。

 何がむかつくのか、自分でもよくわからないだけに、余計むかつく。

「春子ちゃん、怒ったらアカン、怒ったら」と爺さんが言った。

「大丈夫、大丈夫」と私は、自分が腹を立てていた時に、手放しで泣いていた爺さんを思い出して、かろうじて、自分を保った。

 その後、私が掃除機をかけ、拭き掃除をしている間、爺さんと息子は、何やかやと熱く語りながら、各部屋を回っていた。

 私は、ただの掃除婦でございます。

 ただただ、皆様が暮らしやすくなるように、朝から晩まで、お掃除をさせていただいている、ふつつか者でございます、と私は、一人でいじけていた。

「お母さん、お祖父ちゃんを送っていくわ」と息子が言った。

 時計を見ると、4時半だった。

 あ、そう、もう勝手にすれば、と私は、思っていた。

 しかし、『春子』から『お母さん』に戻っていたのは、何となく嬉しかった。

 私は、何となく、茫然としていた。

 何が何だか、全然把握できていなかった。

 この家の、奇妙な平和さも気になった。

 何も起こらない。

 ドッカーンどころか、パンもポンも何もなし。

 息子は、中々戻って来ず、時計が5時を指した時、ジリリリリン、ジリリリリン、と電話のベルが鳴った。

『決して、電話には出ないでください』

 今の私は、仕事の奴隷。

 決して、『電話には、出んわ』と一人で虚しくダジャレを飛ばした。

 どーせ、範子ちゃんと意気投合してるんやろ、アイツは、と私は思った。

『5時には帰ってください』と顔でか男には、言われている。

 荷物を持って、鍵をかけないで、門から外に出ると、そこに息子が立っていた。

「お母さん、何で電話に出えへんの、オレ、ずっと電話してたのに」

 あ、そう、範子ちゃんの家からね。

「『決して、電話には出ないでください』て、言われてんの」

「誰に? それやったら、何のために、電話がついてんの」

 やかましい。

 私が一番、それを知りたい。しかし。

「さあね、それが、仕事の約束やからね」と私は答えた。

「ああ、そうなんや」と息子も、深く追求してはこない。

「あと5分して外に出て来なかったら、家に突入するとこやった」

 そのことばは嬉しかったけれど、この日一日、ずっと仲間外れだったことを、息子のその一言で、大変辛く思い出した。


 23 酒

 家に帰ってからも、何となく、息子とは、ぎこちない感じがしていた。

 コイツは、息子であって、息子でない、という感じだ。

 私は、十八年間コイツを育ててきて、コイツのことなら何でも知っている、とどこかで思っていた。

 息子との十八年間が、走馬燈のように蘇った。

 誕生前のトラブル。

 誕生前後のトラブル。

 幼稚園時代のトラブル。

 小学校時代のトラブル。

 中学生の時のトラブル。

 離婚前後のトラブル。

 一緒に暮らしてからのトラブル。

 そして、現在のトラブル。

 そう思って息子を見ていると、コイツは、私の人生にとっては、単なるトラブルメーカーに過ぎなかったんじゃないか、という想いが、心に迫ってきた。

「お母さんの考えていることは、わかるよ」と息子が、私の心を見透かしたように、言った。

 多分、こういうところも、私がしんどい原因だと思う。

 しかし、この日ほど、何で、私はこの子を育ててきたんだろう、という根源的な問いにぶち当たったことは、なかった。

 私の方から言うことは、何もなかった。

 息子が、過去に生きているなら、それはそれでよかった。

 全然、私の出る幕ではない。

 人形と話して、人形と結婚するのもいいし、お爺さんや範子さんと一緒の生活をするのも、いいと思った。

 しかし、そうなってみると、私というのは、一体、何なんだろう。

 ただの容器?

 息子を育てるためだけに、存在した入れ物?

 多分、私も、『春子ちゃん』になって、皆で幸せ、めでたしめでたしの人生を送るのも、もしかすると、いいことなのかもしれない。

 けれど、残念なことに、私は、自分の今の人生の方が好きだった。

 どれだけ悲惨で、どれだけ貧しくても、私は、今の私で満足だった。

 だから、息子と話すことは、今は、何も無かった。

 私達は、ダイニング・テーブルに向かい合って座っていて、目の前には、家に帰ってから、私が半ばヤケクソで揚げ続けた、鳥の唐揚げが、皿に山盛りになっていた。

 私は、ガブガブとビールを立て続けに飲んでいた。

「お母さんの考えていることは、わかるよ」と再び、息子が言った。

「なーにが、わかるのん」と私は、自分が酔っていることを、かなり喜ばしく思っていた。

 酔って、寝てしまう。

 それが、一番。

 何も聞きたくないし、見たくもない。

「オレは、お母さんには、苦労のかけ通しや」

 ほんまにわかってたら、えーんやけどね、と私は、酔った頭で考えていた。

「けど、それは、お母さんが、オレに苦労をかけ通したせいやろ」

 一瞬で、酔いが覚めた。

「毎日、酔っぱらってるお母さんを、オレはずっと大事にしてきたんや」

 そやけど、それは……それは。

「親父のせいやと言いたいんやろけど、親父がいなかっても、お母さんは、酒を飲んだ。

 お母さんは、酒を飲む理由が欲しかっただけや」

 私は、新しいビール瓶を開けようとし、息子がその手を止めた。

「いつから、飲んでんのや」

「邪魔せんとってよ、これだけが、楽しみなんやから」

「邪魔は、せんよ」と息子が手を離したので、私は、ビールの栓を抜いた。

 不快だった。

 こんなことを、息子に言われるとは、思ってもみなかった。

「いつから、飲んでんのや」

「十八からよ」

 そう言って、私は、コップにビールを注いで一息に飲んだけれど、思ったほどおいしくはなかった。

「いつ、小説、書いてんねん」と息子が尋ねた。

「私にそんな暇、ないやない。

 あんたも養わなあかんし、お金貯めて、ワープロも買わなあかんし……」

 そんなことを、言われたくは、なかった。

 私の生涯の夢の部分には、誰にも踏み込まれたくなかった。

「お母さんは、オレの覚えている限り、毎日、酒を飲んどったけど、何で、飲んでてん。

 毎日、酒を飲む、どんな理由があってん」

 私は、追い詰められていた。

「親父が原因やと言いたいのはわかるけど、それやったら、何で親父と別れた後も、飲み続けてんねん」

「それは……」

「今は、オレが、いるせいやな。

 そしたら、オレがいなくなったら、お前は、酒をやめるんか」

「多分、やめる」と言った自分の声は、弱々しかった。

 自分では、多分、息子がいなくなった後でも、飲み続けることが、わかっているせいだろう。

 私は、何で、毎日ビールを飲むのだろうか。

 なぜ?

「オレが、面白い話をしてやろう」と息子は、まるで、私よりも年上の人間のように言った。

「オレは、春行の生まれ替わりや」

 そんな話になるんではないか、と薄々は、感じていた。

 もうどうでもいいわ、と思って、私は、グビグビッとビールを飲んだ。


 24 二日酔い

 起きた瞬間、頭が、グワラングワランと言っていた。

 何で酒を飲むのかって、それは、飲みたいからに決まってるやろ、と私は、何だか知らないが、息子に向かって怒鳴っていた。

「オレは、春行の生まれ替わりや」

 そういう夢を見たような気がしていた。

 グワラグワラする頭で、時計を見ると、午前6時前だった。

 まったく律儀なことでございます、と私は思った。

 ピッと鳴りかけた目覚ましを、瞬時で止めた。

 瞬殺、と思って、嬉しくなった。

 ウキキキ、と声に出して笑った。

 まだ脳にアルコールが残っているんだ、と少し冷静になって考えた。

 前日飲んだビールの空き瓶を数えてみると5本あった。

 一晩に5本……

 それは、飲み過ぎでございます。

 よく、6時前に起きられたものだ。

 知らない間にパジャマに着替えているし。

 弁当用も含めて、せっせとお握りを作ったが、7時を過ぎても、息子の起きてくる気配はない。

 酔っぱらって、何かとんでもないことを言ったのではないか、と不安になった。

 でも、とにかくお握りを一つ食べ、弁当のおかずをつまんだ。

 昨日の唐揚げも当然弁当に詰めた。

 いい気になって、大量に揚げ過ぎた。

 ビールは一日2本まで、と決めていたのに、昨日は飲み過ぎた。

 息子のせいだ、と私は思った。

 息子がおかしな振る舞いをしたせいだ。

 その上、私の飲酒のことを責めた。

 今まで一度も、そんなことを言ったことがなかったのに。

 何となく悲しくなり、息子を起こす元気もなく、息子の分の弁当をテーブルの上に置き、一人で自転車をこいで、職場(?)に向かった。

 向かい風がやけに冷たく、心の中までも、ヒューヒューと吹き抜けているようだった。

 ノロノロと掃除をすませると、12時前になっていた。

 お弁当を食べようとしても、あまり食が進まず、特に唐揚げなんて、とても食べられない。

 朝は、まだ前日のビールが残っていて元気だったのだ。

 昼頃になってから、前日の飲酒がこたえてくるのが、中年以降の二日酔いの特徴だ。

 若い頃みたいに吐いたりしない代わりに、ガクーン、と疲れが出てくる。

 ちょうど12時半に、ピンポンピンポンパーン、とインタフォンが鳴ったが、私は、奥の部屋で、座蒲団三枚敷いて、横になっているところだった。

 悪いけど、休ませてもらいます、の心境だ。

 ビールは、絶対に2本まで。

 どれだけ多くても3本まで。

 午後の掃除は、悪いけど、パスしようと思った。

 私だって、体調の悪い時はあります。

 こういう仕事の唯一の特権、横になって休ませてもらいます。

 ピンポンピンポンパーン。

 しつこいな、早く帰ってよ、私は、今日は、いない日。

 ピンポンピンポンパーン。

 ピンポンピンポンパーン。

 ピンポンピンポンパーン。

 ええい、もう! と私は起き上がった。もう、いややわ。

「はい」

「わし」

「お爺ちゃん、今日は、忙しいから、また明日ね」と私は言った。

「お母さん、オレ」と息子の声もした。

 もう、しゃーないなあ、と門を開けに行った。

 この仕事、ほんまにやめようかな。

 息子がしたいんなら、息子がしたらいいわ、と投げやりな気分になっていた。

 門の前には、息子と爺さんと範子さんがいた。

 あー、しんど。

「お母さん、オレとお祖父ちゃんで、午後の掃除やっとくから、範子さんと話してきたら?」と息子が言った。

 何で、私がそんなことをせなあかんの、と思ったが、午後の掃除をやっとく、ということばに負けてしまった。

「うん」と力無くうなずくと、息子に鍵を渡した。

 範子さんの家で、休ませてもらおう。

「お母さん、飲み過ぎやで」

「うん」

「範子さんとこで、休ませてもらい」

 よくご存知で。

「うん」

「汚いとこですけど、ゆっくりしていってください」と昨日から可愛くなってしまった範子さんが言った。

「はい」

 ほんま、人間て、一日で可愛くなったり若くなったりできるのね、と範子さんを見て、思った。

 今日は、ワンピースなんか着て、化粧もしている。

 弱り切って、範子さん宅にお邪魔した私は、目を剥いた。



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