知らない家3
15 怒ったらアカン
家の中に向かって走ろうとする私の視界に、顔を覆う春行さんの妻と、妻を宥める春行さんの姿が飛び込んでいたけれど、私には、家の中にいる自分の息子の方が心配だ。
私は、一直線に、息子と爺さんがいた台所に飛び込んだ。
家の中には、硝煙が立ち込めていた。
温泉場でよくかぐ、硫黄の匂いがする。
どこかが爆発したはずだと思ったが、どこにもその形跡はない。
台所では、人形を抱いて、放心している爺さんと、床に倒れている息子の姿が見えた。
「何なん、何があったん!」と私は、叫んだ。
「春子ちゃん……」と爺さんが言ったけれど、耳を素通りした。
「春樹! 春樹!」と私は、叫んでいた。
息子に駆け寄っても、息子は身体全体がグニャグニャしたままで、意識が無い。
「春樹! 春樹!」と私は、叫んだ。
「一体、何があったのよ!」と私は、息子を抱きながら、爺さんに怒鳴った。
「春子ちゃん、怒ったらアカン」と爺さんが呟いている。
「何が、あったんよ!」
爺さんが、また、ぼんやりとした世界に逃げそうな気がしたので、私は、息子を床に寝かせると、爺さんの方に歩み寄り、胸ぐらをつかんだ。
「何が、あったんよ!」
しかし、爺さんは、ボウッと視線を宙に浮かせたままだった。
心の奥底から、殺意に近い憤りの感情が起こってきた。
訳の分からない怒りだ。
そう。私は、今までの人生で、それほどまでの怒りを感じたことがなかった。
この爺い、息子に何かあったら、殺してやるから、そう思え、と私は思った。
「春子ちゃん、怒ったらアカン、春子ちゃん」と爺さんは、目から涙を流して、訴えていた。
突然、バーンという音がして、また自分の周囲に硫黄の匂いが垂れ込めた。
『範子ちゃん、友達』と誰かが言った。
「誰よ!」と私は、叫んだ。
バーン、バーン、バーン。
台所の扉が次々と開いたり閉じたりしていた。
ドッカーンという爆発音に続いて、ガラガラガラッという雷のような音も聞こえてきた。
怒りに我を忘れているせいか、全然、怖くはなかった。
どこか遠くから、ドーン、ドーン、という太鼓の音も、聞こえている。
急に、温度が下がったかと思うと、ズズ、ズズ、という音と共に、台所に面した部屋の畳が、一枚、また一枚と持ち上がり始めるのが、わかった。
「何なん、それ!」と私は、怒鳴った。
私の声に答えるかのように、台所の床にいた人形たちが、身体を持ち上げた。
その不具の身体を。
一番先頭にいるのが、爺さんが抱いていた、一番美形の人形だった。
爺さんの目から、涙がボロボロとこぼれ落ちている。
「怒ったらアカン、怒ったらアカン……」
ジリリリン、ジリリリン、と電話が鳴っていた。
ふん、何よ、何で電話がこんな時に鳴るのよ、と私は思った。
『決して、電話には出ないでください』
ふん、アホちゃうん。何のための電話や思うてんの。
私は、目の端に、ジリジリと自分に近づいてくる30体の日本人形の群れを見ながら、ゆっくりと電話に向かい、ブルブル震えている黒い電話の受話器を取った。
16 怖いけれど、安心な我が家
「もしもし」と私は、受話器に向かって、ゆっくりと言った。
電話に出てくるのは、あの顔のでかい男だと思っていたからだ。
「その家から、すぐに逃げろ」という声が耳を打った。
少なくとも、顔のでかい男の声ではない。
「え?」
「何でもいいから、すぐに逃げろ。何も考えずに逃げろ」
その瞬間、怒りがおさまり、私の意識は正常に戻った。
床に倒れたままの息子、手放しで泣いている爺さん、そして、私にじりじりと近づいている日本人形の群れが、急に、異常なものだと思えた。
「春樹! 春樹!」と私は、突然、恐怖にかられて叫んだ。
私は、電話を放り出して、息子に駆け寄ると、バンバンと背中を叩いた。
「ん?」と息子は起き上がった。
「春樹、家に帰る!」と私は叫んだ。
「ん」と息子は答え、起き上がった。
私は、まだ、意識のハッキリしていない息子の腕を掴んで、玄関から飛び出し、開け放したままの門を抜けて、置いてあった自転車に乗って、家に向かった。
自転車を駐輪場に入れてから、荷物を全部忘れてきたことに気がついた。
荷物はまあいいけれど、カバンの中には、財布と家の鍵も入っている。
ど、どうしよう、と思っている私の目の前で、息子は、ポケットから鍵を出すと、ガチャガチャとドアを開けた。
「春樹、あんた、鍵、ポケットに入れてたん?」
「当たり前やんか」
何で『当たり前』なんよ、と思ったけれど、今となっては、どうでもいいことだ。
むしろ、あり難いことだ。
「ああ、疲れた、オレ、寝るわ」と息子は、言った。
そして、そのことば通り、自分の部屋に入って、寝てしまった。
後に残されたのは、まだ、全身に恐怖感の残ったままの私だけだった。
身体のあちこちに、恐怖感が染みついている。
家中の、あちこちから、ピシピシパシパシというラップ音が聞こえている。
電灯は、これ見よがしに点滅し続けている。
「いい加減にしてよ!」と怒鳴る気力も残ってはいない。
でも、と私は、考えた。
ジリジリと自分に迫ってくる、不具の日本人形がいるわけでなし、不気味に震える黒電話があるわけじゃなし、ここは、何が起こっても安心な我が家。
「お休みなさい」と誰に言うともなく呟いて、パジャマに着替え、布団を敷いて寝た。
私の掛け布団を何かが引っ張ったり、ドンドコドンドコという太鼓のような音が聞こえていたけれど、うるさいな、と思いながら、私は、眠っていた。
眠りにつく寸前、クビだな、とほんの一瞬思った。
17 今日は日曜日
朝の目覚めは、快適だった。
鳥のチチチという鳴き声で目覚め、カーテンの隙間からもれている日の光は、上天気であることを告げている。
寝起きとしては、最高だ。
夢も見たのか見ていないのか、全然覚えていない。
時計を見れば、午前6時前だった。
ゆっくりと目覚ましのセットをオフにした。
条件反射的に出勤の準備を整えようと動き始める私にストップがかかった。
『やめておけ』
『他の仕事を探せ』という声が聞こえてくる。
改めて、ゆっくりと昨日の出来事が脳裏に浮かんできたが、夢のような感じで、全然現実感が伴っていない。
身体は、律儀に行く準備を整えようとしている。
頭と心は、やめておけ、と言っている。
『だって、忘れてきた荷物を取りに行かなくては』
バーンという音がして、息子の部屋のドアが開いた。
息子が起きてきたのか、と思ったが、そうではないようだった。
また、ポルターガイストか、と思った。
こういう状況に順応している自分が怖かった。
とにかく、空腹だった。
それで、目覚めたのかもしれない。
考えてみれば、昼食を爺さんに取られて以来、何も食べてはいない。
焼き肉・すき焼き・野菜炒め、と今ある材料でできる料理が一度に頭に浮かんだが、結局のところ、一番のお手軽路線に落ち着いた。
いり卵を作ってマヨネーズであえて、パンに挟んで食べた。
当然、副菜は我が家の糠漬だ。
ナス・キュウリ・大根に人参。これを食べると日々蘇る気がする。
正常な感覚が蘇ってきて、もうクビになってもいい、もう少し言えば、クビになりたい気分になってきた。
考えてみれば、たった三日のお勤めだったけれど、一年分ぐらいの精神的・肉体的エネルギーを浪費した気分があった。
よし、前に顔でか男が電話をかけてきた8時に、不動産会社に電話をかけて、仕事はもう辞めると伝えよう。
8時が早すぎて、電話が繋がらなかったら、9時にかける。
9時でも繋がらなかったら、もうそのまま勝手に辞める、と心に決めた。
そのとたん、冷気が襲ってきて、ピシピシパシパシという音が聞こえてきたけれど、
「やかましい!」と怒鳴ると静かになった。
ここ数日、満足に風呂にも入っていないことを思い出し、朝風呂に入ることにした。
湯船に湯をためて、今日はどこの温泉にしようかな、と入浴剤を選んでいると、心の奥底から、ふつふつと幸福感がこみ上げてくる。
何でもいいから、もっと安全確実に給料がもらえる仕事を探そう、と思う。
その時、名前は忘れたが気にいってつけた着メロの音楽が鳴りはじめた。
チャリラリラーン
電話だ。
こんな早朝に、時計を見れば、8時前に、非常識にも電話をかけてくるのは、絶対に、あの顔のでかい男だと思った。
「はい」
「言い忘れていましたが、日曜祝祭日は休んでください」
やっぱり、顔でか男だった。
「いえ、あの、私は……」と言う前に、電話は切れていた。
そうか。今日は日曜だったのか、と気がついた。
休みはなさそうだったので、曜日のことは意識していなかった。
また、意識する暇もなかった。
毎日掃除だけして、後は優雅な作家ざんまい、というイメージしかなかったのだから、無理もない。
そうだ、不動産屋は、日曜日も営業だ。
日曜こそ稼ぎ時。
そこで、会社に電話をかけると、延々と電話のベルが鳴りつづけるばかりだった。
全員営業に出てしまったのだろうか?
それとも、会社が始まる前に、顔でか男が、自宅から電話をかけてきた?
ま、そんなことは、この際、どうでもいい。
18 風呂場の怪
とにかく、堂々とした休みだとわかったんだから、ゆっくり朝風呂に入ろう。
登別温泉に決め、湯船の中で、ゆっくりと手足を伸ばした。
ああ、極楽、極楽。
ここ数日の出来事が嘘みたい。
その時、泣いている爺さんを置き去りにしたことを思い出し、チクチクと罪悪感が胸を刺した。
けど、爺さんの家は隣なんだし、家族も迎えに来ていたし、大丈夫、大丈夫、と自分を安心させる。
帰る時、あの夫婦は門のところにいなかった、でも、大丈夫、大丈夫。
湯船の中で手足を動かして、お湯をパチャパチャさせた。
子供みたいに。
パチャパチャパチャ
そのうち、変なことに気がついた。
手足の動きと、お湯の動きが合っていない。
手足の動きを止めても、お湯がパチャパチャはねている。
その上、湯船が前後に揺れている。
ポルターガイスト?
いや、そうではないらしい。
や、やめてよ、こんな時に地震やなんて。
大震災の時に、風呂場に閉じ込められて、裸で救出された女性の話が脳裏に浮かんだ。
慌てて風呂から上がろうとした瞬間に、パシッと電気が消えた。
やめてよ、こんな時に停電やなんて。
手探りでドアを探した。
古いマンションの風呂場は、電気が切れると真っ暗だ。
その時、こんな時に思い出さなくてもいいのに、脳裏に、自分の方に向かって、ジリジリと歩いてくる日本人形の群れが浮かんだ。
『春子ちゃん』と人形が呼ぶ声まで聞こえるような気がした。
ドアの把手を探している手にベタッとしたものが触れた。
きっと、人形が、人形の髪が……
ギャアアア!
という自分の声ではないような叫び声が出た。
身体の周囲に、人形がギッシリ詰まっていて、もう少しで私に触りそうな気がする。
もう少しで……
ワアアア! と叫んで、ドアをガンガン叩いた。
「お母さん、お母さん!」という声と、ガチャリという音が聞こえ、ドアが開いた。
明るい中で見ると、周囲には、人形など影も形も無く、片手にドライバーを持った息子の前に、素っ裸で立っている私だけがいた。
片手に濡れタオルをぶら下げて。
思わず、ドアの影に身を隠した。
冷静になってみれば、ああ、何という恥ずかしい姿。
「ちょっと、春樹、向こうに行っててよ」と手早く衣服を身につける。
「何やねん、何かあったんかと思って、慌てて起きてきたのに」
ブツブツ言っている息子に、心の中で謝っている。
あのまま閉じ込められていたら、恐怖とパニックで発狂してしまったかもしれなかった。
服を手早く着て正解だったのは、ピンポンピンポンとドアチャイムが鳴って、近所の人や管理人さんが何事かと思って、やってきたからだ。
「ちょっと大きい揺れやったから、何かあったんか思いましたわ」と管理人さん。
「すみません、すみません」と謝り通しだ。
「お風呂に入ってる最中に揺れて、電気が消えたもんですから」
「朝風呂ですか」という呆れた顔をして、集まってきた人達は帰って行った。
この話は、きっと、アッという間に、マンション中に広まるだろう。ああ、恥ずかしい話だ。
19 顔でか男 再登場
実は、私にとっては、第二回目の朝食だが、珍しく午前中に起きている息子と、豪華に好き焼きをした。
というか、早く食べないと折角の牛肉が腐っては大変だ、と思ったからだった。
卵無しの……好き焼きだ。
「何や、お母さん、食欲ないなあ」
「まあね」朝食二回目やしね。
「ま、昨日の今日やからなあ」
「う、うん」また……体重が増える……
「オレ、卵買ってこよか?」
「いや、また今度でいい」
「オレも、これ以上無理やわ。
後で、うどん買ってきて、入れたらええよ」
「そやね」
春樹、あんたは、ええ主婦になる、と私は思った。
ピンポーン、とドアチャイムが鳴った。
すみません、すみません、朝からお騒がせしました、と私は台詞を復唱しながら、玄関に出た。
わ!
ほんまに出た!
不動産屋の顔でか男や。
クビの宣言か……
自分で言うのは気持ちいいけど、誰かにクビと言われるかと思うと、気持ちのどこかでムカついた。
「突然で、すみません。昨日の忘れ物を届けに来ました」
見ると、私と息子が残してきたカバンが、顔でか男の手に握られている。
「それと、これ」
思わず、私の呼吸が止まった。
あの人形軍団の先頭に立っていた、美形人形が、ガラスケースの中ですました顔をしている。
「あ、あ、あ」とことばにならない。
「私物は、設置しないでください」
あ、あ、あ(それは、私のもんじゃない)、とことばにならない私に、私物と人形を押しつけて、顔でか男は帰って行った。
あ、あ、あ、私は、もうクビになりたい。
「やっぱり来たか」と息子が、玄関先まで出て来て言った。
あ、あ、あ、もうイヤ。
「ほんまに可愛い人形やな」と息子が言う。
あんたのそういう神経が、今の私は嫌い、と私は思う。
「美人やな」
フフフと息子が笑うと、何となく、ケースの中の人形も笑っているように見えるのが、
不気味だ。