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知らない家  作者: まきの・えり
2/6

知らない家2

 8 再び、爺さん、登場

 誰も住んでない家なんやから、こんなに毎日、しかも、午前中と午後の二回も掃除する必要なんてないはずだ、と思いながら、掃除機をかけ、拭き掃除をした。

 前日も思ったけれど、これは、かなりの重労働だ。

 ま、家具がない分掃除機はかけやすいけれど、家具のない分、拭き掃除は大変だ。

 10時には、すべての作業が完了した。

 やった。

 例の六畳の部屋で、お茶を飲んだ。

 隣のお爺さんのお蔭で、押し入れに座蒲団があることもわかったし。

 考えてみれば、主婦の日常と非常によく似ている。

 手早く家事をすませれば、後は自分の時間だ。

 本を読んでもいいし、テレビを見てもいい。

 もっとも、この家には、本もテレビもないけれど。

 きっと、インタフォンと電話は管理するのに必要だからつけてあるのだろう。

 この仕事も慣れてくれば、掃除なんか一日一回になり、または、二日に一回になり、本とか雑誌の私物を置きたくなり、時には泊まったり、友達を呼んで遊んだりしたくなるかもしれない。

 自分以外に誰もいないんだから、何とでもできるわけだ。

 電話だって、知り合いにかけまくるかもしれない。

 多分、と私は想像力を働かせていた。

 私の前にクビになった人達は、そういう誘惑にかられてしまったわけだろう。

 その他にも、別の仕事を見つけてやめていった人も多いはずだ。

 そう思った時、なぜ不動産会社は、この家を売らないのだろうか、という疑問に突き当たった。

 または、なぜ、近代的に改装して、ワンルーム・マンションかなんかにして、貸し出さないのだろうか。

 古い家だけれど、歴史的な価値があるようには思えない。

 広い家だけれど、昔の家は、大家族で、大抵こういった感じだったような気がする。

 ということは、ここは、誰かの持ち家なのだ。

 または、と私は思った。

 昔、殺人事件でもあって、犯人が何かを隠している。

 何か……

 恐らく死体を……

 わあ、と自分の想像に怖くなったとたん、ジリリリン、ジリリリン、と電話が鳴った。

 本当に、いつもタイミングのいいベルの音だ。

『決して電話には出ないでください』という注意を思い出した。

 いつか、反射的に出てしまうかもしれない。

 そうか、と私は思った。

 あの顔のでかい男が、不定期にかけているのかもしれない。

 ちゃんと言った通りのことをしているかを点検するために。

 電話に出る人間は、他のことも守っていない可能性が高い。

 そうだ、きっとそうだ、と私は、勝手に決めてしまった。

 それに、と私は付け加えた。

 出てはいけない電話が鳴ると、誰でもギクッとする。

 私の場合なんか、夢の中にまで出てくる始末だ。

 電話を意識することは、今の自分の仕事を意識することでもある。

 そうか。不動産会社というのは、賢いものなのだ。

 そうやって、自分を納得させてみたが、どこかスッキリしない気分も残っていた。

 こんなに毎日掃除しなくても、売る前とか住む前に、畳を全部入れ替えて、清掃会社を雇えばすむ話だ。

 きっと、と私の想像力は、果てし無く広がっていく。

 この家の持ち主が、息子のために最高の嫁を探している。

 これは、そのテストかもしれない。

 もしかすると、玉のこし……

 その時、ハッと自分の年齢を思い出した。

 それなら、もっと若くて、もっと美人の女性をテストすればいい。

 わざわざ、五十前の女を雇うこともないだろう。

 ガックリして、時計を見ると、もう12時前だった。

 長い妄想だったわけだ。

 明日から、原稿用紙かノートを持って来よう、と私は思った。

 そして、この家を舞台にして繰り広げられたかもしれない物語を書き出そう。

 昼休みに、弁当を食べ、お茶を飲んだ。

 淋しいお握り弁当だ。

 コロッケが半分とちくわ半個のてんぷらと桜漬けが入っている。

 家の糠漬が食べたかった。

 毎日通うなら、糠床を置いておきたい、お茶の準備もしておきたい。

 米も炊けたら、なお嬉しい、と思った。

 そろそろ来るんじゃないか、と思った12時半に、ピンポンピンポンパーンというイン

タフォンの音がした。

「はい」

「あのう……隣の佐藤ですが」

 爺さんではなく、娘の方だった。

 門まで行くと、娘に手を引かれた爺さんがいた。

 どうやら、泣いていたらしい。

 目と鼻が真っ赤になっていた。

「ご迷惑やと思うんですが、どう言うても聞きませんので、30分で迎えに来ますから、置いてやってもらえませんでしょうか」

 これ以上丁寧な口のききかたはない、と満点をあげられるほどの丁寧さだ。

「30分ならいいですよ」と私も言った。

 30分なら。

「おおきに、ありがとございます。

 あの、これは、3時のおやつにでも」

 見ると、袋には何か果物が入っている様子。

『隣の人から物をもらってはいけません』も『隣のお爺さんを家に入れてはいけません』もなかったしな、と私は内心思った。

「じゃ、30分だけ」と顔は勝手にニコニコしてしまった。

 息子のおやつができた、と喜んでいる。

 爺さんは、まだ、時々ヒックヒックと泣いていた後遺症が残っている。

 年を取ると、子供に戻るというのは、本当の話のようだ。

「30分だけよ。

 娘さんが迎えに来るまでよ」と言うと、小さな子供のようにうなずいて、手に持っていた昨日と同じハンカチで、ブーと鼻をかんだ。

 他に何もないので、弁当を食べた同じ部屋に連れて行って、水筒の蓋にお茶を入れて、出した。

「春子ちゃんが帰ってきたみたいで、嬉しかった?」と聞いたけれど、何の反応もない。

「春子ちゃんって、爺ちゃんの友達?」

 反応がない。

 私は、無言で下を向いている爺さんに、ちょっと困っていた。

 時計を見ても、さっきから5分も経っていない。

 こういう時は、全然時間が経たないのだ。

 

 9 戸棚の中には

 突然、爺さんはフラッと立ち上がって、台所方面に向かった。

 もしかすると、トイレか。まさか、失禁爺さんじゃないだろうな、と思ったけれど、台所で動きは止まった。

 今度は、台所の戸棚の扉を、最後には、流しの上に立って、片っ端から開け始めた。

 あ、あ、お爺さん、そんなことしちゃいけない、と思いながら、自分ではここまで堂々と開けられないな、と思って黙認した。

 大抵の棚は空っぽだったが、いくつかの棚は、ギッシリ満員だった。

 私は、茫然として見ていた。

 冷蔵庫のある棚は、台所の一番左の端にあった。

 昨日は確かにあったのに、冷蔵庫は姿を消していた。

 きっと、顔でか男が運び出したのだ。

 そして、まだ開けていなかった扉の中、特に、最上段の棚には、ぎっしりと人形が詰まっていた。

「あんたの人形やで、春子ちゃん」と爺さんが言った。

「華さんの人形やったけど、今はあんたのもんや」

 今ではお雛様でしかお目にかかれない日本人形が、ぎっしり並んでいる様は、壮観だった。

 一体はガラスのケースに入っており、他のものは、そのままだ。

 壮観というよりも、何となく、怖い。

 冷蔵庫まで運び去る不動産会社が、何でこんなものを残したままでいるのか、理解に苦しむ話だった。

 まさか、国宝級の人形でもあるまいに。

「春子ちゃん、人形さんで遊ぶのが、好きやったなあ」

 爺さん、あんたの方が人形より怖いわ、と私は思った。

「この家、お爺ちゃんの家なん?」と突然浮かんだ疑問をぶつけてみたが、思った通り、何の反応もない。

 ピンポンピンポンパーン、と間の抜けた感じでインタフォンが鳴った。

 ああ、そうか、娘さんが迎えに来たのか、と思った。

「はい」

「隣の佐藤ですが」と今度は、男の声だ。

「お爺ちゃん、息子さんもいてるの?」

「春行や」こういう話題には、反応がある。

「もう帰らな、あかんね」と言ったとたん、帰って欲しくないとも思った。

 何となく、あの人形達と一緒に残されるのは、怖かった。

「うん」と爺さんは、素直な子供のように、立ち上がった。

「また、明日も来るわ、春子ちゃん」

「うん、明日も来てね」と私も子供のように答えていた。


 10 春子ちゃんの友達?

 声の感じでは若い男を想像していたが、爺さんの息子が青年のわけもなく、三十代後半に見える男性だった。

 実際には、もっと年齢がいっているのだろうが、若々しい感じだ。

「お世話かけます」と春行さんも丁寧な物言いだ。

 何となく、赤面するほど、私の顔を見ている。

「ほんまや、面影がある」と相手は言った。

「春子ちゃんにですか?」

 そう言ったとたん、急に、無表情になった。

「お世話かけました」と声まで冷たい。

 あんたあ、ちょっといい男やからって、その態度はないでしょう、と心の中で突っ込んだ。

 明日から、もう何言うてきても知らんからね。

「に、人形が出てきたんです」と、しかし、私の声は、自分の気持ちを裏切って、オロオロしていた。

 どこかで、ね、ね、私も怖いのよ、と訴えているらしい。

「そうですか」とニベもない。

「お爺ちゃんが見つけてくれたんですけど」と自分の期待を裏切って、声はどんどん訴えモードになっている。

 突然、相手がニコッと笑ったので、私も釣られて笑ってしまった。

「父は、ぼけてますから、あんまり気にしないでください」

 またも、私は、茫然と、爺さんと息子が去っていく姿を見送っていた。

 きっと、あの爺さんの娘が、何回も顔会わすのがイヤやから、弟に引き取りを頼んだのだろう。

 その後の時間は、掃除をしながら、妄想妄想、また妄想の連続になった。

『ほんまや、面影がある』と言えることは、あの男は、春子ちゃんを実際に知っているわけだ。

 爺さんが間違えるほど、私は春子ちゃんに似ているのかもしれない。

 掃除の途中で、台所の戸棚の一つの裏側についていた鏡で、自分の顔を見た。

 そのついでに、何でこんなところに鏡がついているのか、疑問にも思った。

 大体やね、何で、食器棚の上段に人形があって、それを爺さんが知ってるのよ。

 まだ、開け放たれたまま、人形達が、私を見下ろしている。

 閉めてしまう方が怖くて、そのままにしてある。

 突然、この家の冷気の原因がわかった気がした。

 あの人形達だ。

 ゾクゾクと寒い。

 超スピードで掃除をすませた。

 時計を見ると、3時半を回っている。

 あと1時間半。

 私は、全ての人形を、台所の流しの上に乗って、下に下ろした。

 自分でも、何で、そんなことをしているのかわからない。

 足は、ずっと背伸びをしているために、ガクガクと震えていた。

 言われているように、全てを5時までに元に戻さなければならない。

 数えてみれば、人形は、全部で三十体あった。

 古びてはいるけれど、埃まみれにはなっていない。

 下に下ろした時間半時間。

 元に戻すのには、多分、それ以上かかる。

 人形を点検する時間は、それだけ少ないはずだったが、下ろしている間に、すぐわかったことがあった。

 人形は、全員、髪の毛を無様に散髪されている。

 そして、ある人形には目が片方なく、ある人形は足がない、という風に、どの人形も、どこかに欠損部分があった。

 三十体のうち、唯一の例外は、髪を散髪されただけで、身体のどこにも欠損部分がなく、ガラスケースにおさまっている人形だった。

 どの人形も同じような顔をしていたが、その人形は、言ってみれば、その中でも一番の美形だった。

 この人形が作られた当時ではどうだったかわからないけれど、私の目には、一番美しい顔立ちに思えた。

 私は、時計をチラチラ見ながら、その人形をケースから出して、子細に調べた。

 どう見ても、美しい人形だ。

 左よりも右の毛の方がわずかに短いだけで、それも注意しなければ、気にはならない。

 そのうち、眺めているうちに、この人形は、髪の毛を切られたわけではないのではないか、と思い始めた。

 この髪の延び方は、自然な人間の髪の延び方に似ている。

 美容院にカットに行く。

 その時は、美容師の手腕で、全部同じ長さに髪の毛はおさまっている。

 しかし、1週間2週間と経つうちに、髪の毛はそれぞれの勢いのままに延び始める。

 きっと、この髪は、人間の髪で、左右で、延び方の違う部分を使ってしまったのだろう。

 私の髪で言えば、前髪と横や後ろの髪の延び方は違う。

 そういう素材を組み合わせた結果のように思えた。

 私もかなり、妄想的になっている。

 私は、元あった場所に、ゆっくりと人形達を戻し始めた。

 どういうわけか、どの人形が、この場所にいた、というのは記憶していた。

 全部の人形を戻し終わった時、時計を見れば、5時5分前だった。

 全部が元の場所に戻っているかどうか点検して、5時5分過ぎには、門から外に出ることができた。

 一応、合格圏内だろう。

 自転車をこぎながら、私は、そう思っていた。


 11 少しは休みたい

 私は、自転車をこぎながら、人形のことを考えていたが、駅の辺りに来ると、今度は、息子のことが気になりだした。

 前日の、コップ全滅事件を思い出したせいだろう。

 どうか、食器や家具が無事でありますように。

 特に、ビールが全滅していませんように。

 近所のスーパーで、肉とコップを買って、家に帰った。

 野菜と卵はある。

 今夜は焼き肉だ。

 鍵を開けると、「お帰り」という暗い声がして、息子が床を拭いていた。

「どないしたん」

「見たらわかるやろう。掃除」と不機嫌な声だ。

 ゴミ袋に捨てられている物を見て、ショックを受けた。

 料理に使われた形跡のない大量の卵の殻、袋の中でグチャグチャに潰れたトマト、割れた柿……また、サイコキネシスの実験が行われたに違いない。

 息子が拭いているのは、どうやら床にこぼれた牛乳のようだ。

「言うとくけど、オレは何もしてないからね」

 私は、カッと頭にきた。

「ああ、そう。

 卵やトマトが勝手に潰れたわけ?」

「別に、信じへんでもいいよ」

「こんなに食べ物を粗末にして、ほんまにええと思ってんの!」

「思ってないよ、勿体ないよ」

 その時、急に辺りが寒くなってきた。

「来るで」と息子が言った。

 台所の電気が点滅し始めた。

 壁がピシピシ言い始める。

「何なん、これ」と私は尋ねた。

「ラップ現象や。

 多分、ポルターガイストやろ」と息子は、こともなげに言った。

「何なん、それ」と言っている間に、バタンと冷蔵庫の扉が開いた。

 私は、反射的に冷蔵庫まで走って扉を閉めて両手で押さえた。

「何なんよ、これ!」

 私の両手は押し戻されて、冷蔵庫は中から力の強い人間が押しているように、ジワジワと開いていった。

「春樹、あんたも押さえて」と言うと、息子も一緒に押さえた。

 洗面所からパーンという音が聞こえてきた。

 慌てて洗面所に走っていくと、洗面所の電球が割れて、床に破片が散乱していた。

「ひどいわ、やめてよ」と私は叫んだ。

「うちは貧乏なのよ、お金がないの。

 誰か知らないけど、やめてちょうだい」

 突然、冷気が消え、台所の電気の点滅と、ラップ現象が止んだ。

「さすがお母さんやな」と息子が言った。

「オレには、どうしようもなかったわ」

 洗面所の電球の破片を片づけると、ぐったりしてしまった。

 スーパーの袋も玄関に置いたままだ。

「ごはんだけは炊いといた。これは、無事やったな」

 そう言われて、ごはんまでグチャグチャにされていたら、私は完全に半狂乱になって、目に見えない存在に切れまくっていたと思った。

「オレ、何か今日は、胃の調子が悪い」

「そういうたら、私も今ので、胃が縮んだみたい」

 肉と野菜を焼いて、と思っていたけれど、そうする元気も食欲も無く、親子で細々と、糠漬でごはんをすませた。

 ビールが欲しくないのも、珍しいことだ。

 息子の話は、次のようなものだった。

 台所で何かドーンという音がしたので目が覚めた。

 母親が何かしているのかと思ってのぞくと、冷蔵庫が開いていて、卵が一個ずつ、昨日のコップみたいに、卵ケースからジャンプして、床で割れた。

 息子は茫然として見ていた。

 次に野菜室が開いて、まず、キャベツが飛び出してきて、床でジャンプした。

 トマトのジャンプはキャベツよりも勢いがあった。

 きゅうり、なすも飛び出してきた。

 じゃがいもと玉葱も飛び出した。

 冷凍庫が開いて、冷凍食品が一つまた一つと飛び出し、最後に製氷皿が出てきて、氷が一個ずつジャンプしては、好きな方向に飛んだ。

 仕上げのように、牛乳パックがゆっくりと宙に浮かび、クルリと逆さまになると、バッと口が開いて、バシャッと一気に牛乳を床にこぼした。

「糠漬は?」と私は、勢いこんで尋ねた。

「糠漬は、おとなしかった」と息子は言った。

「その後始末が大変やった。

 冷凍食品とか固い野菜は何とか無事やったけど、卵とトマトとキュウリは最悪で、その上、あちこちに氷の溶けた水たまりができてる。

 水と牛乳を拭ききって、ようやく終わりや」

「大変やったなあ」と言いながら、ごはんとか糠漬とかビールとか、私が本気で切れるものは潰していないことに、変に感心した。

 電球も、トイレとか風呂場の電球だったら、もっと頭にきていた。

「お母さん、オレも、その家に行っていいか?」と息子が言った。

「え?」

「もし、オレのサイコキネシスの練習が原因なんやったら、お母さんのいてない間に、この家、グチャグチャになってしまうで」

「それは困る」やっと手に入った我が家やのに。

 私は、慎重に思い返してみたが、『息子を連れてきてはいけない』という注意はされていなかった。

 手伝いということで、説明もつく。

 あの家とこの家を秤にかけてみると、どう考えても我が家の方が大事だ。

 最悪、クビになったら、いいだけの話やった。

「わかった」と私はついに言った。

「仕事の手伝いをすることと邪魔はしないこと」

「そんなこと、わかってるって」

 ほんまにわかっていたらいいんやけど、と私は心の中で考えていた。


 12 爺さんと息子

 翌日、息子と一緒に自転車を走らせながら、お金のためもあるけれど、息子と距離を置こうとして始めた仕事だったことを思い出していた。

 これやったら、二人で閉じこもっていた頃と変化がない。

「オレ、家から外に出たん、どれぐらいぶりやろう」

 まず、家中の窓を全部開けた時に、息子が言った。

 そうか、そういう変化はある。

 私も息子も家から外に出ている。

 しかも稼ぎに。

 息子が掃除機を担当して、私が拭き掃除をすると、9時半には、全作業が完了した。

「広い家やなあ。こんなとこに住みたいなあ」と息子が言った。

「掃除が大変やないの」

「アホやなあ、お母さん、広い家は掃除が楽やねんで」

 すみません。

 実際には、あなたが我が家の掃除大臣・洗濯大臣でした。

「あと、何かすることある?」

「とにかく、全部綺麗にしたらいいらしい」

「窓は拭かんでいいの?」

 窓!

 そんなこと、考えてもいなかった。

 毎日言われた通りに、開けたり閉めたりしていただけだった。

「時間あるし、窓も拭くわ。新聞紙ある?」

「新聞紙はないと思うけど」

「探していい?」

「いいけど」

 何となく、息子のお蔭で、仕事が増えていきそうな予感がした。

 案の定、息子は、一番広い部屋の真ん中に座ってしまった。

 それも、少しずつ向きを変えて座っている。

 ある方角で落ち着くと、そのまま目を閉じた。

 変わった子だとは思っていたけれど、こうやって広い部屋の真ん中に座っていると、奇妙に様になっている。

 息子が一緒のお陰か、今日は、この家の中も、いつもほど寒くないと思っていたが、急に気温が下がったかのように寒くなった。

 そのとたん、台所の方から、バンという音がした。

 続けて、バンバンバンという音。

 息子は目を開けて、立ち上がった。

 私は、金縛りに会ったように、身動きできなかった。

 息子が台所の方に向かって歩き始めると、私も動けるようになった。

 私は、息子の後について、恐々台所に入って行った。

 台所の下の段の扉が全部開いていた。

「オレはやってないで。

 オレは、新聞を探していただけやで」と息子は言ったけれど、息子の新聞を探すのと、この扉が開いたのには、何か関係があるような気がした。

 一番下の段には、初日に冷蔵庫が左端で見つかった以外、何も入っていなかった。

 息子は、珍しそうに、下の棚を端から順番に見ていた。

「多分、ここのどこかに新聞が溜めてあったんやろな」

 そう尋ねられても、私にはわからない。

「オレは、何かこの家、懐かしい気がするわ」

「そんなこと言うたって、あんたは、マンション以外、住んだことないやんか」と私は、苦笑した。

「ここは、あんたの知らない家」

「そらそうやけど、何かな」

 ピンポンピンポンパーンというインタフォンの音で、ハッとして時計を見ると、12時半だった。

 時間厳守の爺さんだ。

 しまった、早く弁当を食べないと。

「はい」とインタフォンに出ると、「わし」という声がした。

 また、家族に黙って出てきたのか……

 門を開けると、爺さんが一人で立っていて、右手に紙切れを握り、左手に袋を下げていた。

『30分で帰してください。』と書いてある紙を、爺さんは、私に渡した。

 袋の中身は、昨日は柿だったが、今日は梨だった。

 爺さんの預かり賃か。

 あの女、今度は爺さん一人にメモを持たせるという、省エネ作戦できたか。

 息子は、先に弁当を食べていた。

「誰?」と息子が尋ね、「お隣の佐藤さん」と答えた。

「お祖父ちゃん」と息子が言い、「春行」と爺さんが答えた。

 あんた達、いいコンビやわ、と私は思った。

 爺さんにとって、男は全部『春行』なのに違いない。

 それで、女は、『春子』ちゃん。

 そして、息子が偶然にも『春樹』。

『春子・春行・春樹』

 正月から春にかけてだけ呼ばれる漫才トリオだ。

 今日は、頼まれてもいないのに、爺さん用に、湯飲みを持って来ていた。

 私は、それに水筒のお茶を注いで、爺さんに渡した。

 私が弁当を食べていると、爺さんがジッと見ているのが気詰まりだ。

「食べる?」と仕方無く尋ねた。

「春子ちゃんの分が無くなってしまうがな」と口では言いながら、もう食べる態勢に入っているのがわかった。

 きっと、家で食べたことを、もう忘れているのだろう。

 爺さんが弁当を貪り食っているのを見ながら、明日から弁当を三つ、と考えていた。

 まあ、いいダイエットになる、と自分を慰めた。

 閉じこもって暮らしている間に、体重は5キロも増えていた。

 ここ数日で2キロ落ち、今日また1キロは落ちるだろう。


 13 春子ちゃんは、散髪が嫌い?

「お祖父ちゃん、オレのこと知ってるよね」と息子が言った。

「春行やがな。お前は、全然変わってないわ」

「お祖父ちゃんも、全然変わってないわ」

 私は、このアホらしくて調子のいい会話を無視して、午後の掃除を始めていた。

 ところが、今日に限って、掃除機の調子が悪い。

 というか、息子が使った時には、きちんと動いていたくせに、私が使うと、ブオオと勢いが強くなりすぎたり、全然吸い込まなくなったりする。

「いい加減にしいや」と掃除機に怒ると、シブシブのような感じで、正常に動き出した。

 しかし、それも束の間、いくらスイッチを入れたり切ったりしても、全然動こうとしなくなった。

「春樹!」と呼んでも返事がない。

 もう!

 ほんまに!

 手伝うという約束で連れてきたのに、全然役に立たない、と思って台所に行くと、床に人形が散乱していた。

 思わず、ギョッとする私。

 三十体の人形の中に、爺さんと息子が座っている恰好だ。

「春子ちゃんがやったんや」と爺さんが息子に説明していた。

 別に自分が『春子ちゃん』ではなかったが、爺さんに『春子ちゃん』と呼ばれている手前、何となく自分が人形壊しの件で、非難されている気がして、落ち着かなかった。

「何で?」と息子が尋ねた。

 しっかし、この爺さんが、まともに質問に答えるかな? という意地悪い気持ちで聞き耳を立てていた。

「春子ちゃんは、散髪が嫌いやったから」

「それで、人形を散髪したん?」

「そうや」

 何と、ちゃんと、普通の会話になっている。

「じゃ、これは?」と息子は、足の取れた人形を、爺さんに見せた。

「……」と爺さんは、無言だったが、私が質問した時のように、心は、どこかをさまよっているわけではなく、どう答えようか、と迷っているように見えた。

「春子ちゃんは、足が悪かった?」と息子が、尋ねた。

「……」

「誰かが、春子ちゃんの足を痛くした?」

 コックリと爺さんは、うなずいた。

「華さん……」と言って、爺さんは、また、ポケットから、前と同じハンカチを出して、ブーと鼻をかんだ。

「華さんがやったん?」

 爺さんは、首を横に振った。

「啓介さんがやった」と爺さんの目が、宙をさまよっている。

「啓介さんて、春子ちゃんのお兄さん?」

 爺さんは、首を振った。

「お父さん?」

 爺さんは、何と! うなずいた。


 14 春子ちゃんの許嫁

 私の頭の中に、春子ちゃんの系図が浮かび上がる寸前に、ピンポンピンポンパーン、というインタフォンの音が聞こえてきた。

 チッ、もう迎えに来たか、ちょうどいいとこやったのに、と昨日までと別人になっている。

 ギョッ。時計を見ると、約束の30分は、とうの昔に過ぎていて、午後の3時前だった!

 掃除を、午後の掃除をしなければ……

「はい」

「隣の佐藤です」と男の声。

 春行さんだ、となぜか、内心、ドキドキする。

 もう! ちょっといい男やと、これや。

 ま、男性に接触する機会がない生活やから、仕方がない、ない、と自分を慰める。

 門を開けると、爺さんの息子と娘が揃って、顔を並べていた。

 娘は爺さんソックリだが、息子の方はきっと母親似なんだろう。

「あ、お爺ちゃんですね?」と私は、条件反射的に、分かり切っていることを言った。

 それと、同時に、この春行さんという人は、プータローなんだろうか、とも思った。

 昨日にしろ、今日にしろ、平日の午後のこういう時間に家にいる。

「いや、そうではなくて、今日は、お願いがあって来たんです」と春行さんが言った。

「はあ……」

「私達夫婦は、ずっと困ってるんです」と娘の方が言った。

 娘の名前は、一度聞いた覚えがあるけれど、記憶にない。

 当然、春子ではない。

 私はショックを受けていた。

 ゆっくりと、『私達夫婦』の『夫婦』というフレーズが、自分のショックの主原因になっているらしいことがわかった。

「父は、あなたのことを、春子ちゃんやと思いたいらしい」

 そうらしいことは、私も知っている。

「確かに、あなたには、春子ちゃんの面影がある」

 あの爺さんを『父』と呼ぶということは、この男が爺さんの息子で、この爺さんにソックリの女が、爺さんとは真っ赤な他人で、爺さんの息子の嫁だ、と私は、自分に言い聞かせた。

「父は、いわゆる老人性の痴呆症なんですが、春子ちゃんに関することだけは、なぜか記憶が確かみたいに思えるんです」

 私もそう思うが、どこかで強烈なショック感覚があり、現実感が戻ってはこない。

 この爺さんソックリの女が赤の他人で、春行さんの妻、と頭の中を同じフレーズがグルグルと回っている。

 爺さんのことを『お祖父ちゃん』と呼ぶということは、二人の間には、子供までいる……

「今までにも、何度かこういうことがあったんです」

「こういうことというのは、何ですか?」と私は、条件反射的に尋ねていた。

「あなたみたいな方が、この家に来られて、父が異常な関心を抱くということがです」

「この家は、お爺さんのものなんですか?」と爺さんに尋ねて答えの得られなかった質問をぶつけてみた。

「いいえ」と答えは、素っ気なかった。

「でも、この家は、父にとって、重要です」

「春子ちゃんというのは、あなたにとって、何だったのですか?」

 無視されるかな、と思ったけど、「許嫁でした」という意外な答えが返ってきた。

「許嫁?」でした?

「僕たちは、全然、知らなかったんですが、父親同士が、勝手にそういう風に決めていたらしいんです」

「父親同士?」

「僕の父と、春子ちゃんの父親がです。」

「春子ちゃんの父親というのは、啓介さんですか?」と私は、崖から飛び下りるような気持ちで、今までの記録を総動員して尋ねた。

「よく、ご存じですね」と春行さんが言った。

「では、範子さんというのが、春子さんのお母さん?」とこれも、記憶を総動員して尋ねた。

「靖子さんです」と私は、自分の記憶を訂正された。

 範子さんじゃなくて、靖子さんだったか。チッ。

「私が、範子です」と女が口を出した。

 あんたのことは、どうでもよろしい。

「僕達では、どうしようもない。

 あなたから、もうこの家には、来てはいけない、と父に言ってもらえませんか?」と春行さんが言った。

「自分で言えばいい、と思われるでしょうが、父には、僕たちの声が聞こえてないんです」

「それは……」私も同じです、と言いかけたとたん、家の方から、ドッカーン、という爆発音が聞こえてきた。

 もう、私には、何が何だかわからなかった。


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