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知らない家  作者: まきの・えり
1/6

知らない家1


 1 決して電話には出ないでください

「あ、それから言うときますけど、決して電話には出ないでください。私用電話もあきません」と私を案内してきた男が言った。

 中肉中背なのに、顔が思い切りでかい。その大きな顔で「あきません」と言われると、本当に駄目な気がした。

 しかし、知りたいものは知りたい。

「え? それは何でですか?」と私は尋ねた。

「何ででもです。それから、何で、何で、というのも無し」

「え? 何でですか?」

 男がジロリと私を見たので、私は、慌てて口を押さえた。

「毎朝、出勤は午前8時から午後5時まで。お昼の休憩時間は45分。3時から15分間休憩。

 朝一番にすることは、窓を全部開けて……」

 私は途中から聞いていなかった。そんなもん何とでもなるわ、と内心思っていたからだ。

 木造平屋建てで、4DKか、と家の間取りを数えていた。広くて、かなり古い家だ。

 玄関の土間が八畳ぐあいある。

 入ってすぐに四畳ぐらいのホール状の場所があり、左手が六畳の和室、向かいの部屋は、二十畳ぐらいはある。とにかく広い。

 その横に六畳の和室。広いけれど暗い台所があり、廊下が続いている先に風呂場とトイレがある。

 夜中に行くには怖そうなトイレだ。

 台所と廊下の向かい側に、何となくこじんまりした六畳間があり、私と案内の男は、最終的に、この部屋に落ち着いた恰好だ。

「ただの留守番やからと思って、安心してもろたら困りますよ」と私の心を見透かしたように、男が言った。

「ただの留守番に高い時給を払うのは、いつ誰が訪ねて来ても、困らんようにです」

「はい」

「この仕事を甘くみて、クビになった先輩が何人もいてます」

 喉元まで出かけた、「それは、何でですか?」ということばを、私はゴクリと飲み込んだ。

「これが門の鍵、これが玄関の鍵、これが裏の鍵」と男は、それぞれに大きさの違う三つの鍵を渡した。家の古さとは不釣り合いに新しくてピカピカ光る鍵だった。

「じゃあ、明日から出勤ということでいいですね」

「はい」

「今日は、自由に見てもらって結構です。適当に帰ってください」

「はい」

「あ、それから」と言って、一旦帰る気配を見せた男は、思い出したように言った。

「帰る時に、鍵はかけないでください」

「それは、何……」と言いかけて、「今日だけですか?」と言い直した。

「いつでもです。後で点検に来ますから」と男は、尋ねてもいないのに、理由を答えた。

 男が帰ってしまうと、ホウッと息がもれた。知らない間に緊張して、肩に力が入っていたようだ。

 この2ヵ月間で書いた履歴書20通余り。面接にまでこぎつけたのは、初めてだった。

 三十五を越えると、とたんに仕事がなくなる、と友人が言っていたが、私は、五十に手が届こうとしていた。

「老け顔ですね」と面接で言われてしまった。

「苦労しましたから」と答えた。実は、ヤケで、履歴書に三十五才と年齢を偽ったのだ。

 それで、ようやく面接にまでこぎつけたというわけだ。

 結局、戸籍謄本と住民表が必要だということで、実年齢はばれてしまったわけだったが、私の人柄がよかったせいか、他に候補者がいなかったせいか、不採用にはならなかった。

 こういう仕事が欲しかった。

 家から外に出たかったのだ。

『何でわからんことを、何で? て尋ねたらあかんの!』

『何で、この仕事でクビになったん?』

『何で、帰る時、鍵をかけたらあかんの』

『何よ、偉そうに!』

 突然、ムカムカムカッと腹が立ってきた。それと同時に、おなかもすいていることに気がついた。

 その時、ジリリリン、ジリリリン、と電話のベルが鳴り、私はギクッとした。

 昔のダイアル式の黒い電話が唸りながら震えているように見える。

 あの案内の男が、苦情の電話をかけてきたような気がした。

 慌てて電話に出ようとして、ハッと思い出した。

 そうだった。

「決して、電話には出ないでください」と言われていたのだ。

『何でやのん。用のある時、どうすんの!』と思いながら、電話の音に追われるように、玄関から出て、門まで歩いて行った。

 どうしても、玄関に鍵をかけたい衝動にかられる。

『そうやん。私が鍵をかけて、おっさんが開けたらいいだけやんか。その間に泥棒が入ったら、誰の責任やのん』

 けど、ま、考えないようにしよう。折角見つかった仕事だし。

 後は、給料を少しずつ貯めて、携帯用のワープロを買おう。

 わお。それで、憧れの作家生活や。原稿用紙や広告の裏にチマチマ書く生活とは、おさらばや。

 さすがに十月ともなると冷え込むな、と思っていたが、外の方が家の中より温かいようだった。

 門から出た後、後ろを振り返ってみた。左手が石垣、右手が壁になっている。案内の男が見せてくれたが、石垣の中は樹木の生い茂った広い庭だった。

「ここには、入らないでください。専門の職人が入りますから」

 はい、はい。言われた通りにいたします。


 2 我が家は2DK

「お帰り」と息子が言った。

「ただいまー」

 240世帯が住む10階建てマンションの5階に私の家がある。

 去年までは、母が一緒に暮らしていた。というか、母の住んでいたマンションに、私達母子が食い詰めて転がりこんだ、と言った方がいい。

 人間にも、猫と同じように、一人当たりの快適居住空間というものがあるのかないのか、半年余りで、母が亡くなり、母には悪いけれど、お蔭で一人一部屋が実現し、ゆっくりと眠れるようになった。

 母が一部屋、仏壇が一部屋占領している家だったので、息子が仏壇の間に寝て、私が台所の隅で寝ていた。

「一緒に寝ればいいが」と母は言ってくれたが、台所の方が気が楽だった。

 亡くなった後で、母は一緒に寝て欲しかったんだろうか、という疑問が頭から離れなかった。

「どうやった?」と息子が尋ねた。

「うん。明日から仕事」

「よかったな、雇ってもらえて」

「うん」

 息子のことも気にはなるのだが、食べていくためには働かなければならなかった。

 息子が十八になったので、母子手当ては打ち切られ、あてにしていた高校と専門学校の時間講師の口も不況の影響か、全然声がかかってこなかった。

 前日作っておいたカレーを温めながら、私は冷蔵庫からビールを出して、まず一口飲んだ。

 おいしい! 昼間の緊張が一気にほぐれる気がする。

 ごはんとカレーを皿に盛って、食卓につくと、コップに残っていたビールを一息で飲んだ。

 うまい。貧しくても、晩酌のビールだけはやめられない。

「オレ、また、お祖父ちゃんと話したで」

「そうか」

 母が亡くなってから、何となく鬱々と家に閉じこもっていた息子は、どうやらテレパシー能力とチャネリング能力を開発したみたいだった。

 それが喪に服すということか、私も何もする気が起きず、毎日閉じこもってくらしていた。

 どこにも行きたくはなく、何もしたくなかった。

「あ、また、お祖父ちゃんが来てる」

「けど、そのお祖父ちゃん、どっか怪しいわ。そうや。私がテストしてあげよう。お祖父ちゃんに聞いてみてよ。初めて飛行機に乗ったのは、いつですか」

「初めて飛行機に乗ったのは、十年前」

「ブー。十年前には、もう死んでました」

「二十年前」

「ブー」

「忘れてしまった、言うてんで」

「お祖父ちゃんは、戦争の時に、海軍航空隊というところにいて、少年飛行兵として突撃しました」

「へえ、ほんま」

「それで、アメリカ軍に撃ち落とされたところで、戦争が終わって、お祖母ちゃんと結婚しました」

「へえ、ほんまに、戦争なんかあったんや」

「らしい」

「らしいて、お前かって、戦争に行ったんやろ?」

「何言うてんの。そんな年と違います」

「けど、五十才ということは、五十年も生きてるんやろ」

「五十五十て言わんといて。まだ四十九よ。外では、三十五で通ってるんやから」と私は息子に見栄を張った。

「それに、戦争は、私が生まれる前に終わったの」

 しかし、本当に、そうなのだろうか。

 息子は、中学生の時から不登校をしていて、学校教育の洗礼を受けていない。だから、私が当然のことと思っていることも、息子には信じられない話だ。しかし、自分が教えられてきたことのうち、どれが本当でどれが嘘かなんて、実は全然確かでも何でもない話なのだ。私は、それを、息子に教わっていた。

「お祖父ちゃんが、お前は戦争に行った、て言うてんで」

「ブー。その人はお祖父ちゃんの偽物です」


 3 初日は雨

 うわあ、ついてない、と布団の中で雨の音を聞いて思った。

 初日から雨か。

 実は私は異常な晴れ女。出掛ける時に、雨に降られたことがない。

 雨が降っている時は、家の中にいるか、建物の中にいる。

 私が外に出ると、カラリと雨が上がる。

 それが当たり前だったので、この雨の音が信じられなかった。

 どうせ、私が出る頃には止むやろう、と思ったのは甘く、マンションのドアを開けても、まだしつこくザアザア降っている。

 初日から傘差して出勤か。水筒にお茶を入れ、しっかり弁当まで作ったので、荷物は重い。

 自転車は諦めて、傘を差して歩いていく。

 マンション群を通り越し、駅も通り越し、なおも歩きつづけていくと、突然、目の前に昔の町並みが出現する。

 前日、案内された時は、マンション群との落差に驚いた。急に、昔に戻ってしまったような気がした。

 案内してくれた男が、今風の小顔ではなく、一昔前のでかい顔だったのも影響しているのかもしれない。

 門の前で傘を差しながら苦労して時計を見ると、8時半を少し回っていた。

 遅刻か。けど、大体、会社やないんやから、キッチリ8時に出勤しなければならないいわれもないわけだ。することしたら、平気、平気。

 門は、いつ鍵を閉めたのか、シッカリ鍵がかかっている。

 大きな鉄製の門だ。何となく、昔は木の門がついていたような気がした。

 門を開けて中に入ってから、面倒だったけれど、またキッチリ門を閉めた。

 私がいる時に泥棒でも入ってきたら怖い。

 玄関の鍵を開ける時は、雨を気にしなくてもよかった。軒先がある。

 ここに着くまで、雨が降り続けたか……と気分を害している。晴れ女返上。

 玄関のドアを開けようとして、袋とじになった冊子が、ガムテープでとめられているのが目に入った。

 その表紙に、『遅刻はしないでください』と赤ペンで書いてあった。

 まるで私が遅れて来ることを知っていたかのように。

 それとも、あの顔のでかい男は、8時までここにいたのだろうか。

 ガムテープをはがして冊子を手に取ると、中に入った。そのとたん、頭がクラクラした。

 あ、めまいだ。

 しかし、めまいにしては長い。

 そうか。地震か。このところにしては珍しく長く揺れている。

 ゆーらゆーらという横揺れで、阪神大震災の時のように、次にドカーンという縦揺れがくるのではないか、と身構えたが、家の中にはどこにも隠れるような場所がない。

 慌てて、玄関をまた開けた。戸が開かなくなって、逃げられなくなったら、大変だ。

 そのまま、揺れがおさまるまで、何もできずに呆然としていた。

 遠くで、ゴロゴロゴロと季節外れの雷まで鳴っている。

 がらーんと広い家の中で、落ち着かずにウロウロしたあげく、やっぱり昨日の、台所の向かいにあった部屋に落ち着いた。

 押入れがついているだけの部屋だが、どこか安全に守られている気がする。

 そこで、玄関に貼ってあった冊子を読む余裕ができた。


 4 遅刻はしないでください

 冊子の内容は次のようなものだった。


 勤務時間   8時から17時。

 休憩    12時から45分間

       15時から15分間


  8時から10時

    すべての窓を開けること

    全室に掃除機をかけ、畳はから拭き、床は水拭きすること

 10時から12時

    全室を整え、万全の態勢を整えること

    この間に、天井やふすまや障子の汚れをチェックすること

 12時から12時45分

    休憩

 12時45分から15時

    全室に掃除機をかけ、畳はから拭き、床は水拭きすること

 15時から15時15分

    休憩

 15時15分から17時

    全室を整え、万全の態勢を整えること

    この間に、天井やふすまや障子の汚れをチェックすること         

    全ての窓を閉じること

 17時までに、すべてが元の通りになっていること


 注意 電話には出ないでください

    帰る時に、鍵はかけないでください

    私物を設置しないでください


 その後に、赤ペンで、『決して、遅刻はしないでください』と書き添えてあった。

 はい。わかりました。

 私物=ワープロ? 弁当と水筒は設置できないからいいわけだ。

 わかりました。買う予定のワープロも持ち帰ればいいわけですね。

 手早く掃除をすませて、後は、留守番がてらに作家ざんまいをするという夢が、早くも萎み始めていた。

 それにしても、一戸建てというのが、こんなに寒いものだとは気がつかなかった。

 一戸建てに住んだ記憶が、幼い頃だけだからだろう。それ以後、その当時では珍しかった鉄筋コンクリート作りの社宅に住んでいた。

 マニュアル通りに作業を進めながら、どこかに微かな憤りがあるのを感じていた。

 確かに、私は、お金のために、この仕事をしている、と掃除機をかけながら思った。

 これはありがたいことだ。主婦だった時には、お金なんかもらうことなしに、同じことをしていた。訂正・同じようなことをしていた。

 掃除機をかけて、家では滅多にしない、拭き掃除までしているのだから、汗ばんでもいいはずなのに、ますます寒くなっていった。一戸建てというのは、本当に寒いのだ。

 書いてあった通りの作業を完了すると、何と、12時になっていた。

 慣れ、慣れ、と私は思った。手順が身につけば、もっと早くなって、自分の時間が捻出できる。今日は、遅刻もしてしまったし。

 息子に作ってきたのと同じ弁当を食べた。

 これは、幼稚園弁当だな、と自分で苦笑した。

 梅干しとカツオの入ったお握りに玉子焼きとウインナー。ウインナーをタコさんにしなかっただけマシだ。後は、レンジでチンできるミートボールと、ホウレンソウのお浸しだ。隅の方に、自家製の糠漬け大根とキュウリが詰めてある。

 食べながら、あー、もう少し大きな弁当箱にしたらよかった、と後悔した。

 食べ終わってから、12時45分になるまで、台所の探検をした。

 戸棚が随分沢山ある台所で、戸棚の一部だと思っていたところが、冷蔵庫になっていることを発見。内部は真っ暗で、何も入っていない。

 冷蔵庫が使えれば便利だ。これも仕事の一部?

 電気の差し込み口を探して、冷蔵庫に電源を入れようとした。

 そのとたん、何かがショートしたみたいな発光現象が起きた。


 5 謎のお爺さん

 ピンポンピンポンパーン

 古い家には不釣り合いなインタフォンが鳴っていた。

 それがインタフォンの音だとわかるには、しばらく時間がかかった。

 とにかく何が何だがわからない。

 突然周囲が白い光に包まれてしまった、と思ったら、ピンポンピンポンパーンだ。

「はい」と出てから、どこかがギクッとしていた。

 いや、大丈夫、電話じゃないんだから、と自分を落ち着かせた。

「どないしたんや?」という声が聞こえてきた。

「え?」

「どこも怪我せえへんかったか?」

「はあ……」

 これが、誰がきてもいいように家を整えるための『誰か』なんだろうか。

 とにかく、玄関を出て、門まで歩いて行った。

 門を開けると、小柄な老人が立っていた。

「春子ちゃん、大きいになって」とお爺さんは目を細めて顔中に皺を寄せて笑った。

 誰かと間違えているらしい。

 半袖のポロシャツに、夏物のズボン、足は素足にサンダル履きだ。

 夏は過ぎたというのに、元気なお爺さんだ。

「まあ、ここでは何やから」とさっさと歩いて、玄関を開けて、中に入ってしまった。

 こういう場合は、どうしたらいいのか、何も聞いていない。どうしたらいいんだ。

 門に鍵をかけて、玄関の鍵もかけて、慌てて、お爺さんの後を追ったが見つからない。

 やはりの奥の六畳間で、発見。

 お爺さんは、押入れから座布団を出して座って、私の水筒のお茶を飲んでいた。

「キャアアア、ていう、大きな声が聞こえたから、春子ちゃんがどないかしたんやないか、と思てな。昨日から帰ってきてることは知ってたし。よさそうな旦那さんやな」

 よさそうな旦那さん?

 え! あの顔のでかい男のこと?

「いえ、あれは、不動産会社の人で、私は、そこで雇われた留守番の人間なんですよ」と言いながら、爺さんが全然話を聞いていないのがわかった。目の焦点が虚ろだ。あらぬ方向に視線が泳いでいる。

「よちよち歩きやった春子ちゃんが、あんなええ婿さん見つけて帰ってくるやなんて、こんな嬉しいことはない」

 あ、あ、と思っていると、案の定、爺さんは、ポケットからクシャクシャになったハンカチを取り出して、ブー、と鼻をかんだ。そのついでに、目尻に滲み出た涙を拭いた。

 仕方がないなあ。今だけ、春子ちゃんになっておこう。

「あんなことがあった後で、ほんまに、よう戻ってくれた」

「え? あんなことって、何ですか?」

「啓介さんが、戦争から戻ってきてから、靖子さんも苦労やったわなあ」

「啓介さんって、誰ですか? 靖子さんって?」

「何を言うてんねんな、春子ちゃん」

 私の方こそ言いたい。何を言うてんねんな、お爺さん。

 チンプンカンプン、ワケワカメ状態やわ。

 ウ、ウ、とお爺さんは、またハンカチを出して、鼻をかんで、涙を拭いた。

「華さん……」

 ウワアッと心の中で叫びそうになったとたんに、ジリリリン、ジリリリンと電話のベルが鳴り、思わず飛び上った。

「春行かな」と爺さんが、今泣いてたのも忘れたように、電話の音の方ににじり寄って行く気配がしたので、私は止めようと身構えた。

「……気のせいか」

 電話のベルが鳴りやんで、爺さんがまた腰を落ち着けたので、私はホッとした。

「あの……お爺ちゃん、私、用事をしないとあきませんので」早く帰ってくださいな。

「気にせんと、やってくれたらええよ」

 そんなこと言われたかて、気になるわ。しかし、仕事も気になる。

 仕方がないなあ、と掃除機を手にしたとたんに、ピンポンピンポンパーンというインタフォンの音。

 またかいな。

「はい」

「あのう……隣の佐藤と申しますが、うちのお祖父ちゃんが、もしかしたら、寄せていただいてないでしょうか」

「あ、はいはい。来てはります」

 ああ、よかった、助かった。引き取り手がやってきた、とホクホクして、門のところまで走って行った。

 門の外には、中年過ぎの、痩せて顔色の悪い女が立っていた。爺さんの血縁、多分、娘だろう。こじんまりした目と鼻が爺さんにソックリだ。

「範子が迎えに来たと言うてもらえませんか?」と、何か私がお爺さんを無理やり引き止めているかのような言い方だ。

「自分で連れて帰ってもらえませんか?」と私もムカッとして言った。

「お祖父ちゃん!」と女は、門のところで、大声を張り上げた。なぜか、家には入りたくない様子だ。

「お祖父ちゃん!」

 そんな……奥まで聞こえるわけがないでしょ、わかりました、私が連れてきてあげましょう、と思ったとたん、爺さんが玄関からひょこひょこと出て来るところだった。

「お祖父ちゃん、いい加減にしてよ。春子ちゃんが帰ってるわけがないでしょう」

「あのう……春子ちゃんと言うのは、一体……」

「私は、何も知りません」と女は口を真一文字に結んだ。

 私は、門の前で呆然としながら、爺さんが女に引きずられるようにして歩いて行くのを見送っていた。二人は塀の向こうに姿を消した。隣と言っていたけれど、マンションと違って遠いんだ、と私は変なことに感心していた。

 時計を見れば、4時だった。

 私は、慌てて掃除機をかけ、やることになっていることを全速力でした。

 必死になって、やり終えると、5時半を回っていた。

 帰る支度をしながら、そうだ、冷蔵庫の電気を入れたとたん、謎の発光現象が起きたことを思い出した。もう一度冷蔵庫を点検してみよう。

 差し込んだはずのコンセントは抜けていた。

 冷蔵庫の中を調べようと思ったとたんに、電話のベルが鳴った。

 ジリリリリン、ジリリリリン

 もしかすると、どこかで見張られているのかもしれない。

 盗聴器か隠しカメラでもあるのかもしれない、という妄想が浮かんできた。

 きっと翌日には、玄関に『隣のお爺さんは入れないでください』『冷蔵庫には触らないでください』というメモが貼ってあるのだろう。

 玄関を出ると、お爺さんが来ている間にはあがっていた雨が、また降りだしていた。

 今までと反対だ。私が屋内にいると、雨が止み、外に出ると、雨が降る。

 あーあ、大変な一日だ。

 残業手当てはないんだろうから、5時に帰ればいいのに、生まれついての律儀な性格が災いしている。あーあ、と雨の中をため息をつきながら家路についた。


 6 コップが宙を舞う

 ビショ濡れになって、マンションのドアを開けると、「お帰り」の声がなかった。その代わりに、ガシャンガシャンというガラス製品の割れる音が聞こえる。

「春樹」と呼ぶと、「お母さん!」という叫び声がした。

 泥棒だ! と瞬間的に思い、すぐ逃げられるように、ドアを開け、傘をつかんで中に入った。

 泥棒はどこにもおらず、台所のテーブルの前に息子が立っていて、その周囲に割れたガラス類が散乱していた。

「どないしたん」と傘から雨のしずくがポタポタたれているのを玄関まで持って行ってから尋ねた。ドアも閉めた。

「わからん」

 わからんではわからんやないの、と心の中で突っ込んだ。とにかく片づけないと、どうしようもない。

「最初は嬉しかったんや」と息子もコップの破片をスーパーの袋に集めながら言った。

「オレ、この間から、サイコキネシスの研究をやってたんや」

 またか。

 テレパシーとチャネリングの次は念動力か……そんなことより、外に出て、バイトでも探してくれる方が、お母さんは百倍嬉しい。

 掃除機をかけて最後のガラスの破片をチャリリンと吸い取った後、私は、ビールを冷蔵庫から出して、シュパッと栓を抜き、コップが一つも残っていないので、ため息をついた。息子が、恐る恐る、湯飲みを出してくれた。

 お湯飲みでビールか。けど、うまい。

 今日もカレーか。ま、仕事のために、カレーを大量に作っておいたのだから、誰に文句も言えない。

「オレは、2時に起きて、弁当とカレーを食ってから、ここに座って、コップを動かすために精神を集中してた」と息子がカレーを食べながら話していた。

 ほんまにカレーが好きな子や。

「何となく、今日は、うまくいくような気がしてたんや。2時間ぐらい集中したら、何か眠なってきた。ちょっとコックリコックリしたかもしれへん」

 その後、息子の耳に、「今だ」という声が聞こえたような気がした。

 それで、お茶を飲んでいたコップに「動け」と命令すると、しばらくの間があったけれど、微かに動いた。

 嘘や、と息子は思ったらしい。信じられへんかった。

 自分でも信じられへんことをするな、と私は心の中で突っ込んだ。

 もう一度「動け」と命令すると、今度は前ほど時間がかからずに、2ミリぐらい動いた。

 その時は、物凄く嬉しかったらしい。

 それで、家中のコップをテーブルの上に並べて、順番に「動け」と命令してみた。

 動く。確かに動く。しかも、その動きが徐々に大きくなる。

「2センチ動け」「5センチ動け」と命令してみたが、そうは思うように動かず、2センチの時に3ミリだったり、5センチの時に3センチだったりした。

 ついで、「浮かべ」と命令してみた。

 すると、コップはカタカタカタと左右に揺れたが、浮かぶところまで行かなかった。

 何度も「浮かべ」と命令するうちに、ガックリと疲れてきた。もう、今日は、これで終わりにしよう、と思ったらしい。

「けどな、そのまま終わるんて、何か悔しかったんや」と息子が言った。何となく、その気持ちもわからんではない気がする。

「それで、これで最後やねんから、最後の力を振り絞って、『飛べ!』と命令したとたん、コップが全部ガタガタガタガタと震えだしたんや。『飛べ!』もう一度言うたところで、玄関の鍵が開く音が聞こえてきた。その瞬間、コップが全部、目の前でテーブルから飛び上がって、ガチャンガチャンと次から次から床に落ちた。オレは、思わず立ち上がったよ。『春樹』と呼ぶ声がしたんで、『お母さん!』て叫んだのは覚えている」

「あのね、春樹」と私は言った。

「わかってるよ、お母さんの言いたいことは」

「何がわかってるの」

「『テレパシーとチャネリングはいいけど、サイコキネシスはやめなさい、これ以上ものが壊れたら、私が困るから』」

「……」よくできました。顔真似と声真似までするな。

「けど、ここまできたんやから、オレはやるからね」

 息子がそう言ったとたん、台所の電気が点滅した。一瞬だったが、確かに点滅した。それから、部屋のアチコチの壁がピシピシという音を立てた。

「ラップ現象や」と息子が嬉しそうに言ったが、私は、嬉しくなかった。

「オレ、疲れたから、もう寝るわ」

 午後2時に起きて、午後8時に寝る。実働6時間か。その6時間も、弁当とカレーを食べる以外は、コップを壊しただけだ。

 はーあ、と私はため息をついた。大変な一日だった。


 7 家でも電話を取らないでください

 あー、コップが宙を舞う。私のビール用のコップが。

 夢の中でも、コップが宙を舞い、ガチャンガチャンと壊れていった。

 その間に、ジリリリーン、ジリリリーン、と電話のベルが鳴っていた。

 おかしいな、いつから黒電話になったんだろう、と思って、電話に出ると、あのでかい顔の男の声が聞こえてきた。

「家でも、電話を取らないでください」

 わあ! と思って、目が覚めた。

 チリリーン、チリリーン、と枕元で電話の子機が鳴っていて、遠くから着メロの音楽が聞こえていた。

 で、電話だ、と私は身構えた。

 あれは、夢、夢、と思って電話に出ると、わあ! あのでかい顔の男だった。予知夢を見てしまったのだろうか。

「今日は遅れないでください」と男は言った。

「それから、5時には帰ってください。掃除は綺麗にできています」

 私は、「はい」「はい」「はい」と答えていた。

「がんばってください」と言って、電話は切れた。私は、半分寝ぼけていた。

 しかし、時計を見ると、もう7時だった。6時にセットしておいた目覚ましは、鳴らなかったのだろうか。夢の中の電話の音は、目覚ましの音だったのかもしれない。

 鍋の中には、まだカレーが一人分残っている。これは、息子の昼食分。

 目的地まで歩いて50分。自転車でも20分はかかるだろう。家の近くのバス亭からの路線は通っていない。通っていたとしても、交通費は支給されないので、乗るつもりはなかったが。

 手早く着替えて、洗顔と化粧をすませ、お茶漬けと漬物で食事して、水筒にお茶を入れ、弁当は途中でパンでも買おうと思って、家を出た。息子は、まだ寝ている。

 幸い、いい天気で、サイクリング日和だ。

 途中のコンビニで、迷ったあげく、一番安い弁当を買った。まだ、給料をもらってないんだから、節約、節約。

 門の前で時計を見ると、8時5分前だった。ホッと胸を撫で下ろす。

 ガチャガチャと鍵を開けていると、誰かにポンと肩を叩かれた。

 ギョッとして振り返ると、昨日の爺さんが立っていた。

「もう、お爺さん、ビックリさせないでよ」いつの間に、そばに来たのか、または、どこかで来るのを待っていたのか。

「春子ちゃん、朝早うから出てたんやな」

「私は……」と言いかけたが、諦めて、うなずいた。

「お爺ちゃんも、朝早いねえ」

「年寄りは、朝早いから」と爺さんは嬉しそうに笑った。耳は確からしい。

 隣の家の方角から、例の女がやってくるのが見えた。

「お爺ちゃん、娘さんが迎えに来たから、帰った方がええよ」

「ほんまや。また、昼過ぎに遊びに行くわな」

 え!

「お爺ちゃん、私、仕事を……」と言いかけると、爺さんは、手を振って帰っていくところだった。私の話も聞いてよ、爺ちゃん。

 門から中に入る前に、ドッと疲れていた。


 

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