第一章 歴史改定調査委員会_005
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資料館ロビー。『万物の受け皿』なる大きさ三メートル、台座を含めると七メートルにもなる巨大な壺が飾られている広大な部屋。そのロビーに戻ってきたナタリーは――
「……ウソ」
ロビーにいる異形の怪物に声を詰まらせた。
それは巨大な狼のような姿をしていた。体長はおおよそ五メートル、四つ足状態での頭までの高さ、つまり体高でも三メートルある。発達した鋭い牙に足から伸びた肉厚の爪。鎧のような鱗で全身が覆われており、ギラギラとした赤い瞳で周囲を見回していた。
「人工的に生み出された生物兵器。通称モンスター」
背後から声が聞こえてくる。ナタリーは背筋を凍えさせながら背後を振り返った。遅れてロビーに到着したルークとソフィアがこちらの背中越しにロビーの怪物を眺めている。
「国軍や非合法な武装勢力が扱っている危険な兵器のひとつだね。ナタリーはモンスターを見るのは初めて?」
「は、話で聞いたことぐらいありますけど……ルークさんはやけに冷静なんですね」
「まあ僕は何度か見たことあるからね。それよりも困るよ、ナタリー」
怪訝に首を傾げる。疑問符を浮かべるナタリーに、ルークが背後の廊下を指差した。ロビーと保管室をつなぐ廊下。そこに山積みの資料を乗せた荷台が置かれている。
「資料を運ぶのはナタリーの仕事だろ? ほっぽり出していくんだもんな。昇降機があったから良かったけど、僕たちのようなか弱い人間にこんな重労働をさせないで欲しいな」
「わたしだってか弱い……ではなくて、今はそれを話している時ではないでしょう!?」
「まあそれはそうかもね」
どこか気のない返事をするルークに、ナタリーは震える舌を懸命に動かす。
「とと、とにかく逃げましょう! 資料館には裏口とかあるんですよね!?」
廊下の奥で震えている管理人がコクコクと高速で首を縦に振る。彼のその返事を確認して、ナタリーはルークの腕を掴んだ。
「ルークさん行きましょう! 裏口から駐車している車まで走って、車でここを離れたらすぐに教会本部に連絡して教団兵を派遣してもらいましょう! さあ早く――」
「僕は逃げるつもりなんてないよ」
ルークが平然と言う。意味が理解できずに目を丸くするナタリー。彼女の手をさらりと払い、ルークがモンスターへと一歩進み出る。
「ル、ルークさん!? 一体何を――」
「さっきも話したけど、モンスターは人工的に造られた生物兵器だ。そして兵器であるモンスターには必ず所有者がいて目的がある。この場合は――僕を始末することだろうね」
ルークが数歩進んだところで足を止める。視線を巡らせていたモンスターが、その赤い瞳をルークに固定した。モンスターの赤い瞳が凶暴な眼光に満たされていく。
「モンスターがルークさんを!? そんな――どうしてルークさんが狙われるんです!?」
「僕が歴史改定調査委員会の調査員だからさ。歴史を探られるのが気に入らない連中がいるんだろうね。だからモンスターで脅かして僕を街から追い出そうとしているんだ」
歴史調査を妨害するためにモンスターを利用する。にわかに信じがたいことだ。だがルークはそれを確信しているのか、モンスターを見据えたまま淀みなく言葉を続ける。
「誰の差し金かは分からないけど、ここで尻尾を巻くようなら相手の思うつぼだ。そんなの気分悪いしさ、ここは歴史改定調査委員会としての意志をきちんと伝えとこうかな」
ルークがコートから拳銃を取り出し――
モンスターに向けて銃口を構えた。
「仕事の邪魔をするなら容赦しない――てね」
ルークから放たれた敵意に、モンスターが一声吠えて駆け出した。ルークとの距離を一気に詰めるモンスター。ルークが迫りくる怪物に向けて拳銃の引き金を引く。
銃口が跳ねて銃弾が空間を貫く。客観的に狙いは正確に思えた。だが殺傷能力を秘めた銃弾はモンスターの全身を包んでいる硬質な鱗にあっさりと弾かれてしまう。
「わわわ!?」
速度を緩めず迫りくるモンスターに、ナタリーは慌てて廊下に退避した。モンスターが跳躍してルークに飛び掛かる。最悪の事態が脳裏に浮かぶも、ルークは軽やかに横に飛び退いて、モンスターの振り下ろした肉厚の爪を回避して見せた。
「……なかなか硬い体だね」
モンスターから距離を空けつつ、ルークがポツリと呟く。その口調に焦りの色はない。ルークがモンスターに銃口をまた向ける。
今度は二度銃口が跳ねる。ルークを睨んでいたモンスターの頭部が後方に弾ける。廊下に身を隠しながら、ルークとモンスターとの戦いを呆然と見つめるナタリー。モンスターが跳ねた頭部を元に位置に戻し、閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
モンスターの瞼の奥には、これまで同様に凶器を孕んだ赤い瞳が輝いている。
「へえ……眼球まで硬いのか。これは拳銃だけだと少ししんどいかな?」
「ややや、やっぱり逃げましょう! こんな怪物に勝てるわけがありませんよ!」
モンスターを刺激しないよう注意しながらルークにそう声を掛ける。ルークがちらりとこちらを一瞥して、だがすぐにまたその視線をモンスターに戻した。
「言っただろ? そんなことすればモンスターを仕向けた連中の思う壺だって。僕は人を見下すのは大好きだけど、人に見下されるのは大っ嫌いなんだよ」
「そんなこと言っている場合です!? あとその性格最悪ですよ!」
「ただまあ一人で相手するのは面倒かな。というわけでソフィア」
「にゃんにゃん」
ソフィアが可愛らしいニャンコポーズで応える。恐らく深い意味などないだろう。ソフィアがピョイと廊下からロビーに入り、モンスターの背後へと駆けていく。
「え? ちょっとソフィアちゃん! 危ないから戻ってきてください!」
ソフィアがトテトテと軽い足取りでモンスターに接近していく。ルークを赤い瞳で睨んでいるモンスター。その背後を少女が無造作に通過しようとしたところで――
鞭のように振られたモンスターの尾が、少女の小柄な体を弾き飛ばした。
「――ソフィアちゃん!」
ソフィアの体が勢いよく扉に衝突、木製の扉を突き破りその部屋の奥に姿を消した。ナタリーの背筋が凍える。ルークがきょとんと目を瞬いて困ったように頬を掻いた。
「あれ……ちょっと計算が違ったかな?」
「……ちょっとって――」
ナタリーの声が震える。木製の扉を破壊するような衝撃。それを小柄な少女がまともに受けたのだ。無事で済むはずがない。少女は恐らく死んでしまったはずだ。
だというのに、ルークにはそれを悲しむ素振りさえ見られない。なんとも平然としている。彼のその非情な態度にナタリーの中でふつふつと怒りが沸き起こる。
(だから……わたしは早く逃げようと)
胸が引き裂かれる思いだ。だがモンスターが突如として上げた咆哮に、その怒りや悲しみの感情が一瞬で恐怖に塗り替わった。モンスターが牙を剥いてルークに襲い掛かる。
「うわっ!」
ルークがやや慌てたように横に大きく飛び退く。モンスターの牙をスレスレで回避したルークが、地面をゴロゴロと転がりながら拳銃を発砲した。だがやはりルークの銃弾はモンスターの鱗に弾かれるだけに終わる。
「ルークさん! もう駄目です! 逃げましょう! もしまだソフィアちゃんが生きているなら、今から救助を要請すればソフィアちゃんを助けられるかも知れません!」
再度ルークに声を掛ける。だがやはりルークは首を縦には振らなかった。
「だからそれは駄目だって。歴史改定調査委員会としてのプライドが許さない」
「そんな意地を張らない――ルークさん!」
モンスターが鋭い爪をルークに振り下ろす。頭上より迫りくる脅威を、ルークが半身になり紙一重で回避する。そしてまた床を蹴りモンスターとの距離を空けた。
間髪入れずに攻撃を繰り出してくるモンスター。その動きは巨体に似合わず素早いものだ。しかし高速に振られる攻撃の全てをルークが的確に躱し続けていく。
モンスターの攻撃を必要最低限の動きだけで対処するルーク。その彼の並外れた動きに驚愕する。戦いに関して素人のナタリーでも彼が只者でないことは容易に知れた。
だが人間の体力が獣のそれに勝るわけもない。いずれモンスターの攻撃を躱しきれなくなるだろう。実際のところ、ルークの表情には僅かに疲労の色が滲み始めていた。
(どうするつもり――あ!)
モンスターの攻撃を回避していたルークがその足を止める。彼の背後には資料館ロビーの象徴でもある巨大な壺、『万物の受け皿』を乗せた台座があった。
モンスターが鋭い牙を剥いてルークに襲い掛かる。台座のせいで後方に回避することはできない。横に回避しようにもモンスターとの距離が近すぎる。
(もう駄目――)
ナタリーが胸中で悲鳴を上げたその時、ルークが床を強く蹴った。
左右に後方と逃げ場のない状況でルークが取った行動は、モンスターに向かっていくという目を疑うものであった。驚愕に息を詰まらせるナタリー。体勢を低くして駆け出したルークがモンスターの開かれた顎の下に体を滑り込ませる。そして――
そのままモンスターの股を潜り抜けて、モンスターの背後へと素早く抜けた。
「ソフィア! 今だ!」
ここでルークが声を上げる。
ルークの叫んだ名前に「え?」と疑問符を浮かべるナタリー。するとその直後、台座に飾られていた巨大な壺、『万物の受け皿』がぐらりと大きく傾く。そして――
巨大な壺が台座から落下して、その真下にいたモンスターの脳天を直撃した。
巨大な壺が砕けて周囲に破片を散らせる。巨体を一度震えさせて崩れるように床に倒れるモンスター。クルクルと目を回す怪物にナタリーが呆然としていると――
「ピース」
壺が飾られていた台座の上で、ソフィアがピースサインをした。
「思ったより際どかったかな……」
安堵したように嘆息するルーク。ソフィアが台座からピョンと跳び下りて、ルークのもとに歩いて近づく。拳銃をコートの中にしまったルークが、近づいてきた少女の銀髪にポンと手を乗せる。
「壺を落とすタイミングは完璧だったよ。さすがソフィア。頼りになるね」
「それほどでもある」
「まあ最初に敵の攻撃を受けて、準備に手間取ったのは困りものなんだけどね」
「それほどでもない」
賛辞は素直に受諾して、苦言は素直に拒否するソフィア。少女の何とも都合良いその対応に苦笑しつつ、ルークが少女の銀髪を優しく撫で始める。
二人のやり取りを遠目に眺めて、ナタリーは呆気に取られていた。二人の会話から何となく状況を理解する。強固な鱗に覆われたモンスター。だがその怪物も巨大な壺を叩きつけられた衝撃自体を防御することはできなかった。そういうことだろう。
(だけどどうしてソフィアちゃんが……)
ソフィアは確かにモンスターの攻撃を受けたはずだ。扉を破壊するだけの衝撃を受けて無傷などあり得ないが、ルークに頭を撫でられている少女に怪我の様子は見られない。
(あたしの……見間違い?)
そう強引に納得しようとしたところで、ナタリーはある重大な事実にふと気付いた。
「――って、ああああああああああ! 『万物の受け皿』がああああ!」
ナタリーはそう絶叫すると砕けた壺の破片に駆け寄った。一〇〇年前に造られた歴史的価値のある遺産。マーキュリー教の教えを表現した芸術品。その貴重な壺の変わり果てた姿にナタリーは絶望的に声を震わせた。
「どどど、どうするんですかコレ! 粉々ですよ! 不味いですよ! 接着剤はないんですか!? あるいは溶接ですか!? どこかに粘着質なストーカーさんはいませんか!?」
「まあ落ち着いてよナタリー」
憎たらしいほど冷静なルークに、ナタリーは手を戦慄かせながら絶叫する。
「落ち着けるわけありません! これは一〇〇年も前に造られた大切な――」
「それ多分嘘だよ。だってこの壺ここ最近――正確には二十年前に造られたものだから」
ぽかんと目を丸くする。ソフィアの頭を撫でながら、こちらを何食わぬ顔で見ているルーク。ナタリーはズレた眼鏡を整えると、慎重に呼吸をしながら尋ねる。
「えっと……どういう意味ですか?」
「そのままの意味だけど。まあこれはただのレプリカで、本物の壺がどこかにあるのかも知れないけどね。少なくともこの壺自体には大した価値なんてないよ」
なぜかそう断定して、ルークがハラハラと手を振る。
「それよりもモンスターが気絶している間にここを出ようか。のんびりしていると、このモンスターの所有者がまた何か仕掛けてこないとも限らな――」
ここでルークの言葉を遮るように――
資料館の正面扉が音を立てて開かれた。
慌てて正面扉に振り返る。開かれた扉の奥に見える外の景色。そこから無数の人影が姿を現して資料館のロビーに整列した。とても清潔とは言えない薄汚れた服装の屈強な男たち。その彼らの手には――
黒光りする小銃が握られている。
「歴史改定調査委員会の調査員だな」
ロビーに粗雑な声が響き渡る。固唾を呑んで正面扉を見つめるナタリー。ロビーに整列している男たちの間を抜けて、一人の青年がナタリーたちの前に立ち止まる。
二十代前半と思しき青年だ。短髪にした黒髪にナイフを彷彿とさせる鋭い瞳。服装は他の男同様に薄汚れているも、鍛え上げられた肉体がその貧相な気配を打ち消していた。
「お前と話がしたい。悪いが俺たちと一緒に来てもらおうか」
「……知らない人について行っちゃいけないと死んだ親から言われているんだけど?」
茶化すようにルークが言う。短髪の男がやや不機嫌そうに眉間にしわを寄せ――
溜息まじりに呟く。
「革命団のリーダー。サム・ジブソンだ」