84、幻影
「メリア……?」
彼女の名を呼ぶ声が、微かに震える。
いつも戦闘で負けたことのないメリアが、倒れ込んだまま起き上がらない。
エレヴィオーラさんが吸い込んだ煙を吐き出し、真っ赤な唇を開く。
「あちきの魔法は『幻影』。幻影の攻撃は実体には何の影響もないでありんすが、一度傷を認識した者は頭が勘違いをして精神に傷を負う。見なんし、アルストロメリアの身体に刺し傷はないでござりんす」
彼女の言う通り、メリアのワンピースも畳も綺麗なままだ。
ゆっくりと歩み寄ったライナードさんが、片手に握った剣を振り上げる。
「死ね」
短く吐き捨て、彼が剣を振り下ろそうとした。
刹那、目の前にいつかの記憶が蘇る。
床に座り込んだ少女。振り上げられた青い剣。ステンドグラスから差し込んだ金色の光が刀身に反射し、眩い光を放つ。
「やめろぉおおおおおおっ!」
咄嗟に俺は畳を蹴り、絶叫を上げて飛び出した。
目の前の幻が掻き消え、目にも止まらない速さでライナードさんが剣を振り下ろす。
間に合わない!
咄嗟に右手を伸ばし、メリアの前に波紋が生まれる。
しかし、その波紋は硝子を割るよりも容易く破られた。
一歩一歩があまりにも遠い。絶望が絡みつき、足を引っ張る。
頭の中で秒針が鳴り響き、一秒一秒コマ送りになりながらメリアの首に刃先が吸い込まれていく。
「メリア―――――ッ!」
無意識に喉をつんざいた叫びが、迸る。
「ライナード」
瞬間、璃穏さんに呼び止められたライナードさんの動きが止まった。
彼の声はあくまでも穏やかだ。しかしライナードさんは舌打ちを打つと、剣を引いて鞘に納めた。
「いやぁ、素晴らしいねぇ。少女の為に捨て身で飛び込む少年。うん、実に美しい」
しきりに頷いていた璃穏さんは、ゆっくりと俺達の方へ歩いてくるとライナードさんの隣に並ぶ。
「アルストロメリアちゃーん。大丈夫ぅ? 生きてるぅ?」
ライナードさんの隣に立ち止まった璃穏さんの呼び掛けに、メリアがゆっくりと身体を起こした。
「……最悪の気分ですわ」
「そりゃそうでしょう。普通の人間なら死んでいてもおかしくござりんせん」
璃穏さんの傍にエレヴィオーラさんが寄り添い、煙管に口を付けて煙をくゆらせる。
メリアは数回咳き込むと、口から零れ出た血を手の甲で拭った。
「別にあのまま斬られてもよかったんだけどぉ、どうせならアルストロメリアちゃんも一緒に一期君達に話してほしいなぁ」
「話って、何の?」
俺の質問に、璃穏さんはにこっと微笑む。
「おれたちドラゴンの話。その前に、もう一度ちゃんと自己紹介するねぇ」
そう言うと彼はエレヴィオーラさんに目配せした。
「あちきはエレヴィオーラ。よろしくしておくんなんし」
煙を吐き出して名乗った彼女は、ちろりとライナードさんに視線を向ける。
「……ライナード。別に馴れ合う気はない」
溜息をつき、顔を背けながら彼が名乗る。
「ほらぁ、アルストロメリアちゃんもぉ」
璃穏さんが促し、メリアが俺達から顔を逸らす。
「……アルストロメリア」
「違うでしょぉ? アルストロメリアちゃんにはもっと素敵な二つ名があるでしょう?」
ボソッと呟いたメリアに璃穏さんがにこやかに言い、彼女は諦めたように目を閉じた。
「……わたくしは同族殺し、アルストロメリアですわ」
「それで、おれが璃穏ねぇ」
メリアの後に続いて璃穏さんが名乗る。その時、恐る恐るといったようにリックが手を上げた。
「あの、皆さんがドラゴンならお一人足りないですよね?」
「お、君よく知ってるねぇ」
リックの言葉に璃穏さんは嬉しそうな顔をする。
「父上……クオンはね、もういないんだぁ」
「え?」
彼の意味深な言葉に、俺達は怪訝な声を出してしまった。
「そういえば、一期君に見せたいものがあるんだったぁ」
璃穏さんが思い出したように手を叩き、襖を開けて廊下に出る。
「皆、ついて来てぇ」
結った黒髪が背中で揺れ、俺達はその後ろにぞろぞろとついていく。
日本家屋の奥深くまで歩いていき、璃穏さんはある引き戸を開けた。
「あっ……!」
それを見た瞬間、俺は驚愕に目を見開く。
ひらり、と薄紅色の花びらが足元に舞い落ちた。
開かれた裏口のような引き戸の向こう。そこには満開に咲き誇った一本の桜の樹があった。
「サクラ……?」
呆然とミュンツェさんが呟く。そういえば、ミュンツェさんは日本に行ったことがあるんだったか。
「ああ、ミュンツェ君はこの花を知っていたね」
璃穏さんが納得したように呟き、振り返って順繰りに俺達と目を合わせた。
「これは桜。この世界と一期君の世界を繋ぐ樹だよぉ」