71、コレル
今日、死ぬか。明日、死ぬか。
路地裏の生活は、常に死と隣り合わせだった。
食べ物にありつけなくて餓死するか。夜の冷気に凍死するか。不衛生な環境で病にかかり病死するか。
母の顔も、父の顔も憶えていない。
ただ、いつも一緒にいる弟の存在が、コレルの全てだった。
運がよければ施しが、そうでなければゴミを漁り泥水を啜るような、そんな生活に終止符が打たれたのは辛うじて記憶していた年齢が十を迎えた時だった。
後に聞いた話だと、藍色の耳を持つ男が自分達を拾ったのは、単なるきまぐれらしい。
そんなきまぐれに掬い取られた彼女達に待ち受けていたのは、暗殺者になる為の過酷な訓練だった。
ギルドの刻印を押され、小柄なコレル達に与えられた武器は、短剣。訓練は恩人であるゼスに短剣で斬りかかるという、ひらすら無謀なものだった。
ゼスという男はギルドの中でも幹部に名を連ねる実力者で、そんな男から一本取るなど無理も甚だしい話だ。
しかし、そんな中で弟であるルコレは、咲かせてはいけない才能を開花させていった。
彼は自分とは桁違いのスピードでゼスに襲い掛かり、数え切れないほど刃を交え、徐々にその威力を増していく。
そしてコレルもまた、彼には及ばないものの小さな才能の芽吹きを感じさせた。
彼女達の成長を察したゼスは、ある日一つの依頼をコレル達に持ち掛けた。
それはとある富豪の殺害依頼だった。その富豪は金を惜しみ警備を最低限にしか用意していないという、依頼の難易度としてはかなり低いものだった。
しかし屋敷に忍び込んだ彼女達は、その依頼を達成することができなかった。
コレルが、富豪の命を刈り取る瞬間に怖気づいてしまったのだ。
短剣を引いた彼女の隙を逃さず、富豪は警備を呼び、追われたコレル達は警備を補助に入っていたギルドの仲間になすりつけるという、散々な結果に終わった。
結局その富豪は警備ごとゼスが殺し、ギルドに戻ったコレル達を仲間は激しく詰った。
幼い少女と少年を、仲間達は容赦なく蹴り、殴り、唾を飛ばしながら罵倒し、二人の自尊心を踏みにじった。
コレルには耐えられなかった。自分の失敗のせいで、弟が暴行を受けているという事実に。
自分のせいで、ルコレが傷つけられている。
ルコレが怒られている。罵られている。殴られている。
理不尽な暴力が、暴言が弟を襲い、傷つける。
一際強くルコレが殴られた瞬間、コレルの中で何かが切れる音がして。
視界が真っ赤に染まった。
「コレル……?」
弟の、震える声にコレルは我に返った。
「え……?」
彼女は辺りを見回し、自分の手を見つめて呆然と立ち尽くした。
今まで暴行を行っていた仲間達が、血の海に沈んでいる。静寂とむせかえるような鉄の匂いに満ちた倉庫の中で、自分の手は短剣を握り赤黒い血に塗れていた。
「これ、コーが……?」
「違う!」
掠れた声で呟いたコレルの声を掻き消すようにルコレが叫び、彼女に駆け寄って少女の身体を強く抱きしめた。
「こいつらは、同士討ちをしてこうなったんだ。コーの手が汚れてるのは……汚れてるのは鼻血が出ちゃったからだよ! だから大丈夫。大丈夫だよ……!」
必死に取り繕う弟の嘘に身を委ね、コレルは目を閉じた。
薄っすらとだけど、憶えている。自分が短剣を手に取り、彼らに斬りかかったことを。
許せなかった。弟が理不尽に傷つけられることが。
だからコレルは、斬った。
そこには、一切の躊躇がなかった。
「コレル、逃げよう! ルー達はここにいちゃダメだ。早く、ここから逃げよう……!」
ルコレは姉の手を取り、飛び出した。
少年と少女は駆けた。刻印を背負い、短剣を持ち出して、夜の王都を、路地裏を、ただひたすらに駆け抜けた。
そうして逃げて、逃げて、逃げて。
やがて力尽きて、二人は膝をついた。
そこはよく見知った路地裏だった。ゼスに拾われる前に、彼女達が生活していた路地裏。
ああ、ここで死ぬのだとコレルは悟った。
結局自分達は遠回りをしただけで、この路地裏で死ぬ運命だったのだと。
食べ物にありつけずに餓死するか。夜の冷気に凍死するか。不衛生な環境で病にかかり病死するか。暗殺ギルドに裏切り者として殺されるか。
「ルコレ、ごめん……」
コレルは弟に謝った。彼ならば、もしかしたらギルドの中でも生きていけるかもしれなかった。そんな彼の居場所を奪ったのは他ならぬ自分なのだ。
ルコレは、繋いでいた手を強く握った。
「どこに行っても、ルーはコーとずーっと一緒にいるからね」
そう言って無邪気に笑いかける弟の姿に、コレルはくしゃりと顔を歪ませた。
「ルコレ……」
……ああ、死にたくない。
死にたくない、死にたくない、死にたくない!
不意に沸き上がった衝動に、コレルは驚く。
それは決して美しいものではないのだろう。
それでも、少女は生きたいと、死にたくないと願ってしまった。
「……誰か、助けて……」
ぽつりと零れ落ちた呟きは、路地裏に吸い込まれて返ってこないものだと思っていた。
「……どうしたの?」
突如降り注いだ声に、コレルとルコレは目を見開く。
目の前に、一人の少女が立っていた。
「……ああ、君達も帰る家がないんだね」
金髪の少女は青い花の髪飾りを揺らし、端の焦げたペンダントを提げて夢見心地の声で呟く。
「……おいで、一緒に帰ろう ……帰る家がないのは、寂しいもんね」
人間離れした美貌で微笑む少女が差し出した手を、コレルは、ルコレは縋る思いで掴んだ。
それが、運命の交差点。