30、テネレッツァ
あの日のことは、よく憶えている。
よく晴れた日だった。
家の前で遊んでいたレティーと幼馴染の少年は、突然起こった地震に驚き、その場に伏せてやり過ごした。
地震はすぐに納まり、しばらく様子を見ていても何も起こらなかったので、二人は遊びを再開しようとした。
その時、不意に太陽が翳り、不審に思ったレティーは空を見上げた。
それは、まるで影が形を持ったかのようだった。
尖った牙。鋭い爪。太い尾に、青空に広がった両翼は真っ黒な鱗で覆われ、黒々としたその姿は見たこともないような生き物の姿をしていた。
「ドラゴン……」
幼馴染の口から零れた呟きに、あの生き物はドラゴンというのか、と思ったことを憶えている。
ドラゴンは空で羽ばたいたまま首を天に向けると、裂けたような大きな口を開けて咆哮を上げた。
まるで悲鳴を上げているようだった。その声は、何故だかとても悲しい声のように思えて、徐々に掠れていく音が、妙に物悲しかった。
声が消えたと思った次の瞬間、ドラゴンの胸が膨らみ、口の端から火花が飛び散る。
そして、仰け反ったドラゴンの口から勢いよく炎が吐き出された。
真っ黒な炎は森の中に吸い込まれ、爆発音と共に燃え上がる。
黒く澱んだ火はあっという間に回り、木々や建物、そして人や精霊を飲み込んでより一層燃え上がった。
気付けばレティーは母に抱きかかえられていた。
母の足元には幼馴染が一緒に走っており、彼の手に抱えられた父の大切な木箱に、嫌な予感が背筋を震わせた。
「お母さん……お父さんは?」
息を切らせて走る母の腕の中で、レティーは声を震わせる。
娘に目を落とした母は口を引き結んで首を振り、その意味が理解できなかったレティーは何度も叫んだ。
「ねえ、お父さんは? お母さん! お父さんは!? お父さん! おとうさん‼」
声が裏返るほど叫ぶ彼女を止める声はない。
母の髪で揺れた青い花の髪飾りを見たレティーは、何かを察したように目元を歪ませ、父を呼ぶ声に嗚咽が混じった。
その瞬間、彼女達の背後で火が爆ぜ、木々が倒れ込む。
「エル!」
間一髪逃れられなかった少年の上に木が倒れ、小さな人影が下敷きになった。
「シュエルツ!」
「エルぅ!」
悲鳴を上げる親子の前で木が燃え、煌々(こうこう)と光り輝く。
木の下からわずかに伸びていた手も炎に飲み込まれ、身を引き裂かれるような悲鳴が木の下から迸る。レティーの絶叫が上がった。
「……ごめんなさい! シュエルツ!」
レティーの耳元に母の声が届く。
下敷きになった少年に背を向け、再び駆け出した母の腕の中でレティーは必死にもがいた。
「お母さん! エルが、お母さん‼ エル‼ 嫌ぁああああっ‼」
幼馴染の愛称を叫び、半狂乱になって暴れまわる娘を母は絶対に離そうとしない。
母の足は止まらなかった。仲間の絶叫も、森の中で燃え移る火も彼女の足を止めなかった。
そんな母の足が不意に緩み、レティーは怪訝に思って顔を上げた。
彼女達の目の前には、大きな泉とそれを上回るほどの巨大な大樹がそびえ立っていた。
泉はどこまでも澄み切っており、大樹の根まで見える。それなのに底が見えないということは、相当深いのだろう。大樹も見上げれば頭が背中にくっつきそうなほどで、今までレティーが見てきた木の中で間違いなく一番大きいと断言できた。
レティーは、この泉が母が寝る前に語ってくれた昔話に出てくる泉だと、すぐに気が付いた。
その瞬間、森の方から焼け焦げるような熱風が押し寄せ、同時に炎の渦が木々を乗り越えて迫ってくる。
レティーは声にならない悲鳴を上げ、肩越しに炎を見た母は顔を戻して娘に視線を落とすと、不意に微笑みを浮かべた。
「レティー。あなたのこれからの人生が、幸せなものでありますように」
慈愛に満ちた母の瞳が。震えそうなほど感情の籠った母の言葉が。一粒だけ流れた涙と共に、愛する娘に向けられる。
次の瞬間、母はレティーを泉の中へと突き落とした。
「おかあさんっ‼」
一瞬だけ宙に浮かんだレティーが叫んだ声に、母は笑顔で彼女を見つめる。
背中から泉の中に落ちる。痛い。冷たい。
水が目に滲み、ぼやけた視界の中、水の中に落ちてきた何かに必死に手を伸ばした。
レティーは水の中に沈みゆく中、意識を手放した。
目が覚めた時、レティーは喉の奥に溜まっていた水を思わず吐き出し、その場で咳き込んだ。
呼吸を整え、起き上がったレティーは傍に誰かがいるような気がして声をかける。
「だれ……?」
「…………」
返事は返ってこず、姿は見えない。
それでもレティーは誰かが寄り添ってくれている、と確信した。
ふと自分が何かを握りこんでいることに気が付き、レティーは手を開いて目を落とす。
それを見た瞬間、息を呑んだ。
彼女の手に握りこまれていたのは、青い花の髪飾りだった。
いつも母の髪で揺れていた、父が贈った髪飾り。
「おかあ、さん?」
意識を失う前、最後に見た母の姿を探す。
しかし、そこには泉と大樹、そして周囲を取り囲む黒々とした炎しかない。
刹那、里の方で金色の光が膨らみ、爆風と共に金色の炎が広がった。
「ひっ」と声を裏返らせたレティーを何かが包み込み、彼女の周りで金色の炎が黒の炎を蹴散らす。
黄金色に煌めく炎は一瞬燃え上がると、次の瞬間には掻き消えるように消えた。
「おかあ、さん……」
レティーは顔を歪めて立ち上がり、ふらふらと覚束ない足取りで里の方へと向かう。
彼女の後ろを、何かがゆっくりと追った。
木々は燃え尽き、辺りは焦土と化している。燻る大地を踏みしめ、レティーは視線を彷徨わせながら歩く。
ふと地面に何か落ちていることに気が付き、彼女はしゃがんでそれを拾った。
「あ……」
手に取ったそれに、声を失う。
歪に削り出された、木彫の端が焦げたペンダントトップ。
いつも少年の首にかかっていた、自分が贈った首飾り。
「エル?」
足から力が抜け、座り込んだレティーは何かを探し求めるように視線を巡らせる。
しかし、周りには木々すらなくなり、足元には真っ黒な煤だけが残っていた。
「あ……ああ……あああああっ」
髪飾りとペンダントトップを握りしめ、天を仰いだ少女の口から叫び声が漏れる。
「うぁああああああああああっ‼」
全てを察したレティーは、涙を流し慟哭を上げた。
『レティー』
レティーの耳元で、彼女の名を呼ぶ声が蘇る。
『レティー』
彼女の頭を撫でた父が。
『レティー』
手を繋いだエルが。
『レティー』
迫りくる黒い炎を背景に、微笑んだ母が。
愛する人々の声が、蘇る。
その日、少女は全てを失った。