26、とあるエルフの少女の記憶
「レティー、お母さんが昔話をしてあげる」
幼い頃。ベッドの中で囁く、母の優しい声が大好きだった。
「昔々、レティーのおじいちゃんが生まれるよりもずーっと昔。お母さん達のご先祖様は、世界中を旅してお家を建てる場所を探していました」
母が頭を動かす度、青い花の髪飾りが揺れる。父が贈ってくれたと教えてくれた時、母は今までに見たこともないような幸せそうな顔をして笑っていた。
「やがて、ある国を旅していた時、ご先祖様は、とある森に行き着きます。そこは綺麗な川が流れ、果物が実り、動物達が駆けまわるとても素敵な場所でした」
ぽん、ぽん、と母が自分の背中を叩く振動が心地よい。
「ご先祖様達は喜びました。ようやく理想の場所を見つけたと。しかし森の奥まで入ったご先祖様は、ある泉を見つけます。
その泉の水はとても澄んでおり、底が見えない程深く、そして泉の真ん中には一本の木が生えていました。
世界中を旅したご先祖様でも見たことがないほど、とても大きなその木をご先祖様達が見上げていると、突然泉が輝き、中から一人の女の人が出てきました。
その女の人はこの世の者とは思えないほど美しく、ご先祖様達は見とれてしまいます。実は女の人は森を護る大精霊でした。
ご先祖様は大精霊にここに住まわせてほしいとお願いします。それを聞いた大精霊は、一つの提案をしました。
『年に一度、泉にお前達の魔力を納めなさい。そうするのならば、森に住むことを許しましょう』
ご先祖様はその提案を受け入れました。そうして森に住み始めたご先祖様達は一年に一回、長と呼ばれる人が泉に魔力を奉納するようになりました。
その儀式は代々受け継がれています。実はね、今、泉に魔力を納めているのはお父さんなのよ。
大精霊との約束は決して忘れてはなりません。レティー、この約束は貴方が受け継いでいってね」
話し終えると、母はいつも必ず自分の頭にキスを落とした。
母はこの話を毎晩寝る前に語ってくれた。その時間は少女にとってとても大切な物だった。
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「レティー。お父さんがいい物を見せてあげよう」
自分を膝の上に乗せた父は、そう言うと机の上に置いた箱の蓋を取った。
いつもは決して触ってはいけないと言いつけられていた、父の大事な箱が開けられる。
そこには、一つの結晶が入っていた。
大人の拳程の大きさの薄い水色の結晶は、箱の木目が透けて見える程透き通っている。少女はその結晶に宿る純粋な魔力を子供特有の鋭敏な感覚で感じ取り、そっと息を呑んだ。
「これはね、この里の奥にある泉の大精霊様が下さった結晶なんだ。泉の中でとても長い時間をかけて作られた物らしくてね。この結晶には精霊が宿ることができる力があるらしい」
「触ってみな」と、促された少女は恐る恐る手を伸ばす。ひんやりとした表面に指が触れた瞬間、結晶の中の魔力が渦を巻くように動き出したのを感じた少女は驚いて手を引っ込めた。
少女の様子ににっこりと微笑んだ父は、彼女の頭を優しく撫でる。
「レティー。この結晶はとても大切な物だから、決して失くしてはならないよ」
父の声が、温かい掌の熱が、少女の記憶に刻み込まれる。
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「レティー」
手を差し出した少年が、少女の名を呼ぶ。
エルフは成長が緩やかである。ほんの十歳程度の子供にしか見えない目の前の少年も、実際はこの世に生を受けてから二十五年という歳月を過ごした。
少し癖のある銀髪。銀色の瞳が納まった切れ長の目と薄い唇は綺麗な配置をされており、一見地味に見える彼の顔立ちはよく見ると上品な造りとなっている。
尖った耳とすらりとした体躯は実にエルフらしく、少女の幼馴染である彼の胸元でペンダントが揺れた。
歪に削り出された木彫のペンダントトップ。少女が自らの手で作り出したそれを贈られた少年は物凄く喜び、それ以来必ずと言っていいほど少年の首にかかっている。
少年の手を掴む。彼は少女の手を引いて木漏れ日の中を駆け出した。
少女に合わせて速度を落として走る二人を、森の中の精霊達は微笑ましく見守る。
自分の家の前を通り過ぎた時、母と彼女と契約を交わした精霊達、家の中から出てきた父が、二人に声をかける。
「レティー」
洗濯物を抱えた母が。
「レティー」
宙を駆ける少女の姿をしたシルフが。
「レティー」
川のようにうねった髪のウンディーネが。
「レティー」
褐色の肌のサラマンダーが。
「……レティー」
木の根元に座り込んだノームが。
「レティー」
扉を閉めた父が。
「レティー」
振り返った少年が。愛する人々が、彼女の名を呼ぶ。
少女は差し出される愛を受け取り、零れ落ちるような笑顔を浮かべた。
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人々に愛され、彼らを愛したエルフの少女の穏やかで幸福な日々は。
ある日突然崩れ落ちた。