10、犬のような気分
おかしい。俺が何をしたと言うんだ。
メリアが汚物を見るような目を俺に向け、ミュンツェさんの笑顔がどこか冷ややかなものになっている。
こんな筈じゃなかったのに。
彼らに囲まれながら、一人の少女が捲っていた一冊の本をパタンと閉じた。
俺には、それがまるで死刑宣告を告げる音のように感じられた。
俺は、一体どこで間違えたのだろう。
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「おはようございます、イツキ様。湯浴みの準備が整っております」
朝、目覚めたばかりで寝惚け眼な俺にそう告げたのは、執事長であるという老紳士だった。
「浴室までご案内いたします」
そう言った執事長さんについていくと、どこか湿った空気が漂う一室に連れてこられる。脱衣所か何かだろうか。
「失礼いたします」
執事長さんがそう言ったかと思うと、抵抗する暇なく早業で服を剥ぎ取られ、気付けば俺はお湯が張られた浴槽へと浸かっていた。
「お湯の加減はいかがでしょうか?」
「あ、大丈夫です」
頭の方から執事長さんが逆さまに覗き込んできた。ところで、この人は腕まくりをしているが、一体何をするつもりなのだろう?
「失礼いたします」
と、いきなり頭を掴まれ、俺は何をされるのだろうかとギョッとしたのだが、頭皮を擦る感覚に俺は頭を洗われているのだとすぐに察した。
「痒いところはございませんか?」
「は、はい。大丈夫です……というか、自分で洗えます!」
「まあまあ、お気になさらずに」
お気になさるわ! と思ったのだが、考えてみれば床屋に来たのと同じことだろう。俺は諦めて、執事長さんに頭を洗ってもらった。
そうして、流石に身体は自分で洗い、綺麗になった俺が脱衣所に戻るとタオルを構えた執事長さんが待ち構えていた。
「失礼いたします」
「失礼いたします」
「失礼いたします」
嫌な予感に俺が浴室へ戻ろうとしたのを察知してか、気付けば俺は身体を拭かれ、気付けば洗濯された制服を身に纏い、気付けば髪を拭われ櫛で梳かされていた。
トリミングに連れて来られた犬のような気分だ。
「イツキ様は、綺麗な漆黒の御髪でございますね。さあ、終わりましたよ」
執事長さんの声に、俺がハッと我に返ると、執事長さんの構える鏡にはいつもより三割増しに美形に映る俺の姿があった。
「これが……俺?」
思わず頬を両手で押さえると、「左様でございます」と律儀に執事長さんが反応したので慌てて顔から手を離す。
「さて、朝食の準備が整っております。イツキ様は随分とお腹が空かれたのではありませんか?」
そう言われると、改めて耐え難い空腹感を認識させられる。そういえば、昨日は夕飯を食いそびれてしまった。
再び執事長さんの案内についていくと、食堂のような場所に辿り着いた。
「やあ、おはよう、イツキ。昨日はよく眠れたかい?」
部屋に置かれた大きなダイニングテーブルには、もうミュンツェさんが席についていた。
「おはようございます。はい、とてもよく眠れました」
執事長さんが引いてくれた椅子に座りながら、俺が返す。メリアが退室した後、ブレザーと靴とを脱いでベッドに潜りこんだ俺は、夢も見ずにぐっすり眠れたのだった。
その時、一人のメイドさんがミュンツェさんの傍に近づいた。
「ミュンツェ様。お客様ですが、朝食はお召し上がりにならないそうでございます」
「お嬢さんが? 昨日の夜も食べていないだろう? どこか具合でも悪いのかい?」
メイドさんの言葉に眉を上げ、ミュンツェさんが聞き返す。
「どうやら、そういうわけでもないようでございます。僭越ですが、軽食をご用意いたしましょうか?」
「ああ、そうしてくれ」
メイドさんの申し出にミュンツェさんが頷き、メイドさんが足早に遠ざかっていく。
「ということらしいんだ。朝食は二人きりで食べよう」
ミュンツェさんが指を鳴らすと、メイドさんが二人ワゴンを押しながら入ってきた。
配膳された料理を見ると、スープ、パン、サラダ、魚料理と日本とそう変わらないメニューが並べられ、そっと胸をなで下ろす。
「食後のデザートはパイになさいますか? タルトになさいますか?」
「お飲み物は紅茶にいたしますか? ハーブティーにいたしますか?」
メイドさん達に問われ、俺が焦って考えている間にミュンツェさんが答える。
「私はタルトと紅茶で頼む。イツキはどうするかい?」
「じゃあ、同じものを」
ミュンツェさんの選んだものを同じものを頼むと、「「畏まりました。ごゆっくりとお召し上がりくださいませ」」と言って、メイドさんが退室していく。
「世界の恵みに感謝を捧げ、その命を頂く」
突然、ミュンツェさんが謎めいたことを言ったので俺が戸惑っていると、気付いたミュンツェさんが教えてくれた。
「これは、食前の祈りの言葉だよ。イツキも言うといい」
「あ、はい。えーと、世界の恵みに感謝を……「感謝を捧げ」……感謝を捧げ、その命を頂く」
教えてもらいながら食前の祈りを捧げると、ミュンツェさんがカトラリーを手に取り、食事を始めたので、俺も手早く手を合わせて「いただきます」と言ってからスープを口に含む。
「……うまい」
「美味しいだろ? うちのシェフは中々腕がいいんだよ」
びっくりして思わず口から出てきた言葉に、ミュンツェさんが得意そうに鼻を高くする。
それにしてもうまい。様々な旨味がスープの中に溶けあい、微かな塩味が全体の味を引き締めている。
空腹だったこともあり、胃に沁みるような味わいを感じながら夢中で食事をとっていると、ふとミュンツェさんが傍らに控えていた執事長さんに話しかけた。
「ところで、昨日頼んだことは済ませてくれたかい?」
「はい。返事も返ってきております。いつでも来て構わないそうです」
詳細を伏せた二人の会話に俺が疑問を感じていると、ミュンツェさんがにっこりと微笑んだ。
「イツキ。食事が終わったらお嬢さんと一緒に出掛けるよ」
次回の更新はお休みさせていただきます。