1、プロローグ
それは、泡沫の記憶。
夢という形で浮上した気泡は時系列も脈絡もなく、片っ端から弾けては消えていく。
それは、魂に刻み込まれた記憶。
確かな、記憶。
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大切な人が、いた。
その人の顔も、声も、匂いも、名前も、何一つとして思い出せないけど。
交わした誓いだけは、憶えている。
我、汝を愛する者。
いかなるときも、永遠なる愛を汝に捧げることを誓う。
我、汝を愛する者。
いかなるときも、久遠に等しい時間の中で汝のみを愛すると誓う。
…………大丈夫。『糸』は繋がった。
これで「 」は、貴方を……―――――。
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ハッと目を開けたとき、俺は耳鳴りがするほどの静寂の中で、自分の視界に映る全ての光景が酷く色褪せ、薄っぺらく見えるような、そんな錯覚に囚われた。
しかし、それも束の間のこと。一瞬止まっていたように感じた心臓もその遅れを取り戻すかのように活発に動き始め、口から息を吸い込むと無意識に呼吸が停止していたのか肺が痙攣するように思わず咳き込んでしまった。
「……ん?」
中々治まらない咳を昼休みに自販機で買ったジュースの残りで何とか抑え込み、一息ついたところで涙の滲む俺の目は、机の端に積まれた教科書の山に気付いてしまった。
取り敢えず一番上に乗っかっていた国語の教科書を裏返してみると、そこには掠れた黒マジックで書かれた「隠神 一期」の名前。
確かに俺の名前だ。ということは、これ全部俺の物か。
よくよく見ると、その教科書は去年使っていた一年生用の物。持ち帰るのが面倒だったので部室に置いておいた筈なのだが……。
そのときマナーモードに設定していたスマホが制服のポケットの中で震えた。
取り出してみると通知自体は広告メールだったが、ステータスバーの端っこに同じ部活仲間からの連絡が表示されていた。
アプリを起動させると、数時間前から幾つかメッセージが送られている。
「新年度になったから部室の掃除しろって生徒会から部長に言われたらしいから、今日の放課後やるってさ
サボらず来いよ笑」
「いつき早く来い! 先生めっちゃ怒ってる‼」
「お前ずっと教室で寝てたの? わざわざお前の教科書持ってきてやったんだから、明日自販でなんかおごれよ!」
そして最後に「分かった?」と人差し指を突き出した少女のスタンプ。
「うざっ」
思わず密かに笑い声を上げながら、俺は「えー…」と面倒くさそうに顔を顰める猫のスタンプを送る。
すると即座に既読がつき、次いで「ムキ―ッ!」と怒りを露わにするモンスターと、「言うこときかないと燃やしちゃうんだから!」という台詞付きの魔法少女のスタンプが送られてきた。
そのスタンプが気になり、タップすると詳細が現れる。
どうやら、この前人気になったアニメのスタンプのようだ。
聞いた話だと魔法のグラフィックが話題になっていたようだが、確かにスタンプにも魔法の描写が多い。
「…………違う」
画面をスクロールし、気になったスタンプを拡大している内に無意識に俺の口から呟きが漏れる。
「……違う、こんなんじゃない」
俺が知っているのは、これではない。
自分の声が耳に届いた瞬間、俺は我に返り思わず手で口を覆った。
「俺、今……」
咄嗟に自分の言ったことの意味を考えようとするも、思考の手を記憶がすり抜けて思い出すことができない。
「やば、寝惚けてんのかな」
ぶつぶつと誰にともなく独り言を言いながら椅子から立ち上がり、取り敢えず鞄に詰めようと教科書の山に手を伸ばす。
その瞬間、握力の足りなかった上と下に挟まれた間の教科書達がずり抜け、俺の上履きをクッションにしながら床に散乱し、否応なしに目を覚まさせてくれた。
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「絶ッ対痣できたってこれ。てか、骨折れてないよな?」
日頃のカルシウム不足を危惧しながら、俺は家への帰り道を特に急ぐこともなく気ままに歩いていた。
「っつーか、荷物クソおめぇ。あいつ、明日会ったらコーヒー牛乳奢らせてやる」
こういうのを逆恨みというのだろうが、あいつはきっと自動販売機の中で一番安い紙パックのジュースくらい快く奢ってくれるだろう。うん、そうに違いない。
そもそも最初から素直に教科書を持ち帰るか、日頃から机の中やロッカーを片付けていればこんな大荷物にはならなかったのだろうけど、なってしまったからには仕方ない。
「あ! てか、ちょっとずつ持ち帰ればよかったんじゃん」
今更気付き、俺は周囲に人が居ないのをいいことに決して小さくはない声量で思うままに喚く。
「ぁー……いいや。もーいーや、気にしない。気にしたらそこで人生終了だ」
どっかで聞いたような台詞を口にしながら天を仰ぎ、ふと夕焼けが暗くなってきていることに気付いて時間を確かめるためにスマホを取り出そうと制服に手を伸ばした。
しかし、ポケットの裏地に引っかかったのか中々取り出せず、丁度目の前の横断歩道も赤信号だったので足を止めて制服に目を落とす。
その途端、突っ張り感が無くなりするりと出てきたスマホにまごついた俺は、上手く掴むことができずにスマホを路上に落としてしまった。
「うっわ、マジか!」
すぐさましゃがみ込み、画面や背面に傷が付いていないかを確認したが幸いなことにフィルムに薄く傷がついただけで済んだ。立ち上がりながら一応一通りのアプリを起動させて、本体にダメージがないかも確認する。
特に変な挙動をすることもなく本当に壊れていなかったことに胸をなで下ろし、最後にカメラをタップする。インカメラもちゃんと使えることを確かめてから、外カメラに切り替えてレンズ越しに遠くを見つめる。
その瞬間、画面に映りこんだ人影に俺はギョッとして思わず目を見開いた。
慌ててスマホから目を離してそこにちゃんと人がいること確認する。
いつからいたのか。車道の反対側には、今時珍しく着物を着た人が歩いて来ていた。
一瞬、幽霊かと思った。そのくらい人間らしくない人だ。
落ち着いた色合いの着物と羽織は、夕焼けの中では色を判断するのが難しい。それとは対照的に、顔を隠している真っ赤な和傘は色鮮やかで印象的だ。傘の柄を握る青白い指は細長いが、裾から伸びる足首は筋っぽい。男女が見分けづらい着物ということも相まってか、いまいち男か女かの判断がしづらい人だった。
ちょうど信号も青に切り替わり、俺はまだ手に持っていたスマホを仕舞いながら横断歩道を渡る。着物の人物もてっきり横断歩道を渡るのかと思っていたがそうではなく、その傍らにひっそりと佇んだ階段を登り始めた。
―――カラン。
下駄の乾いた音が階段を軽やかに登っていく。着物だと動きづらいイメージが拭いきれないが、案外そうでもないのかもしれない。
―――カラン、コロン、カラン…………。
すれ違いざまにふと目を上げると着物の後ろ姿が目に入った。着物って男女で違いあったっけ?確か帯の締め方が違ったような気がするが、着物文化に疎い俺には見当もつかない。そもそも、上に羽織を着てしまっている時点で帯も何もないのだが。
―――カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン…………。
あまり人様の背中をじろじろ見るのも失礼だと思い、俺は目を伏せて帰り道を急ぐ。
それにしても、下駄の音がやけに耳につく。
―――カラン、コロン、カラン、コロン、カラン…………。
……チリン。
その瞬間とても小さく、だが確かな鈴の音が俺の耳に届いた。
その音に、俺の足が止まる。ゆっくりと目が見開かれていくのを他人事のように感じる。
勢いよく振り返った俺の目の端に、掠っていくものがあった。
「桜……? 何で、もう散ったんじゃ………!?」
一枚の薄ピンク色の花びらが、くるくると回転しながらそよ風に乗って舞い落ちてくる。
咄嗟に手を伸ばして花びらを掴みながら、俺は一瞬、落ちてくる桜の花びらを掴めると確か幸せになれるんだっけ。と、少々見当違いなことを考えてしまった。
ふと思い当たることがあって、俺は階段のコンクリートを一段飛ばしで踏みしめた。
俺の住んでいる町には、昔から伝えられている伝承がある。
むかしむかし、かつては小さな村でしかなかったその集落に一人の女の子が生まれました。
他の子供たちと同じように髪は黒かったその女の子には、他人と違うことがありました。
その女の子の肌は雪のように白く、
そして瞳は、まるで血のような赤色だったのです。
集落の者は女の子を『人の皮を被った鬼』と言って酷く忌み嫌い、差別し、女の子は誰も使っていない納屋へと閉じ込められました。
やがて、集落の中で疫病が蔓延しました。
何人も死者が出たその疫病を集落の者は【鬼】の【呪い】と言い張り、女の子を退治すれば疫病がなくなると信じてやみませんでした。
そして、集落の者は納屋の隣に生えていた桜の大樹の元へと、何年も閉じ込められていた女の子を引きずり出しました。
そこで集落の者は、美しい少女へと成長した女の子を縄で縛って押さえつけ、鍬で少女の首を刎ねようとしました。
その瞬間、雲一つなかった空から一本の雷が落ち、桜の木へと吸い込まれました。
立派な大樹だった桜の木は二つに裂け、その境目に一匹の天狗が降り立ちました。
天狗は不思議な力で集落の者たちの体を動けないようにすると少女の縄を解き、彼女を連れて桜の木の向こう側へ飛び降りました。
その途端、身動きの取れるようになった集落の者たちが慌てて桜の裏へ回り込みましたが、そこには女の子も天狗も居ませんでした。
その後、疫病は治まりましたが、女の子の姿を見た者は居ません。
という話だ。
町の住民しか知らないようなマイナーな伝承だったのだが、数年前に誰かがこの話をネットに流したところ、一部ロマンチストのマニア心をいたく刺激してしまったらしく、一時インターネットニュースに載るほどの話題を呼び、更には実際に桜の木が残っていることからたちまち人気スポットとなって桜目当ての観光客が激増した。
そしていつの間にかその桜には恋愛、健康、不屈の精神、出会いなどのご利益があると言われ始め、実際にお参りした人が告白に成功したなどの眉唾ものの話も上がり、ちゃっかりと桜の傍に、伝承について記された看板が増えるほどの経済効果を町にもたらしてくれたのだ。
しかしそれも過去の栄光。今ではそれほど人気ということもなく、時たま思い出したように訪れる観光客を見掛ける程度のことになった。
この階段は伝承の桜へと続く桜並木に出る階段だ。町のHPにもしっかり記載されているし、きっとあの和服の人物も桜を見に来ただけなのだろう。
しかし、今は五月。元々の観光資源であった桜並木も、花はとうに散っている。
そして、そもそも伝承の桜は花が咲かない。
真っ二つに裂けてもなお現代まで生き続けている桜だが、専門家によると雷の影響で蕾をつけるだけの力は残っていないそうだ。
それならば、今俺の手の中にある花びらは何なのか。
一気に階段を駆け上がり、桜並木に飛び出して俺は思い出したように息を吸う。
やはり、並木の桜の枝についているのはどれも青い葉だ。
それならと、今度は伝承の桜へ向けて走り出す。
並木道は比較的整備されていて歩きやすくなっている。ただし、あまり端の方を歩くと桜の根に躓くことがあるので気を付けなければならない。
俺は人っ子一人いないことを幸いに、並木道の真ん中を堂々と突っ走った。
そのとき、六時の定時の放送が流れ始めた。同時に、桜と交互に建てられている街灯が一斉に点灯する。
その光景はちょっとした幻想的なものだが、喘ぐように息を継ぐをする俺には正直その景色を楽しむ余裕はなかった。
不意に、何故俺はこんなに必死になっているのか? と疑問が浮かんだ。
最初は、季節外れの桜の花びらに好奇心を覚えたからだと思った。
しかし、俺は不思議に思っても些細なことなら無視をする性格だと知っている。そのせいで損をしたことも、何度かある。
足の動きが鈍った。走りすぎて息が追い付かなくて、いっそ真っ白になった頭の中でさっきの問いが掻き消される。
―――カランッ。
その瞬間、耳鳴りがする聴覚の中をあの下駄の音が、より一層高らかに打ち付けられた。
そしてようやく伝承の桜の元へ辿り着いた俺は、その光景に瞠目し、暴れまわっていた心臓が止まったような錯覚を覚えた。
一本の大樹。
雷を吸い込み二つに裂けたといわれるその裂け目に、あの人が佇んでいる。
涼風を孕んだ羽織が膨らみ、結い損ねた一筋の黒髪が浚われ、真っ赤な傘が張りを出す。
空には夕焼けと宵が混じりあい、ひっそりと身を置く上弦の月が地上に青白い燐光を落とす。
その月光を受け止めた花びらが、宙を舞い、俺の足元へ滑り落ちる。
俺はただ、目を見開いて愕然と立ち尽くしていた。
蕾を失った筈の大樹の枝に、無数の花が零れるように花びらを広げていた。
それはまるで、全てがその場所に納まるために集められたような。今、この場所にいる自分が酷く場違いなような。そう思わせるほどの、魂が震えるような絶景だった。
いつまでもこの景色を目に焼き付けたいという誘惑に逆らい、自分の血の気を失った手に目を落としてずっと握りしめていた掌を開く。
手汗に濡れた花びらは、重い腰を上げて風に乗り移る。
その姿は、他の花びらと全く同じだった。
不意に、咲き誇る満開の桜の花の下で、花びらの雨に打たれていたあの人が、俺の方を振り返った。
そして、唇を緩ませ、確かに俺に微笑むと突然裂け目の向こう側へ飛び降りた。
「――――待って‼」
その瞬間焦燥に駆られた俺は、咄嗟に手を伸ばして後先考えずに飛び出した。
顔を、髪を、制服を、靴を、鞄を、伸ばした指先を、幾つもの花びらが撫でては消えていく。
そして、裂け目の向こう側へと伸ばした指先が届いた刹那、俺は抗えないほどの力に呑まれて引きずり込まれたと感じた。
瞬時に視界が歪み、あまりの衝撃に目を開けていられなくなる。
耳の中を強風が駆け抜けるような轟音の狭間で、俺はもう一度あの鈴の音が聞こえたような、そんな気がした。
……チリン。
こんにちは、小伽華志です。
どうやら俺の赤い糸はドラゴンに繋がっていた模様です は、隔週月曜日更新を目指して頑張ります。
八人の魔法使い の方も不定期ですが更新を続けていく予定ですので、これからもよろしくお願いいたします!