エドマとベルト
この作品は、檸檬絵郎さまの企画「アートの借景」参加作品です。
「姉さん、寝た?」
「ええ、寝たわ」
「あ、そのまま。そのままブランシュを見ていて。キタから」
「ふふっ、相変わらずね。いいわ、ブランシュもよく寝てる」
フランス北西部・ロリアンに引っ越した年の近い姉、エドマを訪ねる事は、ベルトの一年の中の大切な決まり事になっていた。
幼い頃からエドマと共に教養として習っていた絵がパリのサロンで入選し、喜んだ父親が新進気鋭の画家達を招いて歓談の場を設けてはくれたが、話だけでは少し不満な日々。
高級官僚の娘とあって軽々に戸外に出る事が叶わないベルトにとっては、田舎町に住むエドマを訪ねる事は風景画を描くのに最適な口実であった。
パリにはない景色が描けるのと風景と共に書くエドマの家族は格好の画題で、エドマも結婚をするまでは画家として第一線で活躍していたので諸事情を知っており、モデルとしても慣れたもので助かっていた。
ベルトはスケッチブックにざっと大きく十字を書くと、頬杖をつきながら娘を見る姉とすうすうと昼寝をしている姪をざっとクロッキーで配置していき、細かい描写はせずにゆりかごの位置を決めた。
「ベール、どうしようかな」
「ああ、ゆりかごの? ブランシュの顔が見えないなら上にかがりましょうか?」
昼間の採光がブランシュの顔にかからない様に、ゆりかごの上から薄いベールがかかっていた。立ち上がろうとしたエドマに、いいのいいの、そのままで、とベルトは手を休めずに声をかける。
(あえてベールを残した方が構図が締まる)
赤ちゃんの眠りを妨げない為に、というよりかは画家としての目でもって言ったベルトに、エドマは苦笑して頷く。エドマとて、娘の顔が見えた方がいいか、という親心よりか、構図としてベールが必要なのか否かという目で言った。
「ひどいママンだわ……」
「え、何?」
「いえ、なんでも」
満足のいく素描が出来たベルトは、顔の両脇に下がって来た濃いブラウンの前髪をパサっと上げ、ふぅ、と深い息をついて、再度モデルの構図を確かめるとサイドテーブルにクロッキーを置いた。
「どう?」
「ええ、いい感じよ。印象派展に出す題材を探していたから、これ、いいかも」
ブランシュを起こさない様にそっと立ち上がって側に来た姉に、ベルトは素描を見せる。
「ええ、いいわね。ベールはやはり有る方がいいわね」
母親の顔から画家の顔になった姉を見て、ベルトはぼそりと呟く。
「姉さんも、描いたらいいのに」
「ベルト」
「姉さんだってまだまだ描けるのに、私、やっぱり義兄さまに」
太い眉を上げ声を大きくしたベルトに、エドマは、し、と人差し指を立ててたしなめる。はっとベルトは口をつぐんでゆりかごを見ると、ブランシュは気づく事なくすやすやと眠っていた。
「ごめんなさい、姉さん」
「大丈夫、さすがブランシュね。末子は違うわ。さ、こちらでお茶にしましょう」
言いながら部屋の隅に居たメイドにこくりと合図をすると、メイドはスカートの端を抑えてお辞儀をし、速やかに準備の為に下がって行った。
ベルトは後でキャンバスに色をのせる為、姉の青地に太い黒のストライプ柄のドレスを目に焼き付けながら子供が居る部屋を出ると、ドアで繋がっている居間へ行き、窓のそばのソファにとさっと身体を投げ出すように座っておもむろに言った。
「結婚と同時にやめなくてもいいのに」
それを見たエドマは相変わらずね、と苦笑しながらため息をついて、ゆっくりとドレスの裾が絡まぬように隣のソファに座った。
「貴女はまだ、結婚というものを知らないから」
「知っているわ! 子供が生まれてもこうやってお茶を飲む時間を作れるじゃない。その時間を少し我慢すればっ」
「そういうものではないのよ。今日はたまたまゆっくりお昼寝しているだけ。いつもはもう少し頻回に起きているし、それに……女主人ともなると子育てだけが仕事ではないの」
会話が途切れたのを見計らってメイドが用意したアフタヌーンティーに、礼を言って口を付ける姉は目を伏せて微笑んでいる。
その取り澄ました表情にベルトは腕を組むと、ぷっと横を向いて言った。
「取りつくろったって無駄よ。私が姉さんを描くといつの間にか寂しそうに描いてしまう。筆が正直なの、知っているでしょ?」
「ベルト、腕は組まないの」
「姉さんしか見ていないからいいの。というか、誤魔化さないで」
「癖で恋しい人の前でも出てしまったらどうするの。……私が納得して決めた事だわ」
「私の恋しい人はそんな私も描いて下さるから大丈夫。納得しているのだったら、いつまでもそんな寂しい顔しないわよっ」
終いには立ち上がって睨みつけるベルトを、姉は困った様に見上げて言った。
「私の絵はあれで限界。ベルトの絵を側で見ていて分かったの。私があのまま描き続けていても、貴女以上の伸びはない」
「そんな事! ずっとサロンで一緒に入選してきたじゃない!」
ベルトは信じられなかった。あれ程絵を描く事が好きだった姉が、幼い頃から気がつけば絵筆を持っていた姉が、ただ結婚を決めただけでぱたりと筆を折ってしまったのが。
エドマはそんなベルトをみて、静かに、そして厳かに言った。
「芸術は、残酷よ」
ベルトよりも細くすっとした目はすぐに伏せられ、手元のオレンジ色の紅茶に向かう。
「本人にひたひたと勧告してくるの。逃れても何をしていても絡みついてくる」
色を無くしたオークブラウンの目が紅茶の中からこちらを見つめていた。深淵を覗いてしまったかのような瞳がこちらを見て、ゆらりと揺れて歪んだその顔が、そして、と口を動かした。
「そして私は、それにあらがえなかった」
妹に、というよりかは紅茶の中の瞳に語りかける様に呟く姉の姿を見て、こくり、と喉を鳴らしたベルトに、はっとしたエドマは慌てて言葉を繋げる。
「もちろんこれは私の感覚よ。あなたにはそんな事は無いから安心して、私が保証するわ」
「何の保証よ、訳が分からないわ」
「側にいた私が一番分かっているわ。あなたは画壇に名を残す人よ。間違いない」
「そんなの誰も分からないのに」
「分かるわよ、あのマネが、ルノワールがあなたを認めている。女性という枠をこえてあなたを評価している。それは凄い事よ?」
ベルトは立ったまま、両手で自分を抱きしめて言った。
「それが、正当な評価だと思う?」
「ベルト……」
青ざめ、唇を震わせて放つベルトの言葉にエドマはすっと立ち上がった。
小刻みに震えるベルトをエドマは強く抱きしめた。
「あなたが、何をしていようと、何を思っていようと関係ない。サロンで、フランスの画壇で評価されている事実に変わりは無いわ」
サロンに渦巻く噂はこの田舎町にも届いていた。絵の手ほどきを受けているマネとの噂も。
「あの人が……ずっとサロンに出展しろって言ってくるの……私は印象派に出したいのに……」
「折り合いがつかなくなったら離れればいいのよ」
「そうしたら私の評価が……」
「下がる事はないわ。芸術はそういう意味でも残酷なの。いくら相手があなたをおとしめようとしても、あなたの絵を見て何を言っているのか、目は確かかと逆に鼻で笑われてしまうのよ。そんな浅はかな事を彼がするとは思えないわ」
「……髪を触られるの……ただ、それだけなのに……耐え……られないの……」
「嫌なら離れなさい」
「ウジェーヌが連れ出してくれるの……私……」
「もう、ベルト」
泣き出したベルトの涙を拭きながら、いい、と両頬を挟んで目と目を合わせた。
「ウジェーヌが好きならウジェーヌと結婚なさい。弟の恋人にあの人も流石に手を出してはこないわよ。そして画壇で成功したいのなら女の武器は使わない事」
「……そん……な武器っ」
ベルトは大きく息を吐きながらエドマと同じオークブラウンの大きな瞳を見開いた。
大粒の涙を溢れさせながらも心外だ、と目に力が入る妹に、姉は分かっている、とくすっと笑うと、その勝気な目元の涙を拭って額にそっとキスをした。
「噂が立ちやすい顔立ちをしているから気をつけて欲しいわ」
「そんなの姉さんだって」
「私はいいの。幸せなポンティヨン夫人ですもの」
「嘘ばっかり」
「ほんとよ? 寂しいのは……あの人が船で出てしまうとしばらく帰ってこないからよ」
「それは悪かったな」
「あなた!」
扉に肩をつけてこちらを見ていたポンティヨンがくっくっと笑っている。
「酷いわ! 立ち聞きなんて!」
「ああ、悪かった。面白い話が聞けるかと思ってな」
悪びれる風も無く部屋に入ってくると、さっと腰を捕まえてゆっくりとエドマの頬にキスをしたポンティヨンは、気持ちを取り戻し、落ち着いて略式のお辞儀をしたベルトににっこりと笑う。
「久しぶりの逢瀬を邪魔して悪かったな、ベルト」
「いいえ、それはこちらの台詞ですわ、義兄さま。お勤めご苦労様です」
「ああ、久しぶりにもぎ取った臨時休暇でね。明日の朝にはまた港に戻らなくてはいけないんだ。妻へのお勤めも早めに済ませて置きたいところだが如何かな? ポンティヨン夫人」
「〜〜〜〜っあなた!!」
流石に帽子とサーベルは取っているが、朱色のズボンに空色の軍服を着たままここにいるポンティヨンにベルトは頷き、真っ赤になっている姉を見てすまなそうに言った。
「当てられて気まずいので部屋に戻るわね、姉さん。夕食まで声はかけなくていいわよ。素描をキャンバスにおこしているから。じゃね、ごゆっくり」
「ベルトっ ……ちょっと、やめて下さい。今はお昼間です!」
「寂しい顔をさせない為にだな」
「寂しい顔なんてしていません!」
「怒った顔も美人なのは罪だ」
「なっ……やめ……ブランシュが起き……」
「先にキスしてきたよ。よく寝ていていたから心配ない。さあ、よく顔を見せて。寂しい顔はどんな顔かな」
「知りませんっ」
後ろですったもんだしている屋敷の当主と夫人を尻目にベルトは部屋を出ていく。
あの頑固な姉が筆を折った理由の一つを垣間見てベルトはため息をついた。
サロンの男達の求愛を歯牙にもかけず絵を描く事に没頭していた姉のハートを射止めたのが、髭もじゃの海軍将校とは。
「私はごめんだけれど、あんなに赤らむのだもの。……義兄さまが居なくて寂しいのも、事実よね」
願わくばまた筆をとって欲しいけれど、姉の意思の硬さに触れ、またあの将校の溺愛ぶりを見ると、なかなか難しそうね、と一人、呟いた。
ふと横を見ると扉の外に控えていたメイドの存在に気づく。控えめに目を伏せながら、こちらの指示を待っている彼女にバチっとウインクをすると、頭から離れない構図を吐き出すべく、客間兼アトリエへと向かった。
メイドは黙ってスカートの裾を引いてお辞儀をし、ベルトの部屋にお茶を出すべく、厨房の方へと下がっていった。
ベルト・モリゾ(1841-1895 )
フランス の印象派・女流画家
「ゆりかご」
1872年・油彩・パリ オルセー美術館所蔵
実は絵を選び切れなくて、檸檬 絵郎さまに選んで頂き、二つご紹介して頂いた絵画の内の一つを選びました。
何故この絵を選んだかと言うと、パッとみて母親が少し寂しそうなのと、鬱屈を感じたからです。
赤ちゃんを見ているのに何故この表情なのだろう、と彼女・エドマの生涯を紐解いていくと、その表情の意味がおぼろげながら見えてきたので小説におこしてみました。
お読みくださりありがとうございました。また、檸檬 絵郎さまの企画に参加させて頂きありがとうございました。この他にも素敵な絵と小説が沢山あります。
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ありがとうございました。
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この短編でのエドマとポンティヨンさんの関係をもうちょっと書きたいなぁと思い、後に長編を紡いでいきました。ベルトはこの短編よりも勝気な感じかも。
ご興味、お時間がありましたらこちらもどうぞ。
エドマは雨音と共に堕ちる
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