4.
日記その3
風間信、彼が私の歌を褒めてからというもの、ストリートライブをやっていると、聴いてくれるお客さんがだんだんと増えてきた。買い物帰りに足をとめる親子連れ、会社帰りになんとなく聴いてくれる男性、買い食いしながらの学校帰りの学生達。それから、いついつにまたここでやりますとボードを掲げておくと、必ず来るようになってくれた常連のファンの人達も増えていった。
そしてもちろん、風間君も来てくれるようになった。彼はいつもスケッチブックを片手に、私の歌を聴きながら、絵を描いてくれた。
お客さんが誰もいない日も彼は来てくれた。そんな日はお互いの歌や絵を止めて、身近なことを話した。
彼は美大に行くために毎日絵の練習をしていると言っていた。
「息詰まった時にこうやって外に出て、君の歌を聴いていると突破口が開けたりするんだ」
「突破口?」
私は首をかしげて訊いた。
「君だって息詰まったりするだろ。歌を歌う時に」
そう言われて私は自分自身のことを考えてみたけれど、それは思いつかなかった。
「私は今のところ、歌のことで息詰まったりはしてないかも」
「ええ、ほんとに?」
彼は目を丸くして私を見た。それはまるで天然記念物指定の動物を見るような目つきだった。
「ほんとにそうよ」
私も負けじにそう言うと、晴れやかに渡っている空を見上げながら、私は言った。
「だって歌っているのが楽しいんだもん。それから私の歌を認めてくれる人がいるってだけで、本当に幸せだと思う」
「君はまだ壁にぶつかっていないのかもしれないね。でもその気持ちはとても大切なことだと思うよ。僕だってそういう気持ちがないと、絵を描こうとは思わないだろうからね。でも今よりも上を目指そうとする時、壁が見えるかもしれない。僕はその壁を君の歌声に励まされて、乗り越えている。ありがとう」
私と同じ年なのに、彼はなんだか大人っぽい台詞を吐く人だと思った。
「君もいつか壁にぶち当たるかもしれない。その時僕の絵が君の力になれたらいいなと思うよ。そうなれたらいいなあ」
彼は満面の笑みを浮かべてそう言った。
私はなんだか嬉しかった。自分の歌が誰かの力になっている。それだけでも十分だったけど、彼の力になっていると思うと、とびきりな感情になった。今私はとっても幸福なのかもしれない。今日はここまで!
----------
幸せそうな百合子の日記は、みゆきの心に苦いコーヒーのような味を与えつつも、それはそれで昔の自分の姿なのだと思うと微笑ましい気もした。この時の百合子は幸せだったのだ。でも今の私は、彼の言う壁にぶち当たっているまさにそんな感じだ。もがいてかつての歌の力を取り戻そうとしている自分。
『君もいつか壁にぶち当たるかもしれない。その時僕の絵が君の力になれたらいいなと思うよ。そうなれたらいいなあ』
聞いたことのない彼の言葉が、みゆきの中でこだましていく。本当に本当に彼の絵は私の力になるのかしら。その疑問とともにみゆきはまた部屋の中をあちらこちら調べた。彼がくれたという絵が残っていないかと思ったのだ。一時間ぐらい調べた結果、手製の額に入った絵と写真が出てきた。
それは思ったよりも小さな絵だった。掌よりも少し大きめの画用紙に柔らかな光が黄色で描かれていた。その中には歌っている少女の姿があった。それはまさしく自分だった。伸びやかに恐れることを全く知らずに自信に満ちてる表情をしていた。それは既に歌手のような威厳を持っていた。そのそばには綺麗に描かれた花や木や草があり、自然とともに彼女が一体化しているようなそんな錯覚を覚えた。百合子のその姿にも、はっとした思いがあったが、彼の描いた絵自体にプロの絵描きではないかと思うほどの精巧さがあり、優しさがあった。
『今、君は壁にぶち当たっているね。でも大丈夫。だってこれが君だったのだから』
そんな声が今しがた聞こえてくるような気がした。この絵の中では百合子も風間信も生きているのだ。彼らの魂が呼び合い、その絵は作られている。みゆきはそう思った。それとは別に手元にある一枚の写真が気になった。写真はどこかの病室で撮ったらしいものだった。病院のベッドの中で一人の少女が横たわり、カメラ目線で笑っている。くったくなく笑っているその少女を間にして左右に一人の男子と百合子が、やはり満面の笑みを浮かべていた。三人は友達なのだろうか。いや、それよりこのベッドにいる少女は誰なのだろうかと不思議でしょうがなかった。そこでみゆきは階下にいる母親に訊きに行った。




