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歌うたい  作者: はやぶさ
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3.

みゆきはまたぼんやりとしてしまった。けれども心の内にじんわりとした熱い生きた塊のようなものがこみあげてくるのが分かった。


百合子は生きようとしている。記憶を失い、私は誰か分からなくなってしまったけれど、確実に百合子は私の中でいるのだ。生きようとしている、生きようとしている。そしてもちろん、今の私も生きようとしているのだ。彼女は死んではいない。


改めてYouTubeに録画した、今しがた歌った歌を聴いてみゆきは確信した。その歌はとても爽やかでみずみずしく、生きる喜びに満ちているものだった。今まで沈んでいたみゆきとは全く別の彼女がそこにいた。百合子は夢心地な子ではなかった。そんなはっきりとした感情が湧きあがってくるのと同時に、みゆきは百合子の記録をしっかりと読み解こうと思うのだった。


日記その2

今日はタンブリンを片手に、一人で公園でストリートライブをしていた。どっちかというと、ライブというより、一人で大声で気持ちよく歌っていたという感じ。だってお客さんなんて、一人もいなかったのだから。まだまだ固定客はいないけど、でも外で歌うのは気持ちよかった。五月の風が爽やかに吹いてて、空からは暖かい日差しが降り注いで、公園の花壇の花が穏やかに咲いている。私が今自分で作って歌っている歌にぴったしな情景だった。


一人で適当に歌ってたら、一人の男子が公園の地べたに座り込んで何かを描いていたの。それは水彩画のようだったけど、なんだかとっても熱心に描いてるから、邪魔しちゃいけないと思った。小さな声で歌い出したら、とたんにその男子が怒ったような顔で私の方を見たの。

 私はえっと思ったけれど、彼は突然、私の前までやってきてこんなことを言った。

「なんで急に歌声を変えたの」

私は息が止まりそうだった。だって彼は私の歌を聴いていてくれたお客さんだったのだから。だから私は絵を描いている彼の邪魔をしたくない話をした。そしたら彼はこう言った。


「そんなら、気にしないで欲しい。僕は君が素直に伸び伸びと歌っているさっきの歌い方の方が好きだ。それにそっちの方が君本来の歌声でしょ」

そう言われると、本当にそうだったから、私は何も言えなかった。

「自分の歌声を大事にした方がいいよ」

分かりきったことを言われて私は、むっとしたけど彼は私の手に彼の描いた絵をのっけた。

「それ、君なんだよ。よかったらもらってやって。えーと」

彼は私が用意してきたボードを見て言った。

「佐々木みゆきさん。さっきまでの歌声のイメージで描いたんだ。さっきの歌は僕好きだなあ」


私はまるで私自身のことを好きって言われたような気持ちになって顔が真っ赤になった。私と同じ年頃の彼は私をじっと見るとこう言った。

「またやるんでしょ。ストリートライブ」

「えっ。うんうん。いつもここでやってるよ」

「それはよかった。じゃあ、僕は行くよ」

「あ、名前なんって言うの」

「えっ、僕の名前?」

私はちょっと恥じらいながらも、彼に訊いた。彼は驚いていたけど、素直に答えてくれた。

「僕の名前は風間 まこと

「また今度もやるから聴きにきてね」

「うん、分かった。それじゃあ」

彼はそう言うと、画材を持ってどこかに行ってしまった。残された私はまじまじとその絵を眺めた。

その絵は明るい黄色の光で、私が描かれていた。微笑みながら歌っている私の周りには草や木や花が無数に描かれていた。そこには見たこともない山や滝まで描かれていた。それはまるで私が歌いながら想像していた情景そのものだった。


ここにはない大きな自然。彼は私が伝えようとしている一部を感じとってくれていた。それは私にとってとてつもないプラスのパワーだった。私の歌を分かってくれる人がいる。それだけで心が浮き立った。


歌うたいへの道は間違っていない。そう思えた瞬間だった。それもあったけど、彼の絵はとてもうまかった。実際に咲いている花と想像で描かれた山や滝はどちらも遜色なく、まさにすぐそこに迫ってくる現実感があった。そしてこれは彼の人柄かもしれないけど、見ていて心の中が、ほっこりと温かくなるのだ。穏やかで温かい。五月の日差しの中、私の心も穏やかになった。彼はきっと絵描きを目指しているのかなとふと思った。それくらい彼の絵はうまかった。私もがんばらねば! 今日はここまで!

----------


みゆきはぽつりと呟いた。

「風間信」

初めて親以外の名前の記録が、自分の前に広がり、彼女は眉をしかめた。空っぽの記憶の中から、何か湧いてこないかと、しばらくじっとしていたが、何も浮かんではこなかった。けれども百合子には男の観客がいたことが分かった。これは新たな発見だった。


みゆきはさっき録画したばかりの自分の歌声を再生し、改めて聴きながらその日記をしげしげと眺めた。最初のうちはたどたどしかった声も、そのうち本調子を取り戻し初め、透き通るような伸びやかな声が自分の耳に届いてきた。生きる喜び、自然の声。


『自分の歌声を大事にした方がいいよ』

日記に書かれていた彼のアドバイスが心にしみてくる。百合子を大事に、自分の声を大事にしていかなくてはいけない。少なくとも一人の観客、いや、私を入れると二人だろうか、その歌声に魅了されているのだから。私は私であるけれど、百合子の歌声を大事にしなければならない。


「夢心地な百合子さん。私あなたの夢を応援するよ」

みゆきは自分の部屋の天井に向かって呟いた。今この瞬間にも生き生きとしていた百合子の気持ちが部屋の中をいったりきたりしているような気がして、彼女はふっと微笑んだ。


次の日からみゆきはボイストレーニングに励み出した。というのも、みゆきの部屋にはボイストレーニングの本が軒なみ並んでいたからだ。それもあったが、PCの中にかつて百合子が歌っていた音源が入っていたのだ。


その歌声はこの間みゆきが歌ったものとは大違いだった。声の大きさも張りも、それから歌声の質感も何もかも違っていた。そのまま歌手として通りそうな声量に、みゆきはただただ驚いた。彼女はどうやってこの歌声を手に入れたのだろう。というか、私はこの声を取り戻さないといけないのだ。


でないと百合子の夢である歌うたいに到達することなど到底できない。それからのみゆきは、とにかく声の発声の練習を毎日の中に取り入れていった。複式呼吸に始まり、ハミングで音程を合わし、音のピッチを徐々に上げていったりと、黙々と歌声が少しでもよくなるようにと練習、練習に明け暮れていった。そしてその合間にみゆきは百合子の日記を読み続けた。

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