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歌うたい  作者: はやぶさ
3/16

2.

それは第四十六回のど自慢大会という垂れ幕がステージの上に掲げられ、そのステージの中央で、スポットライトを浴びて堂々と歌っている女の子の写真だった。


 これが私なのだろうか。みゆきの目は釘付になった。はっとするような青色のワンピースに肩まである長い髪。今まで見てきた写真の中の少女と違い彼女の顔は強張っていた。強張ってはいたけれどもとても真剣な目をしていた。


 みゆきは写真の中から一生懸命さが伝わって来るような気がした。それとともに背中にぞくりとしたものがのしあがってくるような感じがした。息が詰りそうな何か。この少女がその時感じたものをみゆきは一瞬共有したと思った。しかし記憶は戻ってはこなかった。


 ため息とともにアルバムを閉じると、みゆきはそれを本棚に戻した。百合子は本当のことをここに綴っている。嘘ではなかった。写真がそれを物語っているし、今何かを感じた。私はどんな声で歌ったのだろうか。そのアルプスの少女のように歌えたのだろうか。


 ふと気付くと時計の針が午後三時を指していた。三時になると母が紅茶を淹れてくれるのが日課になっていた。それは自分が子供の頃からの習慣らしく、母も紅茶を淹れないと気分が落ち着かないのだと言っていた。せっかく淹れてくれる紅茶なのだから美味しく頂こうとみゆきは心がけているのだが、母と一緒にカップを傾けても会話らしい会話はなかった。ただ午後の日差しが二人の間に光を落としているのを呆然と眺めながら紅茶をすするのが定番になっていた。


 しかし今日は違った。さっきの日記によって訊きたいことが、話したいことが出てきたのだ。まずは何を訊こうか、みゆきはさっきびりびりに引き裂いた履歴書を手早く片付けながら考えていた。そしてゴミを全てゴミ箱に入れ終ると階下から母の呼ぶ声が聞こえてきた。

「みゆき、紅茶入ったわよ」

「はーい」

大きな声で返事をするとみゆきは、さっと下へと降りて行った。

一階のリビングのテーブルでは、母が紅茶を注いで待っていてくれた。

「今日はあなたの好きなアップルティーよ」


そう言いながら、こんもりとのった手作りクッキーの皿をみゆきの前へと差し出した。みゆきは席に着くと、無言でそのクッキーを頬張った。ほのかな甘さが口の中で広がり、母の気持ちが込められているような気がした。みゆきはそれを無視するかのようにティーカップに入ったアップルティーをごくごくと飲み干した。さっぱりとした味わいがみゆきの感情を研ぎ澄まさせた。

「あのね」

いつもは会話らしい会話もない空間が一瞬ゆらめき、母は驚いたように目を見開き、みゆきを見つめた。


「私は歌手を目指していたの?」

その言葉を聞いた母の顔は、今まで見たこともないほど柔和な笑みと、しわを寄せ、震える声で言った。

「まあ、あなた。思い出したの。そうよ、あなたは歌手になりたいと言っていたのよ」

母は感激しているようだったが、みゆきは淡々と語った。

「違うの。思い出したわけじゃないの。私の書いた日記があってそれを見たら書いてあって……」

「まあ、そうなの」

母の声は小さくなり、あきらかに残念そうな気持ちが入り混じっていた。


みゆきは母の気持ちに気づかない振りをしながら、話を続けた。

「それで訊きたいんだけど、私はどんな声で歌っていた」

「どんな声って言われても……。お母さんはあなたのように歌の才能はないから表現できないわ」

「どんなことでもいいの。私の歌について何か言って」

すがるような目でみゆきは母を見つめた。母も困ったような表情を浮かべ、顔を手に当てた。


「そうね……。あなたの歌はとてもすがすがしかったわ。きれいな歌を歌ってたわ。鈴が鳴るような声で」

「鈴が鳴るような声」

みゆきは鸚鵡返しに呟いた。彼女は思わず、のど元に手をやった。鈴が鳴るような声とはいったいどんな声なのだろうか。

「もう一度歌ってみたらどう?」

母は何気なくそう言った。

「もう一度?」

みゆきは当惑気味に目を見開いた。母はゆっくりと力強く言った。

「みゆきならできるわ」

いつもはにこやかに笑いながら、その奥では困ったような表情を浮かべていた母だったが、この時ばかりは迷いなくはきはきと自信を持って言い切った。真向かいに座っていた母は立ち上がり、みゆきの席へと来ると、右手でみゆきの手を取り、左手では彼女の肩をぽんぽんと叩き、こう言った。


「大丈夫、きっと大丈夫。あなたの歌声ならなんだってできるわ」

温かい手のぬくもりが、肌を伝わり母の大きな本物の愛の手ごたえを、記憶を失って以来彼女は初めて感じとった。

「ゆっくりでいいのよ、ゆっくりで」

 母はみゆきに言いながらも、自分自身にも言い聞かせるようにしっかりとした口調で言い切った。みゆきも素直に子供のようにこくりと頷き涙が、すっと頬を伝った。そう、急ぐことはない。私は今ここにいるのだから。


紅茶を飲み終わったみゆきは自分の部屋へと行くと、早速自分の歌声を聴いてみることにした。まずは自分の部屋にあるノートパソコンを机の上にセットし、それからパソコンを起動してネットに接続してみた。そこからYouTubeの画面を開くとあとは音楽プレーヤーに自分が好きなCDを入れ、マイクを設置し準備を整えた。YouTubeの録画ボタンを押すのと同時にCDを再生する。いつもは曲を聴いているだけのCDからカラオケバージョン用の曲が流れ出す。


マイクに向かってみゆきは語りかけるようにやさしく歌い出した。今の自分の悶々とした思いと、極度に緊張した声がマイクを通して、みゆきの耳に届いていく。その一方で、母の言っていた鈴の鳴るような声が、細い繊細な声として、彼女の脳天をつらぬいていった。それはかぼそい声だったが、しっかりと一本筋の通った力強い意志を持った声だった。彼女は自分が歌っているような気がしなかった。


それはスポットライトを浴びた百合子がすぐそばで歌っている、そんな感じだった。自分であって自分でないその感覚がみゆきの身体を震わせていく。一緒に歌っている。そう思う瞬間が、重厚なメロディーラインにのせて、度々やってきた。忌み嫌ってた百合子が自分の中で息を吹き返していくのは、思ったよりも嫌なものではなかった。


ヨーデルのような歌が歌いたい! 自然を感じられる歌が歌いたい!


日記の中に書かれていた百合子の熱い思いがみゆきの中を駆けめぐり、みゆきも徐々に同調していくような気がした。

歌い終わってみると、またみゆきだけが取り残されてしまったような虚脱感が残った。今いた百合子はあっというまに消え、寂しさだけがみゆきの心を叩いていった。


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