11.
日記その10
あれから一ケ月が過ぎてしまった。真理子は病院を無事退院したということを、真理子のおばさんから私は聞いた。真理子と私が仲たがいしていることを、おばさんも薄々気づいているらしく、こっそりと私に教えてくれたのだ。何が原因でそうなったかは、知らないようだったけど、おばさんは、また家に遊びに来てねと言ってくれた。私は、はいと返事をしたけれど、まだ結局行けずにいる。
風間君ともあの後会っていない。私は気持ちがぐちゃぐちゃ過ぎて、その思いを歌に託してストリートライブで歌っていた。あのことがあってから、風間君はストリートライブに顔を出してくれなくなってしまった。それはそれで気になるんだけど、でもある意味歌だけに真摯に向き合う期間になってよかったような気がする。
真理子のことも考えず、風間君のことも考えず、ひたすら歌に打ち込んでいくうちに、私の歌の幅が広がって、もっと違ったお客さんも来るようになってきた。歌っている時は、いい意味でも悪い意味でも二人のことを忘れている。それからストリートライブ以外の、私の歌の発表の場も考えるようになってきた。
なぜかっていうと、ある有名プロダクションから名刺をもらったからだ。今度歌手のオーディションがあるから、受けてみないかと誘われたのだ。子供の頃参加したのど自慢大会のことが思い出される。あの時みたいにちゃんとしたステージで歌いたい。もっといろんな人に私の歌を伝えたい。そう思うようになってきて、私はまた風間君に相談したくなった。それもあったけど、よく考えたら、私は風間君に風間君のことが好きだということを、きちんと言っていないことに気がついた。
風間君は私の心に気づいてはいるみたいだけど、やっぱりこういうことはちゃんとしないといけないんじゃないかなあと思う。それを彼に伝えてから真理子に会って話をしたいと思った。追い返されるかもしれないけど、でも私は真理子の親友だと思っている。風間君じゃないけど、私も自分の心には嘘はつけない。真理子に何って言われるか怖いけど、会いに行こうと思う。でもその前に風間君に今日公園で会うことになっている。久々に会う彼に、ちょっと緊張しちゃうけど、がんばろうと思う。今日はここまで!
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『有名プロダクション?』
そんな人から名刺をもらった記憶は、当然ないが、とてもつもないチャンスを百合子は与えられていたことに、みゆきは気がついた。しかも日記の記述はここで終わっている。きっとこの後に事故に遭い昏睡状態になったに違いない。空白のページが百合子の時を止めていた。ここから先は私が動かないといけない、みゆきはとっさにそう思った。
百合子のチャンスを私が生かすことはできないだろうか。みゆきは、机の引き出しを開けると、その名刺がどこかに入ってないかを確かめた。一段目の引き出しも二段目の引き出しにも、それらしいものはなかったが、三段目の引き出しに、茶色の名刺入れが入っていて、その中に一枚だけ白地に黒の文字が刷られたシンプルな名刺が入っていた。
『ドリームプロダクション 吉田 華』
ドリームプロダクションといえば、有名な歌手を輩出しているところで、知識のないみゆきですら、聞いたことのあるプロダクションの名前だった。事務所の連絡先も書いてあり、みゆきはこの女の人に電話をかけてみることにした。
電話してみると、すぐに吉田華本人が出てくれた。
「吉田華は私ですが、佐々木みゆき様と言いますと、どちらの佐々木みゆき様でしょうか」
電話の向こうで不審がる様子の吉田に、みゆきは自分が以前ストリートライブをやっていた者で、声をかけられたことがあることを伝えた。そしてストリートライブをやっていた公園名をあげると、吉田はすぐさま声の調子を変えた。
「ああ、あの自然をテーマに歌を歌ってた子ね。オーディションの打ち合せをしようと思って何度も連絡したんだけど、全然つながらないし、公園の方にも行ったんだけど、ストリートライブもやってないし、どうしちゃったのかしらと思ってたのよ」
そこでみゆきは今までのことを話した。事故に遭ったこと、意識が戻らなかったこと、記憶自体もまだ戻ってはいないことも話した。
「記憶は確かにまだ戻ってないんです。でも歌声は今とりもどしているところです。曲も作ろうとしてるんです。もう一度だけ私にチャンスをくれないでしょうか。お願いします」
みゆきが必死に頼み込むと、電話の向こうで吉田がしばらく黙った。それからゆっくりとこう告げた。
「それって、歌唱力が戻ってないってことでしょ」
「そ、それは…」
みゆきが言葉に詰まって黙ると、吉田が言った。
「でもあなたの歌声はとてもすばらしかったわ。もし取り戻すことができるなら、今年のオーディションに出てみない」
「ほんとにいいんですか?」
驚きの声をあげたみゆきに、吉田は笑って答えた。
「私はあなたの歌声に惚れていたのよ。一度打ち合わせをしたいからその時今のあなたの歌声を披露してくれるかしら」
「もちろんです。お願いします」
みゆきは電話の向こうの吉田に頭を下げた。まさに感謝しても感謝しきれないというのはこのことを言うのだろう。その後、二人は、打ち合わせの日時を決めると電話を切った。
曇りがちな日常に、急に明るい日差しが降り注いできた。みゆきはそう感じた。しかしその一方でこうしてはいられないという思いも出てきた。曲を作り始めていたのは事実だったが、まだ披露できるほどのものにはなっていなかったのだ。まさに風間のいうところの、壁にぶち当たっているのが現状だった。歌詞を考えようとするけれども、なかなかいい言葉がでてこない。みゆきは家の中で、欝々としているよりかは、外の喫茶店にでも行って、歌詞を考えようと、家を出た。




