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歌うたい  作者: はやぶさ
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序章

『真っ青な空、雪山の頂きに、さわやかな風が吹いていくようなそんな歌うたいになりたい。』


春の透き通るような日差しの中、佐々木みゆきは食い入るようにその大学ノートを見つめていた。ノートの表紙には2012年3月日記と記されている。


開け放たれた窓からは時折暖かい風が入りこみ、みゆきの長い髪をばらつかせていった。しかし彼女はそんなことには一向におかまいなしに、そのノートに書かれてある言葉を反芻していた。


「歌うたい、歌うたい…。私は…。歌手になりたかったのか」

それはみゆきにとって衝撃的な事実だった。自分が誰なのか分からず、母だと名乗る人に病院で世話になり、意識が戻ったということで、家へと連れて行かれたが、自分が住んでいた記憶は全くなかった。それは浜辺で砂の城を作り、波が押し寄せてきて跡形もなく城が消えてしまったのと似ていた。

みゆきは事故の後遺症で記憶喪失になっていたのだ。自分の名前すらも忘れていた。自分はいったい誰なのか。必死に思い出そうとするが、これっぽっちも思い出すことができない。無理に思い出そうとすると頭が割れるように痛んだ。


『私は誰!』

その問いに答えるものがこの家のどこかにあるはず。そう思って彼女は自分の部屋だといわれた部屋のあちこちを探しまわった。その結果彼女は五、六冊の大学ノートの日記を見つけたのだ。それほど古ぼけていない日記の一番最初のページには歌うたいになりたいといった文章が書かれていた。


この子は夢心地な子なんじゃないだろうか…。自分が書いた文章とは思えなかったみゆきはただただ目を丸くしてその行儀よく並んでいる文字を見つめていた。そしてこの日記をつけた自分のことを百合子と呼ぶことにした。それは、日記をつけていた自分と今の自分があまりにもかけ離れ過ぎていたからだ。歌手を目指すなど今の自分は思いもつかないことだ。それどころか笑ってしまう自分がいた。歌手だなんて夢物語だ。どうやってなれるというのだ。やっぱりこの子は夢心地の子なんだ。私とは違う子に違いない。そうやってみゆきは自分の心に蓋をすることにした。そうでないと気が狂いそうだった。少しも思い出せない自分に対して、思いきり気持ちを綴っている日記だけが残っているのはなんだか滑稽に思えた。

「おかしいの」

そう呟いてみゆきは静かに一人で笑ってみた。けれども目からは水滴がぽろぽろと流れ落ちていった。


みゆきの身体は記憶以外はいたって健康だった。それもそのはず。みゆきが事故に遭ったのは2013年の8月だったのだ。今はというと2015年の4月である。約一年半の間みゆきの意識は戻らず、ずっと寝た切りの状態だった。それが奇跡的に目を覚ました。その時の両親の驚きと涙を目撃して、みゆきの心は多少なりとも心を動かされた。私の知らない人達が涙を流している。彼らは自分のことのように喜んでいる。私のことを愛おしいと思ってくれている人達。きっと彼らは私の両親なのだろう。ぼんやりとした意識の中でみゆきはそんなことを考えていた。しかし彼女は彼らに確かめなくてはいけなかった。


「私は誰ですか。あなた達は私の両親ですか」と。

 その日から奇妙な家族ごっこが始まった。この人は私のお母さんなのだ。歳は五十ぐらいだったが、眉間にはかなりのしわがあった。そのしわは私の事故のせいなのだろうか。そう思うこともあったが、母美千代はいつも甲斐甲斐しくみゆきの世話をしてくれた。家事ぐらい手伝おうとみゆきは思ったが、身体に触るからといって母はさせてくれなかった。

「そんなこといいから、ゆっくりしてなさい」

そう言われる度にどこかの家にお邪魔しているような居心地の悪さを感じずにはいられなかった。


しかし母はそんなみゆきの気持ちに少しも気づかず、日々の生活を精一杯生きることに費やしていた。娘が自分のことを覚えていないことを忘れるために。けれども母は辛い顔をみゆきの前ではちっとも見せなかった。それはまるで常に笑顔でいることを自分に課しているようにも見えた。

もっと自然でいればいいのに…。心の中で眉をひそめながらも、自分もまた感情を吐露できない現状にみゆきは苛立っていた。


穏やかに笑う母と父を見る度に本当にこの人達は私の家族なんだろうかとみゆきは度々思った。娘なんだなんて言いながら、実は血のつながらない子供なのかもしれない。そんなことを考えながら、鏡を見るとそこには長い黒髪に二重のまぶたがくっきりと映っている。二重は母親ゆずりらしくそっくりだし、すっと通った鼻すじに関しては父から受け継いだようだった。薄い唇も耳の形も白い肌もどこかしら彼らに似ている。鏡を覗き込みながら、その事実を受け止めると、みゆきはやはりこの人達は自分の親なのだと思うほかなかった。


一見平和そうに見える家の中で、みゆきは悶々としていた。何もせずにいるのは退屈でしかたなかった。もう十九歳なのだし、バイトにでも出ればいいのだろうが、自分が何がしたいのかさっぱり分からなかった。履歴書も買ってはみたが、志望動機のところで止まってしまうのだ。


自分はこういうことをしてきて、こういうものに興味を持ち、だからこの仕事に就きたいですといった文章が全く浮かんでこなかった。

それはそうよとみゆきは呟く。

「だって記憶がないんですもの」

みゆきは途中まで書いた履歴書をびりびりに引き裂くと、宙へと放り投げた。部屋の中には無数の紙がぱらぱらと舞い落ちた。彼女は高らかに笑いながらも悲しくなってきた。

『記憶がないと何もできないの』

そう思って目についたものは、机の上においてあるあの日記だった。

『あそこには私の知らない誰かがいる…』

胸の内で呟きながら、みゆきはその日記を改めて手にとった。

『読もう。私の記憶を。百合子の記録を』

そう決意するとみゆきは迷うことなく百合子の日記を開き、読み始めた。


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