不思議な人
「もう少しゆっくり歩いてくれないかな?」
彼は振り返ると、溜め息を吐いた。
「早く行かないと終わるよ。祭りっていってもたいしたことしないからさ」
彼はわたしの頼みも無視し、先ほどと同じスピードで歩いていた。彼は立ち止まると時計に目を向ける。振り向きもせずわたしに尋ねた。
「花火と屋台しかない祭りどっちがいい?」
わたしは投げかけられた言葉に首を傾げ、数秒後言葉の意味を理解した。わたしは少しだけ考えると、返事をした。
「花火かな」
数秒考えた後、そう答えた。
「じゃ、こっちのほうがいいかも。歩けるか?」
彼は今来た道を引き返す。わたしは意味が分からないまま彼の後を追うことにした。先ほどの分かれ道のところまで戻ると、先ほど選ばなかったもう一本の道を真っ直ぐ歩き出した。
どこか遠くから聞こえる車の排気音だけが聞こえる町でわたしと彼の足音が周辺に響きわたっているような錯覚を受ける。
今度は右に曲がると、右手にある森の中に入っていった。わたしも彼について森の中に入ったが、思わず肩を抱き寄せた。その森には街灯がないどころか、木々が生い茂り月明かりさえもろくに入ってきていなかった。事件に巻き込まれるのではないか。そんな不安から、わたしの足はその場に張り付いたかのように動かなくなった。
「おい、早く来いよ」
わたしの前方を行っていた男が振り向くと、わたしを見た。彼はわたしを見て溜め息を吐く。
「別に何もしないって」
「本当に?」
わたしは彼をじっと見つめる。
「そもそも、知り合いの娘に何かしたら、この辺りにはすめなくなるよ。一家そろってね。それとも、自分にはそれだけの魅力があると勘違いしているのかよ」
彼はからかうような笑みを浮かべた。
わたしの顔がかっと赤くなる。
それもそうだ。それにこんなかっこいい人がわざわざわたしに無理に手を出す必要性なんてない。
彼はわたしの左手首を掴むと、今度はゆっくりと歩き出した。その手はとても暖かく、わたしの心を落ち着かせる。全くと言っていいほど恐怖はなかった。彼に手首を捕まれているのでバランスを崩さないように気を付けながら歩いていた。
森の中は真っ暗で人気もなかった。突然暗い森に僅かな光が差し込んでいた。そこで森が途切れているようだった。
わたしと彼は森の外に出た。そこは高台になっていて下の町が一望できる。わたしはその崖をちらっと見たものの、めまいを起こし、その場に腰を下ろした。
「高所恐怖症?」
「そこまではないけど、高いところは苦手なの」
そのときだった。パーンという甲高い音が辺りに響きわたった。
するとどこかから白い光が上空に飛んできて、その光が一瞬とまったかと思うと今度は無数に散らばった。
「この近くで花火大会をやっているの?」
「少し離れたところでね。ここは穴場みたいなものだから。花火って遠くから見たほうが綺麗だろう?」
その考えにはわたしも同意だった。
「やっぱり来ていたのか」
そのとき森から声が聞こえてきた。わたしはその声に驚き、森に視線を向けた。肌の白い男性が立っていた。わたしは何かに取りつかれたようにその人を見ていた。なぜかわからないが、わたしはその人から目を離せないでいた。そして、彼はわたしと目が合うと驚いたように目を見開いていた。
数秒後には頷き、一人で何か納得してしまっているようだった。
「そっか。この子ってアレだろう? 一瞬お前の彼女かと思ったよ」
わたしはその声に思わずむせてしまった。彼女どころか名前も知らない先ほど会っただけの人だというのに。
「そういうくだらない発想止めろよ」
男は呆れたように言う。
「冗談だって」
後から現れた男は笑いながら言うとわたしから三十センチほど離れた場所に腰を下ろす。その人はわたしと目が合うと、笑顔を浮かべていた。とても優しい笑顔だった。辺りが暗いからか彼の肌の白さが際立って見える。髪の毛が柔らかそうに見え、黒より少しだけ薄い色ではないかという印象を受けた。なぜか彼を見たときは、いいようのない不思議な感覚に包まれそうになっていた。
客観的に考えれば不安に感じる状況にも関わらず、わたしの心は不安を感じることなく落ち着いていた。それは近くに森があるという状況下にいたからか、そえとも鮮やかに上空に舞い上がる花火を見ていたかからか分からなかった。
わたしたちはそれから何も話をせずに花火を見つめていた。大き目の花火が空に散らばると、辺りは一気に静寂に包まれた。月と無数の星が再び存在感を取り戻していた。
「これで最後かな」
後から来た色白の男性がそう言葉を漏らした。
「時間的にそうかもしれないな」
わたしを強引に引っ張ってきた男性が腕時計に視線を落とすと、そう言葉を漏らした。
わたしは二人の立っている中間点に向けて頭を下げた。
「わたし、帰ります」
「送っていくよ。一人じゃ危ないよ?」
幼い印象を受ける男性は立ち上がると、わたしに一歩だけ歩み寄ってきた。
わたしは彼の顔を見ると笑みを浮かべる。
「走って帰るから大丈夫です」
警戒心は不思議となかった。ただ、自分のことは自分でしないといけないという一種の義務感のようなものだったのだ。
わたしが帰ろうとしたとき、突然腕を掴まれた。わたしの腕を掴んだのは先ほどの無口な男性だった。
「俺が送って帰るから。お前も家に帰れよ」
「分かった。じゃあな」
彼はわたしの腕を掴んだまま歩き出す。わたしは体のバランスを崩してこけないように彼と歩調を合わせていた。先ほど周囲を見渡しながら歩いた道も再度見渡すような余裕もなく、わたしの意識は掴まれた腕に向けられていた。
彼はわたしの家まで来ると、わたしと視線も合わせずその場を立ち去ろうとした。
「ありがとう」
彼にお礼を言う。わたしの言葉が聞こえているのか分からないが、彼は特別反応をするわけでもなく来た道を引き返していった。