わたしは一生に一度の恋をしました1
公園の中に踏み入れると、わたしの視界を鮮やかな桜が染め上げた。
「もうそんな時期か」
分かっていたのに、改めて気づかされる。あの町を去って今年で十回目の春が訪れようとしていた。わたしはあれから大学に通い、以前通っていた中学校の近くにある企業に就職していた。
決して遠い距離ではないが、あの町には一度も足を踏み入れていない。
真一やおばあちゃんとは何度も顔を合わせたが、それもあの町とは違う場所でだ。
十年という時間はおばあちゃんの年を感じさせるには十分だった。何度かわたしと同じ町に住めないかと訊ねたが、彼女はそれを拒んでいた。やはり長年住み慣れた町が良いのだろうが、一人で生活させるには心配な歳でもあった。
今は真一がわたしと同じ町に住んでいるのにも関わらず、マメに顔を出してくれているが、彼が結婚をしたらそういうわけにもいかないだろう。
今はまだそうした予定はなさそうだが、人に頼りっぱなしではよくない。
わたしの目の前を手をつないだ男女が楽しそうな会話をしながら通り過ぎていった。
大学生くらいだろうか。そんなカップルを見るたびに、わたしの心の奥が熱を帯び、その熱が上半身に広がっていく。
わたしは髪の毛をかきあげ、天を仰いだ。
あれから、数え切れないほど泣いた。
由紀や由紀の家族への罪悪感、三島さんとのこと。苦しみは時間が経てば少なくなると言うが、そんなことはなかった。何年経ってもわたしの心を開放してくれなかった。
長い歳月を一人で過ごし、やっと母親の気持ちを実感した。なぜ母親があの後誰とも付き合うことなくわたしを一人で育ててくれたのか。辛いこともあっただろう。誰かにもたれかかりたいときもあっただろう。だけどそうしなかったのは母親にとって唯一の人に会ってしまったから。
本当に好きな人と出会うことが出来たとき、その人以外は異性でなくなってしまうのかもしれない。
もちろん個人差はあるだろうし、人によってそんなことない人もいるだろう。でも、わたしは彼女と同じ選択をしてしまった。その相手が今も自分を思ってくれているか分からないのに。
もしかするとこういった出会いのことを一期一会というのかもしれない。
ただ、好きでいるだけなら迷惑はかけないだろう。
男性にしては少しキーの高い声に名前を呼ばれた。その声を聞いて、わたしは顔を上げた。そこに立っていたのはわたしと同じくらいの歳に見える、長身の男性だった。
彼は十年前と変わらない目の輝きを今でも保っていた。
「元気だったか? 本当、昔のままだな」
真一はわたしを見て面白そうに言った。
「そんな一、二か月じゃ顔なんて変わらないって」
わたしがそう言うと、真一はまたあの頃と変わらない笑顔を浮かべた。
高校生の頃は学年が一つ下だという実感があったものの、今となってはそれさえも疑いたくなるほど彼は落ち着いていた。元気で明るい男の子から落ち着いた男の人に変わっていた。しっかりしていた内面が年齢の増加に伴って外に出てきて、年相応の雰囲気を醸し出したのだろうか。
「スーツ姿が良く似合うようになったね」
お返しとばかりに口にしたわたしの言葉に真一は笑っていた。
「僕も二十七歳だからね」
真一は弁護士になっていた。彼はこの近くの国立大学を大学卒業後、ロースクールに通い司法試験に合格した。そして、この近くにある小さな事務所に就職していた。
「それを言ったらわたしは二十八歳だよ」
わたしの言葉に真一は笑みを浮かべていた。
「ほのかは童顔だから、今でも二十歳くらいでも通用すると思うよ」
真一は本気か冗談か分からない言葉をわたしに返す。わたしは思わず自分の頬に手を当てた。
笑っていた真一の顔が突然真顔になった。
「由紀、去年結婚したよ」
由紀、その言葉にわたしの胸はチクリと痛んだ。
「相手は親父の元部下で、七歳年上の人だよ。俺も高校の時から知っている。由紀にはそれくらい年上の人がいいのかもしれないな」
わたしはその話を聞き、ただ驚いていた。
彼女が結婚をするなら、その相手は彼しかいないと思っていたのだ。
「三島さんとは結婚しなかったの?」
「由紀もどこかで分かっていたんだろうな。好きでない相手と結婚して、その結果気持ちが通じ合わなかったらどうなるのか。だからそれで良かったと思っているよ。由紀のためにも、あいつのためにも結婚は同情でするようなものではないから」
真一の言葉は暗に自分の両親のことを語っているような気がしてならなかった。
綺麗事ではなく、彼はそんな両親を見て育ってきたのだ。
真一は息を吐いた。
「由紀も幸せにやっている。だからもう気を遣うことはないよ。結局、十年経っても忘れることができなかったのだろう?」
わたしはその言葉に首を横に振った。お父さんは結局真一のお母さんと離婚したらしい。彼の地位は妻の家から貰ったものも同然だった。だから彼は離婚と同時に長年勤めた会社を退職したと大学三年のときに真一から聞かされた。それから豊かではないものの、元気にやっているようだ。真一はお父さんの決意を責めず、連絡を取っているみたいだった。
だが、お父さんは一度もわたしに会いに来ることはなかった。彼は彼なりの方法で自分の罪を償おうとしているのかもしれない。真一のお母さんは離婚後、それなりに幸せに暮らしているようだった。
三島さんはわたしより一年遅れて引っ越し先の大学に進学し、獣医学部の合格を果たしたらしい。それ以降のことは敢えて聞かなかったが、きっと三島さんなら立派な獣医になっているだろう。
結果的に彼らが幸せでも、一家の関係を壊したのはわたしだ。人を不幸にしてしまったわたしが幸せになることなどできない。それに三島さんが今でもわたしを思っているという確証があるわけでもないのだから。
「多分、あいつはまだほのかのことを思っているよ」
わたしはその言葉に驚き、真一を見た。
真一はわたしと目が合うと、肩をすくめた。
「由紀と一緒にいたのもあいつなりの義務感だったと思う。今でも彼は一人だよ。ほのかを待っているのだと思う」
わたしは真一の言葉にどう反応して良いのか分からなかった。
その気持ちに気付いているのかいないのか分からないが、真一はクスッと笑っていた。
「二人して生真面目というか、頑固というか。そんなに人のことばかり考えていたら身が持たないよ」
真一は呆れたように笑った。
三島さんにも同じことを聞いたのかもしれない。
「そうかもしれないね。でも考えを変えるのは難しいよ。一度自分を甘やかしたら、ずっと甘えてしまいそうな気がする」
「一人で今まで頑張ってきたから、か」
わたしは真一の言葉に頷く。
「厳密に言うと一人で頑張ってきたとは言えないけれど、わたしなりに頑張ってきた。だから大丈夫」
「ほのかの大丈夫は大丈夫じゃないって言っているように聞こえるよ」
そのとき、リズミカルな音が賑やかな公園に鳴り響いた。真一は一言わたしに断ると、携帯を取りだした。
「分かりました。今から行きます」
仕事の電話だろうか。
真一は電話を切ると、顔の前で両手を合わせた。
「悪い。急に呼び出し。本当はもう少し後からだったんだけど、急に来てほしいって言われた」
「大変そうだね。わたしは構わないよ。今度ゆっくりご飯でも食べよう」
「悪い」
真一は何かを思い出したのか、動きを止めた。
「まだ時間ある?」
わたしは真一の言葉に頷いた。
「今日休みだから」
「一つ、頼んでいい?」
真一は皮のバッグの中から紙袋を取り出した。それをわたしに手渡した。重みがある。本や紙類の類だろうか。
「あいつが三時くらいにここに来る。だからこれ、借りた本が入っているのだけど渡しておいてくれないか?」
あいつというのは誰か聞かないでも直ぐに分かった。
わたしは唇を噛んだ。
「由紀がほのかに謝っていたよ。ごめんなさいと伝えて欲しいって。由紀もほのかの幸せを奪ってしまったのではないかと気にしていた。ほのかがあいつと幸せになってくれることが、あいつにとっての救いなんだと思う。さっきほのかは『甘え』だって言ったけど、それくらいなら甘えても構わないと思うよ。そんなほのかにご褒美をくれたんだと思う」
「誰が?」
わたしは何気なく聞いてみる。すると真一は人差し指で自分の顔を指し示した。
わたしは思わずわらってしまった。同時に目頭が熱くなった。
いつも彼は迷うわたしに道を指し示してくれた。




